第109話 封魔戯闘ーその五

 ……

 ……

 ん……

 ここ……は?

 ……

 ……


 靄がかった景色が……

 徐々にクリアになっていく……


 脳はゆっくりと覚醒し、俺は徐に身体を上げた。

 あぁ……俺は今寝ていたのか。


 記憶が混濁している。

 夢を見ていたような気分だ。


 痛みが響く。それなのに、俺のまだ微睡んでいた。

 苦みが広がる。それが何の味なのか思い出せない。


 俺は周囲を見渡そうとする。


 その時……


「アイガ!」

「え?」


 横から急にクレアが抱き着いてきた。


「え? え?」


 心臓が鼓動を激しく刻む。

 脳が沸騰しそうになった。

 意識の覚醒にブーストがかかる。


 一瞬で俺の脳と精神と身体が正常を通り越した。

 甘い匂いが香る。

 人肌の温もり。

 柔らかい触感。


 いや、そんなこと考えている場合じゃない。


「え? クレア?」

「良かったぁ~大丈夫?」


 涙目のクレアの顔に俺は照れてしまった。

 今、俺の顔は真っ赤に染まっていると思う。


 クレアはそっとそんな俺の頬に触れた。

 また照れてしまうが、そこで気が付く。


 そうだ。

 俺はパーシヴァル教諭と封魔戯闘をして……

 敗北したのだ。


 最後はどうなったのか覚えていない。

 賭けに出た宵月流殺法術『華月禍刃』が効かず、右足を掴まれ地面に叩きつけられた。

 その後、何かしらの攻撃を受けたと思う。ただ何の攻撃だったのか全くわからない。


 そして、そこから記憶がない。

 殴られたのか、絞められたのか、極められたのか、また投げられたのか。

 全く覚えていない。


 ただ、負けた。負けたのだ。

 その事実だけが俺の心に緞帳のように降りてきた。


 痛みが敗北を身体と心に刻み付ける。

 苦みは血の味と共に敗北の味だ。


 覚醒した今、自分が敗北者だという事実だけが突き付けらる。

 まるで判決のように。


 仕方ない。

 相手は教員だ。

 それに元王都護衛部隊八番小隊副隊長。

 勝てるわけがない。


 一般の生徒が勝てるわけなどないのだ。

 寧ろよくやった。

 そうわかっていても悔しさは拭えない。

 ベッドの布団を握る手に力が籠った。


 敗北の痛みは身を削り、抉る。

 敗北の味は苦く、苦く、耐え難い。


 もしクレアがいなければ情けなく泣いていたかもしれない。


「気が付いたのか?」


 不意にレオノーラ教諭がベッドのカーテンを開けて入ってきた。


 そうかここは保健室か。

 そう言えば今寝ているベッドは保健室のものだ。

 敗北後、俺はここに運ばれたわけか。


「診察したところ怪我はなかったよ。パーシヴァル先生が回復魔法を掛けたみたいだから君の身体は無傷の状態だし。まぁゆっくりしたいならしていけばいいさ。もう授業は終わっているからね」

「え?」


 無傷?

 怪我をしていないのか?


 では、この痛みは?

 この苦みは?


 幻覚?


 否、現実だ。


 身体が覚えていた敗北という現実を魂が俺に訴えかけているのだ。

 どうやって負けたのかもわからないほいどお前は惨敗したのだ、そう魂が教えてくれていたのだ。


 痛みと苦みとして。


 そんな折、レオノーラ教諭の言葉が引っ掛かった。

『もう授業は終わっている』


 俺は時計を探す。

 壁に掛かった時計はすぐに見つかり時間を確認した。

 ん?


「あれ? 俺、三時間も寝ていたのか?」

「そうだよ」


 クレア横から水の入った水筒を渡してくれた。

 俺はそれを受け取り一口飲む。

 冷たい水が身体に染み渡る。


「ん? じゃあクレア、ずっといてくれたのか?」

「うん。だって心配だもん」


 なんだろうか、クレアに寝顔を見られていたのは少し小恥ずかしい。

 居た堪れなく鼻の頭を掻く。


 俺は立ち上がった。


「もういいの?」

「あぁ。別に骨が折れたわけでも肉が拉げたわけでもないしな」

「でも……」


 俺はにっこりと笑ってクレアを安心させる。

 クレアはもう何も言わなかった。

 俺はストレッチをして自分の身体を確認する。


 問題ない。

『二日月』の反動のダメージで痛めた足も既に痛みは消えていた。

 口の中も綺麗に再生している。

 歯も折れていない。


 全く問題なかった。

 レオノーラ教諭に礼を言って、俺とクレアは保健室から出た。


「はぁ~でも良かった。アイガが無事で」

「あぁ」

「だって走りながら見ていたら、アイガとパーシヴァル先生が急に闘いだすし、挙句アイガが地面に叩きつけられたんだよ。びっくりしたよ。咄嗟に迦楼羅天を使おうとしちゃったわ」

「え? 使ったのか?」


 迦楼羅天はクレアが契約する幻獣だ。

 人語を理解し、自らも人語を放す前代未聞の幻獣である。

 その力は凄まじく、迫りくる瓦礫を一瞬で砂に変えるほどの力を持っていった。

 俺がいた世界における近代兵器、ミサイルを放つことができるというとんでもない契約魔法である。

 そんな迦楼羅天には弱点があった。


 弱点……というほど大仰なものではないのだが、使うとクレアの上半身の服が弾け飛ぶのである。

 あの時の情景が脳内でリフレインされた。

 上半身が裸で顔を赤らめるクレアの姿が。


 他の人間にクレアのそんな姿を見られるのは何故か嫌だった。

 そう思うと、心に言いようのないドロリとした滑りのようなモノが生まれる。


「使ってないよ。でもパーシヴァル先生に文句は言ったけどね」


 クレアは少しムッとした表情になっていた。

 クレアがパーシヴァル教諭に挑む情景が容易に思い浮かんだ。

 嘗てシャロンに抗議していたあの烈火のようなクレアの姿だ。


 兎にも角にも迦楼羅天を使っていないならよかった。

 まぁ、教師に挑むのもアウトといえばアウトか。


「パーシヴァル教諭は何か言っていたの?」

「『済まない』って言って、アイガに回復魔法を掛けてくれたよ。その後はアイガを保健室に連れて行ってくれてたの。私もついていってそのまま保健室にいたからあの後どうなったかは知らないけどね」


 成程、そういうことか。

 経緯はだいたいわかった。


 俺は殴られた頬を撫でる。

 もう治癒しきっていた。

 口の中の血の味もなくなっている。


 だが、敗北の味は残っていた。

 魂はまだ俺に訴え続けているようだ。


 強くなりたい。

 その気持ちが俺の中で静かに広がった。

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