第154話 オリエンテーション 38

 誉れ高きガードナー家の次女として生まれ、貴族としての誇りを胸に私は生きてきました。

 幸か不幸か……

 私は……サリー・ガードナーは、これまでの人生の中で、これほど醜く卑しい生き物を見たことがありませんでした。


 元同輩のモーガン・シャムロックに対して悍ましい、嫌悪の感情は抱いたことはあります。それが人生で一番だと思っていました。


 しかし現実は違いました。

 彼はまだ人間という認識がありました。その上で嫌悪の感情に至ったのです。


 ですが、現在、眼前にいるこのアンドレイという男には最早その感情すらもありません。

 嫌い、という言葉の範疇を越えているのです。


 けだもの

 その表現が適切かもしれません。


 何故なら同じ人間とはどうしても思えないからです。

 傲慢と言われても仕方ありません。が、理性も品性も皆無。己が欲望に忠実。それはもはや獣でしょう。


 それに等しい存在を目の当たりにして私はこれを人間とは認めたくないのです。


 凶悪。粗暴。低俗。最低。愚物。

 この獣に対する評価はそんなものばかりです。


 それなのに……

 私はこの獣に勝てませんでした。


 悔しい。ただただ悔しいのです。

 最早、私の脳裏にある罵詈雑言は負け惜しみでしょう。


 腹が立ちます。相手の強さにも、自分の弱さにも。


 だからでしょうか、私の目には涙が滲んでいました。


 私の契約獣であるアルラウネの能力は『鉱物の錬成』。

 それは、アルラウネの能力範囲内にある鉱物を別の鉱物に錬成する力。質量も変えられます。


 ただ、質量が増えるほど、また鉱物の変化が著しいほど私の魔力と時間を消費します。


 そこは限界がありました。

 正直、この砂と石と多少の植物しかない小島では私の能力は弱体化しています。変化させられる元の鉱物が少なすぎて能力が発揮しきれません。


 せめて向こうの島なら。

 いえ、これは言い訳です。一流の魔術師なら場所を選ばず百パーセントの実力を出さなくてはいけませんから。


 私は……常に後れを取っていました。

 アサルト・モンキー相手にはデイジー先生が上手く立ち回ってサポートしてくれました。


 ですが、この野蛮な相手にはそれが通じませんでした。

 デイジー先生が倒れた今、私しか戦える人間はいない。


 それなのに……

 私まで捕まってしまいました。


 一瞬の隙を突かれ、私は今この男に首を掴まれ宙に浮いています。

 全体重が首にかかり、息苦しい。痛い。


 でもそれ以上に敗北の苦味が私を覆いつくしています。

 同時にこの野蛮な獣の視線が私を苦しめていました。

 迸る嫌悪感は耐え難く、強く、深く、濃く私を嬲るのです。


 ただ……

 それ以上にデイジー先生をお助けしたいと思っていました。


 敗北してなお、この獣に私達の助命を懇願された。それがどれほど屈辱に塗れているか。

 同じ戦士として、女性としてこれ以上ない辱めです。


 この上、この後にくるかもしれない最悪の未来を想像すれば……

 反吐が出ます。


 そんなこと絶対させない。させてはいけない!

 そう思ってペンデュラムを動かしますが、その度にこの獣は私を掴む首に力を入れてきます。


 全て読まれていました。ダメ……見た目以上にこの男は鋭い。

 どうすれば……どうすれば……


「さっきからぁ~何をしようとしてるぅ~? 先にお前からやっちまおうかぁ~」


 唾棄すべき視線が私を射貫きました。


 瞬間、全身に悪寒が走ります。

 女性を女生と思わない愚者の視線がこれほど醜く、気色悪いものだと私は初めて知りました。


 やはり、これは人から発せられるものじゃない。

 獣という曖昧な言葉すら適切ではありませんでした。もっと卑屈でもっと厭悪すべき存在。


 汚物。

 それが一番しっくりきます。

 その汚物に対して、私の中に巣食うこの形容しがたい感情。


 これが憎しみ、というものなのかもしれません。

 この世で最も忌み嫌う汚物にすら勝てない自分。


 本当に情けない。

 私は勝てない。

 先生を救えない。


 アイガさんもロビンさんも助けられない。

 私はクレア様みたいになれない……


 クレア様……

 ダメ……


 私の中に諦念が生まれます。

 その所為か、涙が頬を伝いました。


 その時です。


「ぐあ!」


 突然、私を掴む男が後方へ飛んだのです。

 同時に私は空中に投げ出されました。


「きゃ!」


 自分の情けない悲鳴を聞きながら私は空中を舞いました。


 そして。


「すまん、サリー」


 雄々しい声が聞こえました。

 その瞬間、私の心に光が宿ったのです。これは、安堵なのでしょうか。


 涙がまた零れます。でもこれは先ほどとは違う涙のような気がします。

 気が付けば私はアイガさんに抱えられていました。


 逞しい腕に人外の相貌。

 それは変身したアイガさんの姿でした。


 人狼。

 アイガさんが変身した姿がそこにありました。


「ア……アイガさん!」


 アイガさんはそっと私を地面に下ろします。


「アイガさん……宜しいのですか?」


 アイガさんはこの姿になることを躊躇われていたはずです。

 幾度となく葛藤されている場面を見ていましたから。


 嘗て……

 私はこの姿を見て、恐れ、アイガさんをクレアさんから排除しようとしました。

 私の恥ずべき愚行。


 それを思い出して私は奥歯を噛みました。


「大丈夫だ。ここからは俺が出る。サリー、デイジー教諭とロビンを頼む」


 アイガさんはそう言って私に背を向けました。


「アイガ……なのか……その姿……一体……」


 デイジー先生が驚きの表情でアイガさんを眺めています。どうやらデイジー先生もアイガさんのこの姿を知らなかったようです。

 デイジー先生の慄く視線は嘗て私がアイガさんに向けたものに似ていました。


 その視線にアイガさんは一瞥もくれず、相手を睨んでいます。

 その佇む姿は物悲しそうでした。同時に、これ以上なく頼もしく思えたのです。


 今ならわかります。

 クレアさんの気持ちが。


 私は涙を拭いました。

 次いで見据えます。これから起こるであろう闘いを。

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