第25話 鼎談

 外に出たアイガは廊下を千鳥足で進む。

 ふらつきながら、骨の無い生き物が陸で無理矢理歩いているかのような足取りだった。

 

 途中、渡り廊下に出ると柵に捕まりながら倒れ込む。

 今にも泣きだしそうなほど落ち込む姿は遠目から見ると自殺志願者のようにも見えた。


 彼の頭の中に浮かぶのはクレアとの楽しい思い出ばかり。


「なんで? なんで? なんで?」


 彼女に拒絶されるなど微塵も思っていなかったアイガの心に去来する計り知れない絶望。

 心がボロボロに破砕され、意識を根こそぎ喪失させられ、身体から全ての力が消滅させられたかのような感覚。


 最早何もする気が起きない。

 それでもシャロンから渡された黒い封筒を握りしめ立ち上がる。


 だが、何故彼女がいる場所へ向かうのかアイガ自身もう分かっていなかった。

 強いて挙げるならば使命感。


 しかし、その使命感も徐々に薄れ始めている。

 アイガはヨタヨタとシャロンがいる学長室を目指した。途中、吐瀉物を撒き散らしそうになり廊下の隅で何度も蹲る。本当に彼が魔獣を斃したのかと思うほど弱々しい姿だった。


 普通なら五分も掛からず着くような場所にある学長室に二十分も掛けて辿り着いたアイガ。

 部屋の前で休憩し擦り切れている雀の涙ほどしかない体力を回復させる。


 そこへ僅かに学長室から声が聞こえてきた。

 怒声にも思える激しい声。扉を閉め切っているのに聞こえるということは大音声なのだろうか、アイガは聞き耳を立てる。

 亡失されていた体力と気力が一瞬で回復した。


「この声は!」


 アイガが勢いよく扉を開く。

 部屋の中にいたのはクレアだった。赤銅の髪を振り乱し一心不乱に抗議している。

 その向かいには『学園長』と書かれた札のある豪奢な机に座り優雅に紅茶を嗜むシャロンがいた。


「クレア!」


 満面の笑顔で入室するアイガ。

 それをキッと睨むクレア。


 その睥睨で再びアイガの心がガラス細工のように砕けた。口から魂が飛び出しているかのような無力感丸出しの顔で硬直する。


「なんでここにいるのよ! アイガ! というか、先ほどから申し上げていますが! どうして、アイガがこの学園にいるんですか!? シャロン先生!」


 アイガを見て燃料が投下されたのかクレアの怒りの抗議がさらに熱を帯びる。


「それは先程から何度も申していますように彼はここにいる資格を手に入れたからですわ」


 対するシャロンは逆に冷静で幼児を宥めるように優しく答えていた。それでいてクレアの抗議を気にせずティーカップに新しい紅茶を勢いよく注ぐ。


「そんなわけありません! 彼は魔力が無いんですよ! 魔法が使えないんですよ! だからこのディアレス学園に入れるわけないじゃないですか!」


 対照的な二人だった。


「魔法ではない別の力が彼にはあるのですよ、それもとびっきりのが……ね」

 クレアの猛抗議もシャロンは全く動じず、淹れ立ての紅茶を一口啜る。

 クレアはそれでも烈火の如く怒り続けていた。

「ですから!」

「まぁまぁ、落ち着きなさい。アイガも来たことだし一旦説明させてほしいわ」


 シャロンはクレアに向かって手を翳す。その先には部屋の中央にある来客用の革製の椅子があった。そこに座るよう促すシャロン。


 憤怒の疲れか息の荒くなっていたクレアは肩で呼吸しながら渋々その椅子に座った。

 ただ、まだ怒りの業火は消えていない。


「ほら、貴方も」


 シャロンは次いで入り口付近で固まるアイガを無理矢理クレアの隣に座らせる。


 そこでアイガの意識が再び戻った。


「クレア……」


 小さくクレアの名前を呼ぶもクレアは完全に無視していた。

 アイガの心がまた砕け散りそうになるが必死に耐える。


 シャロンはそのまま二人分の紅茶とお茶請けのお菓子が入ったお盆を用意し、二人の目の前にあるテーブルに置いた。そして自分のティーカップを持ってクレア達の向かいにある椅子に座る。


「さて、まずはクレアさんの質問に答えましょうか」

「答えもなにもアイガはこの学園ではやっていけませんよ! 魔法が使えないんですよ! なんで入学できたんですか!?」


 再三繰り返されたクレアの抗議。

 彼女の怒りの炎がまた激しく燃え始めた。


 しかし気にせずにシャロンはお茶請けのお菓子を一つ取る。それは何の変哲もないビスケットだ。丸い形をしているプレーンなタイプである。


「『何故入学させたのか』という質問には答えられませんが、『何故入学できたのか』という質問にはお答えします」


 頓智のような言い回しにクレアは一瞬たじろいだ。

 アイガは依然として呆けたままである。


「ここに通う学生は皆さん優秀な魔法使いです。将来的には立派な魔術師か魔導士になるでしょう。勿論貴方もね、クレア」


 二コリと笑うシャロン。

 その意図が理解できずクレアは困惑した。


「さて、貴方はこの丸いビスケットです。小麦粉から作られたお菓子です。で、アイガはこちらです」


 シャロンは持っていたビスケットをクレアの前に置き、別のお菓子をお茶請けから取り出してアイガの前に置いた。


 それは小さなチョコレートだった。


「ビスケットとチョコレート。全く別のものです。一方は小麦粉。一方はカカオから作られます。でも今は同じお茶請けの御盆の中に入っています。この状態でこれは何ですか、と聞けば殆どの人が『お菓子』と答えるでしょう」

「説明になっていません。アイガがチョコレートだとしてもお菓子の仲間入りはできません。彼には魔力がありません。カカオのままですよ!」


 クレアの反撃にシャロンは想定通りだったのかまた笑う。


「えぇ、そのままカカオなら、当然お菓子ではありません。だけど彼は五年の歳月で進化しました。立派なお菓子ですよ。変わった作り方のチョコレートなだけです。それは甘くはないかもしれません。ですがビターでお茶請けにピッタリなお菓子なのです」


 シャロンはアイガの前にあるチョコレートをひょいと口に入れた。口内に広がるほろ苦さと隠し味の微かなオレンジの香りは甘い紅茶にぴったりな味だった。


「それに……昨日、現れた魔獣の一匹を斃したのはアイガですよ」


 唐突なシャロンの一言。

 その一言にクレアは驚く。


「え? アイガが?」


 そしてクレアの顔が曇った。彼女は思い出す。

 確かにアイガに抱き着かれたとき、その肉体に宿る筋肉の厚みを感じた。それはまるで鎧にそのまま抱かれたかのように錯覚するほど。


 だからといって鍛えた程度で魔獣に勝てるわけがない。それほど魔獣とは怖ろしく強い存在なのだから。


「魔獣を斃せるほどアイガは強くなったのです。彼に魔法はいりませんし、代わりにアイガは今、四つの力を宿しています。それは……」

「シャロン!」


 今まで抜殻のような状態だったアイガが鬼気迫る表情で立ち上がり、シャロンを制止した。


 そこにいるだけで蝕まれてしまいそうになるような途轍もない殺気が放たれる。

 あまりの鬼気迫る迫力とその純然たる殺気を浴びて、抗議に来ていたクレアは混乱しながら黙るほかなかった。


 クレアの思い出にいる嘗てのアイガからは到底考えられない姿がそこにはあったのだ。


「失礼。言いすぎましたね。このことは貴方が決めることでした。座りなさい。アイガ」


 そんな殺気を受けてもシャロンは眉一つ動かさず優雅に紅茶を飲む。


 一方でシャロンの言葉にアイガは従った。が、未だ殺意は零れている。

 先程の呆けていた姿とは全く違うその様にクレアは少し混乱していた。


「さて、話を戻しましょう。とどのつまりアイガは魔法に代わる新しい力を手に入れたのです。それを見込んで彼をこの学園に入学させました。既に魔獣を斃していることからそれは疑いようのない事実です。これで良いですか? クレア?」

「でも! それでも! アイガは!」


 クレアは言葉に詰まる。頭にある言葉が上手く口に出せないようだ。

 今まで殺意を剥き出しにしていたアイガもその殺意を消し、心配そうに彼女の顔を覗く。


 クレアは泣いていた。必死に泣くのを我慢していたようだが、堪えきれず涙がぽたぽたと彼女の頬を伝い流れ落ちる。


「え? クレア? え? え?」


 その衝撃に今までの激情を忘れアイガは右往左往していた。

 クレアはポケットからハンカチを取り出し、涙を拭う。彼女はそれ以上言葉を発しない。感情が止められず理性的に話すことができないと本人が自覚しているのだ。


 ただ抗議の意思を捨てたわけではない。涙目になりながらシャロンを見据えていたのだから。


 勇ましくも儚いクレアの姿を見てシャロンは飲んでいた紅茶を置き先ほどまで自身が座っていた豪奢な机に向かった。その机に引き出しから数枚の紙を取り出し二人の前に並べる。


「貴方は心配なのね。アイガのことが。なら確かめればいいわ。彼がこの学園にいるべきなのかどうかを」

「へ?」

「は?」


 クレアとアイガは同時に声を発した。二人ともその言葉の意味が分からずポカンとしている。


 ただアイガだけは嫌な予感を犇々と感じていた。

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