第168話 オリエンテーション 52
パーシヴァルの背に蟲が這うような、ドロリとした気持ちの悪い冷汗が流れた。
嘗て己を苦しめたロバートの
ロバートの口元には金属製のマスクが現れている。
それは彼の痩せこけた顔の下半分を完全に覆っていた。
マスクの口の部分は鳥の嘴のようで、鋭く尖っている。宛らアイガたちが元々いた世界の、中世ヨーロッパ時代にあったペストマスクの如く。
嘴の部分はそれほど長くない。三十センチほどだ。
全体的に黒い。光沢のない嫌な黒さだった。
ロバートの目が鈍く輝く。
瞬間、マスクの嘴が開いた。
中にあったのは筒だ。銀色に輝く筒が内包されていたのだ。その筒には孔が規則的に開いている。
ロバートが息を吐いた。
同時にそこから凄絶な怪音波が放たれる。
「ぐぅ!」
音波を浴びたパーシヴァルの貌が苦悶に満ちていった。
その音はそれほど苛烈だったのだ。
否、苛烈とは少し違うかもしれない。
その音は不快なのだ。只管に不快。まるで脳そのものを弄られるような、そんな不快さを出していた。
黒板を直に引っ搔くような、金属製のフォークと皿が擦れるような、本能が忌避する音がパーシヴァルの耳を、脳を、精神を侵していく。
その様を見て、ロバートはけたたましく嗤った。
そしてその都度、マスクから不快な怪音波が発射され続ける。
「どうした? どうしたぁ!? 無様だな! 無様すぎて可哀そうだよ、パーシヴァルぅ!」
嘲笑い、自尊心を満たすロバート。その病的なまでの煽情性がパーシヴァルの矜持を踏み躙っていった。
また、その不愉快な言葉と重なって不快な音波も撃たれ続けていく。
肉体的にも精神的にもパーシヴァルはロバートの攻撃によって痛めつけられていった。
この上ない屈辱がパーシヴァルの心で怒りとなって燃えていく。
その時、パーシヴァルはロバートの魔法を思い出していた。
利己的で他者を嘲る性格のロバートにその契約魔法はピッタリだった。
発動すればそこから奏でられる不協和音によって相手の精神を削る。
その音は対象者が嫌う音を自動的に導き出し、相手に襲い掛かるという魔法だった。そのため複数の相手に発動しても各自で聞こえる音は異なる。
不協和音は相手の耳から脳へと伝わり、魔力を司る精神を直接攻撃するのだ。
やがて音は相手の行動を制限し、阻害し、結果魔力そのものを削いでいく。
常に自分の嫌な音が響き続けるだけでも精神を病むが、それは如実に確実に精神力を削っていき、魔法を使えなくしていくのだ。
つまり凶悪な
それがロバートの契約魔法だった。
パーシヴァルは歯を食いしばる。彼の視線は今、ロバートの背後に立つものに注がれていた。
そこにいたのは
灰色の襤褸を纏い、微かな死の匂いを漂わせる。
見える手足は青白く、か細い女性のものだった。
顔の髑髏からは乱れた長い黒髪が靡いている。
その顔は仮面などではなく、本物だ。ケラケラとパーシヴァルをバカにするかのように笑っているのだから。
バンシー。
それがロバートの契約している幻獣だ。
その契約によって齎された
嫌な魔法を嫌な者が使う。またこれほど、この魔法が似合う男というのもロバート以外には思いつかない。
そうパーシヴァルは思っていた。
直接、音の魔法を発動して攻撃してくれるなら正面から防御することはできるだろう。
だが、ロバートの契約魔法はそうではない。
音を巧みに操り、鼓膜から相手の脳を攻撃するという嫌らしい搦め手なのだ。それ故に防御が難しい。
空気中の震えを完全にシャットダウンするなど不可能だからだ。
防御と回避が難しく、戦いが長引くほど相手はどんどんと弱っていく。その姿を見て嘲笑いながら弄び、殺す。
ロバートの性格も相まってその戦法は恐ろしく、そして下品だった。
単純な戦闘力だけなら武術を極めたパーシヴァルのほうが上だ。
だが魔法のセンスはロバートが上だった。
その上で二人の総合的な実力は拮抗している。
ただ契約魔法の性質だけが全く違った。
相手を斃すことに重きを置いたパーシヴァルと相手を嬲ることに重きを置いたロバート。
お互いにその矜持、理念、信念、性格は全く相容れず正に水と油であった。
何度もぶつかった。
本気で闘ったこともあった。が、それはあくまで護衛部隊の規律内でのこと。いうなれば喧嘩だ。
しかし、今は違う。
殺し合いだ。
それも本気の殺し合いだった。
「ぎぃ!」
パーシヴァルが鉄球を投げつける。轟音をかき鳴らしながら鉄球がロバートに向かっていった。
ただ、その速度は明らかに落ちている。
「遅い! 遅いぞぉ! パーシヴァル!!」
ロバートは左手を前に翳した。
「風魔法『
その左手から竜巻が生み出される。その竜巻の先端は龍の貌をしていた。
風の龍は勢いよく飛び出す。
そのまま咢を大きく開き、空中にてパーシヴァルの鉄球を飲み込んだ。
カチっと音がして、鉄球が爆発する。
しかし、破壊を齎す爆発は風の龍の体内にて消化されてしまった。
「くそ!」
パーシヴァルは即座に鎖を戻す。
「遅いんだよ!」
鎖が戻ると同時に鉄球を喰らった風の龍がパーシヴァルを猛襲した。
「ぬぅ! 『
それにも怯まずパーシヴァルは叫んだ。凄まじい火炎が彼の右手に宿る。その右手でパーシヴァルは張り手を直接風の龍に見舞った。
バァンという轟音と共にその一撃は見事に決まる。
右手の炎は一気に膨れ上がり、風の龍を焼き尽くした。
そこへ。
ロバートがラッパの銃を撃つ。
見えない音の塊がパーシヴァルに着弾した。
「ぐぅああぁああ!!」
当たった瞬間、その箇所が弾ける。
皮膚が裂け、血飛沫が舞った。
パーシヴァルは二、三歩たじろぐ。
掠れる視界で相手を睨んだ。
ところが、そこにロバートはいなかった。
目を見開くパーシヴァルは鎖を一気に排出し、自身に中心に螺旋状に回した。
「『
技を発動した次の瞬間、パーシヴァルの背後で爆発が起きる。
パーシヴァルはすぐさま、後ろを振り向き、構えた。
そこにはラッパの銃を軽快に打ち鳴らすロバートがいた。その表情は自慢の攻撃が防御されたことに対する怒りが滲んでいる。
灼撃装甲。
それは己の周囲に鎖を這わせ、相手の攻撃がその鎖に触れた瞬間自動で爆発し防御するパーシヴァルの自慢の技だ。
「グレンデル!」
パーシヴァルの叫びに呼応してグレンデルが吠えた。
その咆哮がパーシヴァルの契約武器のモーニングスターに伝播する。
「『
パーシヴァルは思いきり鎖を投げた。
鎖の先端に鉄球が生み出される。
そのまま中空にて爆発した。
「なんだ!?」
夥しい鉄屑が、熱された爆炎が一気に広がる。
鉄屑のカーテンと爆炎の陽炎がロバートの視界を塞いだ。
ロバートは咄嗟に後ろに跳ぶ。
遅れて悪寒がロバートの背筋を這った。
ロバートが今までいた場所に鉄球が落ちてきたのだ。
「な!?」
爆壊衝弾。
空中にて一旦鉄球を爆破させて鉄屑と爆炎で相手の視界を封じた後、速攻で再生させた鉄球で相手を破壊する技だ。
これはロバートが知らないパーシヴァルがカーリーガンの戦いの後に生み出した魔法の技である。
故に完全に対応することができなかった。
だが、腐っても嘗ては優秀な戦士だったロバート。
その歴戦の勘は鈍ってはいなかった。
その勘が彼を救ったのだ。
否、まだ救ってはいない。
何故ならパーシヴァルの攻撃はまだ終わっていないのだから。
「破!」
パーシヴァルの声が木霊する。瞬間、ロバートの眼前にあった鉄球が爆発した。
何度も見た鉄屑と爆炎がロバートを襲う。
「くそが!」
爆発のためか砂埃が舞う。
焦げた匂いのする黒い砂埃だった。
数秒して砂埃は砂塵となって空に消えていく。
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