第32話 迷い

「しゃおら!」


 無我夢中で放つ乾坤一擲の一撃。


 だがそれはまたもや空振りに終わる。

 アサルト・モンキーが止まったのは呼び水だった。格下を弄ぶカウンターへの呼び水。

 アサルト・モンキーは仰け反るようにして俺の攻撃を躱していた。

 そのまま下卑た嗤いを俺に見せつける。

 この上なく嘲笑した表情が一気に近づいた。

 嗤いながら身体を戻し、その反動で俺を仕留めるつもりだろう。猿の両手が大きく開く。


 拳で殴るか、掌底で叩くか、爪で裂くか、或いは全てか。


 どれでもいい。何故ならそれも俺は読んでいたのだから。

 ここに来て、猿知恵如きで惑わされるわけがない。


 この右のストレートは捨て石だ。

 俺は引手だった左手を加速させる。

 強引に体勢を戻すことで筋肉が叫んだ。俺はそれも無視する。激痛など慣れている。あとでいくらでも痛がってやる。だから今だけは俺の身体よ、言うことを聞いてくれ。

 カウンターを決めるつもりで放った俺の右手は完全に伸び切っていない。その右手を急いで引き戻し、アサルト・モンキーの攻撃をガードした。


 アサルト・モンキーのカウンターの軌道は俺の顔面だ。それだけはわかった。

 ガードは間に合う。


 しかし、爆弾が炸裂でもしたかのような激痛が右手に走った。勢いも殺せず、右手が顔面に直撃する。

 嫌な音が二つ重なり響いた。

 一つは俺の右手が完全に砕けた音。もう一つは俺の鼻が折れた音。

 右手から肉と血が花火のように飛び散り、鼻血が噴き出す。


 だが、俺は生きていた。

 アサルト・モンキーは驚いている。

 猿の腹に俺に左拳が突き刺さっているのだから。

 これによりアサルト・モンキーの攻撃は途中で止まらざるを得なかった。故に俺は右手と鼻の骨折程度で済んだのだ。


 確実に伝わる氣の流動。

 猛毒の氣がアサルト・モンキーに流れ込む。


「きしゃあああああ!」


 血反吐を撒き散らすアサルト・モンキー。その顔にはもう先ほどまでの余裕は無くなっていた。そのまま頭を垂れるように、土下座をするように地面に崩れ落ちる。


 勝った。


 そう思った瞬間、走る激痛。

 アドレナリンで麻痺させた全身の痛みを軽く超える看過できない痛みの電流が脳を襲う。


 その痛みは腹からだった。

 俺は視認する。そこには俺の腹を穿つ土塊があった。堪らず膝を突く。


 アサルト・モンキーを改めて見ると両手を地面に置き魔法を発動させていた。地面には五芒星の黒い光が浮かび上がっている。

 その五芒星の頂点の部分の地面が抉れていた。

 アサルト・モンキーが魔法で地面の土を抉り弾丸を生成したようだ。それが俺の腹に突き刺さっている。


「がふ! な……なに?」


 理解できなかった。

 確かに氣は流し込んだ。


 何故、アサルト・モンキーはその状態で魔法が使えたのだ?

 本来なら血反吐を吐いてのた打ち回るはずなのに。魔法を使う余裕など無いはずだ。


 アサルト・モンキーはゆっくりと立ち上がる。口からは血が垂れているが、それだけだった。ダメージらしいダメージが見受けらない。


 見誤ったのか?

 氣の量が足りなかった?


 それか……考えたくはないが氣術が不完全だったのか。

 氣の量が少ないと大したダメージにはならない。上級以上の魔獣相手なら尚更だ。致死量にするには時間をかけて氣を捻出する必要がある。


 しかし、今は量も質も完璧な氣を生成できたはずだった。

 氣が効かないもう一つの可能性は対魔法使いの場合だが……

 魔法使いは己の身体に魔法を施すことである程度氣の流れを変動させてダメージを緩和できる。そのやり方がわかっていなくても本能的に氣を理解し抗う術をその場で見出す。


 それが優れた魔法使いだと師匠が言っていた。

 つまりこれは魔法使いと戦う時だけの懸念。


 魔獣にそんなことはできないはずだ。何せ氣の存在そのものを知っている個体がいないはずだから。それにそこまで器用に魔法を使えるわけがない。


 兎にも角にも、現時点で俺の氣はアサルト・モンキーに通じなかった。


 俺はゆっくりと立ち上がる。

 そこへ飛来する拳。


 アサルト・モンキーの強烈な右ブローをまともに受けた。

 脳味噌が揺れる。


 俺はそのままダウンした。

 土の弾丸を受けた腹から流れる血が地面を染め、意識を遠のかせる。

 アサルト・モンキーの攻撃力は明らかに下がっていた。本来の力なら今の一撃で俺は死んでいるはずだ。


 一応、氣は効いているようだが、斃すには至らなかった。

 理由はわからないが俺の負けだ。完敗だ。


 せめてクレアだけでも逃がさなければ。

 俺は最後の力を振り絞って時間を稼ごうとした。


 その時、ドーンと大きな音が木霊する。

 アサルト・モンキーも驚き、その方角を見た。

 クレアを封じていた土塊が吹き飛び、灼熱の熱風が吹き荒ぶ。クレアが魔法で土塊を弾き飛ばしたのだ。


 彼女の赤銅の髪が怒髪冠を衝くが如く重力に逆らって伸びている。可愛かった緑の髪留めが弾け地面に転がっていた。


「やめろぉおおおお!」


 クレアは雄叫びと共に拳銃をアサルト・モンキーに向けて放つ。

 真紅の弾丸が凄まじい速度で白銀の猿を撃ち貫いた。が、それは残像だった。

 アサルト・モンキーはクレアの背後に瞬間移動する。


「クレア!」


 俺の叫びに反応して振り返るクレア。だが、そこに猿の裏拳が見舞われた。


「きゃ!」


 地面に倒れるクレア。頬から猿の爪による斬撃の跡がありそこから赤い血が一筋流れた。


 プチ。


 何かが俺の中で弾ける。


 呼び起こされる記憶。

 ここではない深く暗い森。流れる川。大声で泣くクレア。何もできず倒れる俺。

 それはかつての記憶。

 また色が消える。

 白と黒の世界。

 泣き叫ぶ君を俺は力なく見守ることしかできなかった。

 何もできなかった忌まわしき敗北の記憶。

 血塗れで泣くクレアだけがしっかりと色づく。


 心の楔が激しく震える。

 俺は誓っただろ。もう二度と彼女に傷をつけさせない。泣かさない。


 それがどうだ?


 いらぬ意地のせいでまた同じ過ちを繰り返すのか?


 思い出せ。

 俺は何のためにここへ来た。


 クレアを守る。

 俺はそのためだけにここにいる。

 それ以外は何もいらない。不要だ。

 例えクレアに嫌われようと、守れればそれでいい。


 そうだろ?


 月神藍牙!


 俺は痛みを忘れ立ち上がった。


「エテ公!」


 俺の叫びにアサルト・モンキーが反応する。


「てめぇ……許さねぇぞ……クレアを……傷つける者は……誰であろうと! 何人であろうと! 許さねぇ!」


 俺はもう迷わない。

 ズボンの後ろポケットからある物を左手で取り出した。これが最後の切札だ。そして最大の奥の手でもある。


 それは掌に収まる長方形の物体。

 トリガーのようなスイッチが二つある。まずは人差し指でスイッチを押した。長方形の物体の先端から針が飛び出す。同時に数滴、液体も零れた。


「アイガ? なにそれ?」


 クレアの質問に俺は答えなかった。答えられなかった。


「ごめんな、クレア。でも必ず君を守る。必ず助ける」


 それだけを言って俺は躊躇わずにその針を首筋に打ち込む。


「アイガ!」


 クレアの叫びを無視して俺は親指で最後のスイッチを押した。俺の体内に液体が流れ込む。

 同時に目の前の景色が歪む。体内に流れる液体の脈動が血管を通じて感じ取れる。呼吸は荒れ、肉体が軋んでいった。


「はあああぁああぁぁああああ!」


 俺は雄叫びを上げ、天を仰ぐ。そして起動の言霊を唱えた。


「獣王武人……」

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