第37話 クレア編~私は卑怯な女

 私は眼を覚ます。

 瞬間、風の揺籃に抱かれていたかのような何とも言えない心地良さが私の身体を包んだ。

 

 そしてゆっくりと起き上がる。

 

 そこは川辺だった。

 ついさっきまであった舗装された道路などなく、コンクリートの欠片すら存在しない世界。

 空を見上げれば月の形は満月だ。ほんの少し前に見た三日月が幻だったのかと思うほど綺麗な満月。

 

 一瞬で月齢が変わることなんてあり得ない。

 

 ここはどこ?

 私の頭は少しだけ混乱する。

 

 しかしその混乱は心の最奥から込み上げる歓喜によって瞬時にかき消された。


 これは夢?


 そう思いながら私は自分の頬を抓る。痛い。やっぱり夢じゃない。

 歓喜は狂喜に変わり心の中で爆発した。


 わけのわからない状況なのに、私は舞台女優の如くオーバーに手を広げ、肺いっぱいに空気を吸い込む。

 美味しい。希望に満ち溢れた世界の空気は本当に美味しかった。 


 あの地獄から抜け出せたんだ。もう誰も私を虐めない。苦しませない……

 辛く憂鬱だった日々からの脱却。それだけで私の胸は弾んだ。


 根拠なんて全くない。それなのに私の中に確信に近いものがあった。


 ここがどこかなんてどうでもいい。場所が変わろうが、月が変わろうがどうでもいい。新しい世界。それだけで魅力的だった。


 そして私はしっかりと力強く、記念すべき一歩を刻むように大地を踏み抜く。

 一つ一つがオーバーであざといリアクション。それだけ私は興奮していたんだ。


 ここはどんな世界が広がっているんだろう。私はやっと生まれ変われる!


 漠然とした期待感に私は目を輝かせた。


「クレア?」


 不意に私を呼ぶ声。

 その瞬間私の背中を怖気が襲う。

 振り返るとアイガが小高い丘から降りてきた。


「え? なんで?」


 夢から醒めたような感覚。

 どうやらアイガも私を追ってあの穴に入ったようだった。だから彼もここにいたのだ。

 私より早く目覚めたアイガは周囲を見て回っていたらしい。


 そういえばと思い、私が横たわっていた場所をみると綺麗に石が避けられている。きっとアイガがやってくれたんだろう。


 私とは対称的にそのアイガは凄く不安そうだった。

 頻りに辺りを見渡し、いつも勇ましい彼の姿はなく、年相応の怯えた表情。今にも泣きだしてしまいそうなそんなアイガの姿なんて今まで一度も見たことがない。


 アイガに酷い言葉を掛けた私は合わす顔が無かった。逃げたくてここへ来たのに、アイガがいることで逃げられないと思ってしまった。

 私はすぐにその場から消えたくなる。怯えるアイガを放って川上へと歩を進めた。


 本当に卑怯な女だ、私は。


「あ、待って……待ってよ、クレア!」


 アイガは私の後を追いかけてくる。

 私は無言を貫き川上を目指した。

 別に理由はない。ただその場にいたくなかっただけ。


 川の潺とアイガの咽ぶ声が響く中、少し歩くと開いた場所に出た。

 そこで私とアイガは立ち止まる。


 私達の目の前には一匹の獣がいた。

 鹿だ。


 図鑑やテレビで何度か見たことのある鹿。

 でも大きさが全然違う。


 車くらいの大きさで熊みたいな筋肉。貌は鹿のようだけど、その口には肉食獣の如き牙が乱立していた。

 角はスケート靴を逆さにしたような刃になっていて、それが月明りに照らされて鈍く光る。


 その鹿は私たちを見ると睨み、口を開いて嘶いた。


 本能で理解する。


 こいつは敵だ。


 冷や汗が頬を伝う。無意識に一歩たじろいだ。そして後ろにいたアイガにぶつかる。

 横目でチラリと覗くとアイガは泣いていた。あのアイガが。その姿を見て私の心に雷が落ちたかのような衝撃が広がる。


 鹿が再び嘶いた。その声に私の意識と視線は鹿に戻る。

 視線が合い鹿がニタリと嗤った気がした。


 明確な殺意。


 今まで笑顔で私を虐めてきた人間の顔とも、事なかれ主義の教師たちの顔とも違う。

 それは母親が私を殴るときの顔とそっくりだった。


 その瞬間、私は動けなくなる。まるで思い出の中の母親が私を縛り付けているような感覚。


 鹿の化け物はまた軽く嘶いて、私達目掛けて突っ込んできた。

 私はまだ動けない。

 さっきまであんなにワクワクして高揚感に包まれていたのに、純然たる殺意を向けられて、それに母親の姿を重ねてしまい、馬鹿な私は恐怖で何もできなかった。


「クレア!」

「え?」


 そんな私をアイガが突き飛ばす。

 砂利道を転がる私に代わってアイガが鹿の突進を受けた。


「アイガ!」


 アイガは映画のワンシーンのように吹き飛び、川に落ちる。

 鹿はアイガに目もくれず、私を睨みつけた。


 あぁ、ダメだ。殺される。結局ここも同じ地獄だったんだ。私は幸せになれない。変われない。


 そう思った。

 鹿の化け物は突進せずゆっくりと私に近づく。怯える私に全力を使うまでもなかったんだろうな。


 そしてその咢を大きく開く。生臭い臭いと人を殺せる鋭い牙が私の恐怖をさらに加速させた。

 私は涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。でも母親の呪いの所為か叫ぶことができない。私は歯をガチガチ当てて無様に震えるだけ。


「やめろ!」


 そんな私をアイガがまた守ってくれた。

 いつの間にか川から上がり、その川底にあった石で鹿の足を思いきり殴る。

 予想外の痛みか鹿が暴れるけど、アイガは気にせず持っていた石を両手で思いきり鹿の顔面に投げつけた。

 その一撃は見事に決まり、鹿は怯んでたじろぐ。


「あ、あ……」


 ありがとうって私は叫びたかったし、アイガが生きていてうれしいのに言葉が出ない。

 私は涙を流しながら助けてくれたアイガを見る。


 彼は血塗れだった。

 喧嘩で出来た傷なんて目じゃないくらい。


 それもそうだ。

 化け物の突進をまともに受けて、凄まじい衝撃のまま川に落ちたんだから。

 きっと骨折や脱臼も沢山していたと思う。臓器にだってダメージがあったかもしれない。


 そんな満身創痍の状態でアイガは私を助けてくれた。

 まだ私と同じ十歳の子供なのに。我慢できないはずの痛みに耐えて、私達を殺そうとする化け物に立ち向かう。


 自分だって怖いはずなのに。

 アイガはいつだって私を助けてくれる。


 施設の友達を失っても私と一緒にいてくれた。

 自分が傷つくことも厭わず私を虐めから守ってくれた。

 得体のしれないモノに飛び込んだ私についてきてくれた。

 アイガは出会った時からずっと私を守ってくれている。


 なのに……


 私は彼に酷い言葉を浴びせ、逃げて、結局また傷つけた。

 そんな自分が本当に大嫌いだ。母親と何一つ変わらない。卑怯な女。身勝手で自己中心的で最低の女。それが私だ。

 私はそれに気づき、やっと……やっと……泣き叫ぶ。


「あいがぁ……」

「大丈夫……必ず……守るから」


 力なくアイガはそう言ってくれた。

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