第38話 クレア編~解放される感情

 その時、アイガがまた吹き飛ぶ。


「アイガ!」


 鹿の突進をまともに受けたんだ。鋭利な刃の角が彼を切り裂き鮮血が空中を舞う。

 地面に転がるアイガ。


 私は急いで彼の下へ駆けつけた。

 額から夥しい血が流れている。

 それに額だけじゃない。鼻や口、耳からも血が出ていた。幼いながらにわかる凄惨な状態。

 加えてどんどん弱まる呼吸、冷たくなる肌。確かに死に近づくアイガに私は発狂する。


「アイガ! アイガ! 死なないで! ごめんなさい! ごめんなさい! 私の所為で! お願い! 死なないで! お願い! アイガ!」


 私の叫びにアイガはニッコリと笑った。そして立ち上がる。

 どこにそんな力があるのだろうか。幼い彼の身体はずっと震えている。

 彼は今も恐怖を感じているはずだ。


 それなのに、アイガは近くの石を拾いあげ鹿の化け物に立ち向かう。


「だ……い……じょう……」

「アイガ! 止めて! お願い! 死んじゃうよ!」


 そう叫んでも彼は止まらなかった。

 力の限り鹿の化け物に殴り掛かる。


 だけど、鹿の化け物はボロボロのアイガを嘲笑うように蹴り上げた。転がるアイガを何度も詰るように屈強な足で弄ぶ。角で斬り裂けば一撃で終わるのに、それはまるで遊んでいるようにも見えた。


 それでもアイガは立ち上がる。

 いい加減飽きたのか鹿の化け物はその刃の如き角を振り上げた。

 このままじゃアイガが殺される!


 そう思った私は無我夢中でその間に割って入った。

 遅いくらいだ。

 恐怖で動かなかった身体がやっと動いてくれた。


 鹿の化け物が首を大きく振る。ギロチンの如き振り下ろされる角が鮮血に染まる。

 瞬間、私のお腹に走る熱と痛み。

 私は臍の横辺りを斬られていた。でもこんな傷、アイガに比べれば何でもない。


 二人して地面を転がる。

 重傷のはずのアイガが先に起き上がった。そして私の傷を見て絶句する。


 私も遅れて起き上がる。痩せ我慢したままニッコリとアイガに笑ってみせた。

 でもきっとわたしは泣いていたと思う。笑ったつもりだっただけだ。


 その後ろからゆっくりと鹿の化け物が近づいて来る。

 私は結局何もできていない。

 アイガも守れていない。

 また私を守ろうと鹿の化け物の前に仁王立ちするアイガ。


「アイガ!」


 血塗れの身体。鹿の化け物に弄ばれたためか彼の身体はもうズタボロだ。

 右手は折れてあらぬ方向に曲がっている。

 身体中の肉が抉れ、血が流れ、白い骨が見えている部分もあった。

 呼吸もおかしい。普段聞いたことが無いような音が響いている。

 痛みで立つことすらままならないはずなのに、アイガはどっしりと立っていた。

 耐えられない激痛や死への恐怖を感じているはずなのに、それらを一切感じさせずアイガはいつものように私を守ってくれる。


 あぁ、どうしてこうなったんだろう。

 アイガは何も悪くないのに。


 私は自分への怒りとアイガを失う悲しみの間で慟哭することしかできなかった。

 それを嘲笑うように鹿の化け物は咆哮を上げ突進してくる。

 私たち二人諸共殺す気だ。


「五月蠅い……」


 この時私の中にどす黒いものが産まれる。

 母親に殴られた時も、学校で虐められた時も、感じなかったそれは爆ぜるように一気に大きくなっていった。


 自分に対する怒り、アイガを失う悲しみ、そしてアイガを殺そうとする化け物への憎しみ。

 それらが心の中で混ざり合う。


 これは……

 

 殺意。

 

 初めて何かを心の底から『死ね』と強く思った。

 呪うほどに、固く、強く、激しく念じる。それは私の心を黒く、深く、濃く、焦がしていく。

 その殺意を持って私は鹿の化け物を睨んだ。


「五月蠅いんだよ!」


 私は叫んだ。我武者羅に、強く、強く、力を込めて。初めて喉が千切れるほどに、腹の底から殺意をぶつけるように叫んだ。


 途端に目の前が急に真っ白になった。

 眩い光に包まれるように、全てが白に染まる。

 

 数瞬して辺りを見渡すと川岸の砂利も綺麗になくなり、私の目の前にあった川も消えていた。


 アイガは私の前で倒れていて、鹿の化け物もいなくなっている。


 私の心を焦がす殺意も消えていた。

 溢れる涙は止まらず、身体の震えも止まらない。けれど僅かに広がる満足感。

 私はそれを感じつつ倒れるアイガに寄り掛かった。もう鹿のことなんてどうでもよかった。


 それよりアイガだ。


「アイガ……アイガ……もうあの化け物いないよ……ごめんね……ごめんね……ねぇ起きて……アイガ? アイガ…… アイガぁぁぁあああ!」


 アイガの身体は完全に冷たくなっていた。夥しい出血が地面に広がり、生気がどんどんと失われていく。何度呼び掛けてもアイガは起きてくれない。意識がない。目を開けてくれない。


 私は泣き叫んだ。心の底から、懺悔と後悔をしながら、泣き叫んだ。

 それでも私はどうすることもできなかった。


 アイガを救うことなんてできない。


 私の所為なのに。

 私が卑怯な女だったから。

 全部私の所為なんだ。

 アイガが死んでしまう。


 その事実が私の心をどんどんと奈落へと堕としていった。

 絶望が私の心を壊していく。


 そこへ。

 一人の女性が現れた。


 白い髪を後ろで括った雪のように白い肌の女性。

 赤い瞳で綺麗な顔立ち。

 右肩と右手、胸と腰に白銀の鎧を身に着け、それ以外は動きやすそうな恰好。腰には剣が携えられている。


 明らかに日本人じゃない。欧米の白人を思わせる顔立ち。それにその装束は御伽噺にでてくる騎士にしか見えない。


 だけど私にとってそれらはどうでもよかった。

 女性は丘から滑り落ちるように降りると私たちの前で止まる。


「助けて! 助けて! ください……お願いします……」


 私はその人に懇願した。心の底から、懇願した。

 私はどうなってもいい。

 でも、アイガだけは救ってほしかった。助けてほしかった。

 だから何度も私はその人に「助けて」と叫ぶ。 


 その人が誰でも良かった。

 悪人だろうが、犯罪者だろうが、人殺しだろうが、何でもよかった。

 アイガを助けてくれるなら。


 だから私は力の限り叫ぶ。


「助けてください! お願いします……」


 その人は黙って私たちを見ていた。私の言葉が届いていないのか、不安になったけれど私は懇願し続ける。


 少しして……一言だけその人は言葉を発した。


「異邦人……」

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