第179話 雨は止んで……
「わ!」
そこにはクレアがいた。
俺が当然振り返って驚いたのか後ろにこけそうになっている。
「クレア!?」
俺はとっさに彼女の右手を掴んだ。
そのまま彼女の柔肌をそっと引き寄せる。
それに伴って近づくクレアの身体。
不意に香る馨しい彼女の香り。
百花繚乱と咲き誇る花畑を想起させるほどの美しい香りが俺を惑わした。
もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。そうだったら恥ずかしい。俺はとっさに顔を下に向けた。
クレアは制服のローブではなく、白いワンピースを着ている。
初夏に相応しい爽やかな色合いだ。
上に羽織るオフホワイトのカーディガンのような服もよく似合っている。
清楚。
その一言に尽きる。
雨上がりの空が祝福するかのように、雲間から零れる陽光が彼女のためだけに降り注いでいた。
そう錯覚するほどクレアの出で立ちが綺麗だったんだ。
有体にいえば、可愛かった。
そんなクレアが泥に塗れずに済んだことに俺はホッとする。
「あ、ありがとう……アイガ」
まだ手を握っていることに気づく。
急に恥ずかしさがこみ上げ、その手を放してしまった。途端に後悔の波が押し寄せてくる。
「クレア、どうしてここに?」
俺は羞恥を誤魔化すために、質問した。
まぁ気になっていることではあるのだが。
ただ自分でも驚くほど、声は上擦っていた。
「え……と……きょ……今日、お休みだから街を散策していたの。本当はサリーとかも誘いたかったんだけどもうすぐ中間試験だから邪魔しちゃ悪いと思って一人で遊びに来ていたんだけど。そしたらアイガを見つけて。ちょっと驚かそうと思ったのに、逆にこっちが驚かせられちゃった」
クレアが悪戯っぽく笑う。
その笑顔に俺の中にあった感傷などという感情は塵埃の如く消え去っていった。
「それにしても……なんで後ろに私がいるってわかったの?」
「え? あぁ、クレアの匂いがしたから」
正直に俺は答えた。
途端にクレアの表情が曇りだす。
「え!? 匂い? 私匂う?」
クレアの顔が少し青ざめていた。
俺は己の失言に気づく。
「違う! 違う! 俺、鼻がいいだけだから。ほら、変身すると狼になるだろ? その能力の副産物で普段から鼻がいいんだよ。だからクレアの匂いがわかっただけ」
滑稽なほど必死に取り繕う。
この言葉は本当だ。
獣王武人の能力の一つ、嗅覚の鋭敏化。
その力は通常の状態の俺にも影響を与えている。と、いっても他人よりちょっと優れている程度で犬並みの嗅覚というわけではないのだ。
俺の説明を受けて、クレアの顔に安堵が広がる。
「なんだ、びっくりした。もう、二回も驚かせないでよ」
クレアはそう言いながらにっこりと笑う。
あぁ、もうなんでもいいや。
おっと、クレアの可愛らしさに脳が一瞬思考放棄してしまった。
「ねぇ、アイガ、時間ある? ちょっと一緒に街を歩かない?」
「ん? いいよ。行こうか」
クレアからの申し出に平静を装うが心臓は爆発しそうだった。
俺は何気ないふりをしながらクレアの横に並ぶ。
雨上がりの世界が煌めいていた
それは雫によるものではない。
俺の心が世界を輝かせているのだ。
二人で歩くだけで、時間がゆったりと流れるような気がした。
世界が祝福してくれている。そんな気がしていたんだ。
雨上がりの町は活気に溢れていた。
その中を二人で歩く。
自然と頭にはデートの文字が浮かんだ。
これほど心が躍るものはない。
いつも見る風景も違うものに見えてくる。
濃淡も彩もより鮮やかだ。それこそ眩しいほどに。
この時間が永遠に続けばいいのに、とがらにもなく思ってしまう。
ちらりと望むクレアの横顔。
赤銅の髪が風に戦ぐ。
耳に掛かったその髪を撫でおろす一連の仕草に俺の心は囚われた。
「あ、あれ何かな?」
クレアが指さしたのはジュースの屋台だ。
レクック・シティの道路脇のスペースには偶に屋台が出ていることがある。
屋台も色んな種類があり、アイスクリーム屋や今のようなジュース屋。他にもおかず系の肉を焼いたものもあった。
「俺、買ってくるよ。クレアは待ってて」
俺の一言にクレアが笑顔になる。
「いいの?」
「いいよ」
俺は小走りで屋台に向かう。
ジュースを奢る程度の金は持ち合わせていた。
屋台についたところで俺は気付く。
クレアの好みを聞いていない。
しまった。
焦りつつ、屋台のラインナップを眺めた。
基本的なフルーツは前のいた世界にあったものとあまり違いはない。
イチゴやバナナ、オレンジといったポピュラーなものから、全く見たことのない果物。それらが綺麗に置かれている。
店主らしきお姉さんが「どれにしますか?」と優しい声色で訪ねてくれた。
逡巡していると、「これとか今が旬でおすすめですよ」と勧めてくれる。
あまりクレアを待たせるのも悪いと思い、俺はそのお勧めで手を打った。
二人分のジュースを買って、クレアが待つ方へ向かう。
クレアは屋台から少し離れたところにいるはずだった。
しかし、彼女の姿がない。
俺は少し当惑しながら辺りを見渡す。
すると……
発見した。
クレアは道路の横にある広場のような場所にいる。
俺の背筋に悪寒が走った。
クレアは誰かと揉めていたからだ。
その相手は……
巨躯。
身長は二メートルくらいか。
コーンロウの髪型が厳つい。その髪型の所為か身長はさらに高く感じる。
そして筋骨隆々。
パーシヴァル先生と同等かそれ以上のはち切れんばかりの筋肉が剥き出しにされていた。
その上から革ジャンを着ている。浅黒い肌の腕には無数のタトゥーが彫られていた。
足も皮のズボンを履いているがその上からでもわかるほど屈強な筋肉だ。
サングラスを掛けているから素顔はわからないが、酒に酔っているのか顔色が赤い。
現に彼の右手には酒瓶があった。
絡まれている。
クレアが。
俺は走った。
「クレア!」
「あん?」
睨む男とクレアの間に割って入る。
男からは酒の匂いが爆ぜるように漂っていた。
この瞬間、悪寒が確信に変わった。
この男、強い。それも圧倒的に。
ただの酔っ払いじゃない。
近づいてわかる。凄まじい戦闘力。
厳つい見た目、浅黒い肌、酒の匂い。
全てを忘失するほどに、この男は強かった。
脳内で警報が響く。
間違いない。
俺よりも数段以上、上にいる存在だ。
「この人、さっきからナンパしてて女の人が困っていたの。ちょっと注意しただけなんだけど……」
クレアも相手の力量をわかっているようだ。
微かに声が震えている。
獣王武人を
否、もう迷うことはやめたはずだ。
例え、街中だろうとクレアを守るためなら躊躇などない。
ただ、一つ懸念することがあるとすれば……
果たして、獣王武人を使ったとしても、勝てるかどうか……
この男は、それほどまでに強い。
俺は己を奮い立たせて眼前の男を睨む。
男は酒を飲みながら俺たちを見ていた。
その振舞は正しく酔っ払いだ。
それなのに俺の頭には勝てるイメージがわかない。
一つ言えることは……
確実にあのアンドレイより強いということだ。
戦わずにここまでわかるのはそれだけ戦力差があるということ。
「アイガ……」
クレアの祈るような声が響いた。
その声が俺の闘争心を煌々と燃やす。もう迷いはない。憂いもない。
俺はクレアを守るために拳を握った。
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