第95話 もう一つの決着 その一

 男は怒りに狂っている。


 切歯扼腕。その言葉通りだった。

 歯は割れんばかりに食いしばり、腕……厳密には拳だが、それは血が溢れんばかりに握りしめられていた。

 怒りが零れ、まるで陽炎のように揺らめている。幻覚、と言われればそうだろう。

 

 しかし、幻覚とは思えない迫力が男から放たれている。


 男は長い銀髪を後ろで束ねていた。

 左目は潰れている。隻眼だ。瞼の上を額から縦一文字の疵が走っていた。

 強面。

 その言葉が似合う貌だった。

 鬼と言われれば納得してしまいそうになる。


 貌だけではない。

 身体もまた鬼と呼べるほどのものであった。

 身長は二メートルを超える。まさに巨躯。

 上半身は素肌に羽織という出で立ち。その羽織には桜吹雪の刺繍が施されている。


 見える筋肉は高密度、高純度の塊だった。もう、これ以上鍛えることができないというまでに鍛えこまれたその筋肉は見るだけで相手に畏怖を与える。


 首は太い。胸は厚い。腹は固い。腕は逞しい。手は大きい。

 そんな肉体だった。


 一切合切余計なものを削ぎ落したであろうその筋肉も顔と同じで疵が奔っていた。

 いくつも、いくつも。

 斬られた疵。刺された疵。抉られた疵。削がれた疵。

 まるで勲章のように刻み込まれた疵の数々。

 それが男の筋肉を彩る。


 そんな男の右の眼から放たれるは殺気。純然たる殺気はそれだけで人を殺せてしまいそうなほど強い。


 一歩、一歩、踏み拉くように歩く姿は本当に鬼を彷彿とさせた。


 男の名は、パーシヴァル・ドライヴァー。


 そんな彼が歩くは廊下。

 深淵に続くかのように長くそして窓がない。

 黒い木でできた真っ直ぐな廊下だ。黒が続く。どこまでも黒が、続いていく。


 同じ造りの繰り返し。

 光源は一定の間隔で地面すれすれに置かれた燭台にある小さな蝋燭だけだ。仄暗い。

 故に遠近感が狂う。

 精神が壊れてしまいそうなほど不気味な廊下だった。

 宛ら地獄へ続くかのような道。


 そんな場所を鬼のようなパーシヴァルが歩くのだから、もうそこは地獄なのではないか、と錯覚してしまう。


 パーシヴァルは怒っていた。その怒りを殺意に変え、歩いているのだ。


 何がいけなかったのか?

 パーシヴァルは考える。


 ことの発端は?

 パーシヴァルは考える。


 アイツか? アイツの存在が原因なのか?

 パーシヴァルは考える。


 どうしてこうなったのか。

 パーシヴァルは考え、そして辞めた。

 起きてしまったことをいくら考えても仕方がない。起きてしまったのなら、起きてしまったことを対処すればいい。


 そういう考えに至った。


 では、対処とは?

 原因を排除することだ。


 パーシヴァルはそう結論した。


 全てを狂わせた原因を排除すればいい。

 シンプル・イズ・ベスト。


 計画は頓挫した。いや、元々計画といえるほどのものじゃなかった。

 ない頭を使って必死に考えた計画があった。

 それが水泡に帰した。


 だが、それよりも……

 パーシヴァルには許せないことがあった。

 それが怒りに拍車をかける。


 彼は不意に立ち止まった。

 廊下の突き当りだ。


 そこは、特段なにもない場所。

 窓も、扉もない。

 黒い木製の廊下の突き当り。


 そこに一人の学生がいた。

 怯えた眼で男を見ている。


「ひぃ!」


 学生は悲鳴を上げた。

 足は震え、怯えた眼でパーシヴァルを見ている。


 一方でパーシヴァルは睨む。その視線が学生を射貫いた。

 学生は奇声を上げながら助命を請う。


 だが、パーシヴァルは一切聞く耳を持たない。

 睨み、そして徐に距離を潰した。


 一歩、一歩、重く、深く歩を進めた。

 間合いに入る。


 そこで彼は一旦、足を止め、学生を殺意のこもった眼でもう一度睨んだ。

 殺意を一面に浴び、学生は怯えて震えている。

 パーシヴァルは握りしめていた拳を頭の高さまで上げた。ボクサーのような構えだ。

 右手はやや前に。左手は顔の近くに。


 数秒の間。


 堪らず学生がパーシヴァルに向かっていった。

 ひ弱そうな学生だ。

 貧弱で貧相。

 眼鏡を掛けた顔は全く戦うというイメージを持つことができない見た目だった。


 窮鼠猫を噛む。

 それを信じての玉砕覚悟の特攻に見えた。

 誰がどう見ても勝負の行方は決まっている。


 パーシヴァルはそう思っていた。

 突然、圧倒的優位にいるパーシヴァルの脳裏に雷鳴の如き衝動が奔る。


 油断も隙も無い。

 怒りに震えているが自我は保っている。


 一撃、この貧相な学生の顔面に握り込んだ拳を叩きこめば即、決着だろう。

 歯を砕き、鼻を折り、脳漿をぶちまければいい。

 至極、簡単な作業だ。

 パーシヴァルに躊躇いはない。

 それでも彼は己の脳に奔った雷鳴の如き勘に従った。

 根拠など無い。幾千の戦場を駆け巡って手に入れた勘だ。これまで幾度、この勘に助けられた。


 だからこそ、この勘を信じる。

 それで十分だった。

 パーシヴァルは構えたまま、バックステップで距離を取る。


 瞬間、彼の目の前に獣の咢が現れた。

 巨大な咢だ。咢だけの存在。

 眼、鼻などはない。無論耳もない。喉もない。

 牙はある。舌もある。涎もあった。


 だが、喉はない。

 まさに咢のみ。それが身長二メートルを超えるパーシヴァルを優に呑み込めそうなほど大きいのだ。

 その咢が上と下から、トラバサミのように喰らいつく。


 もし、パーシヴァルが勘を信じずに突っ込んでいたら、今頃上半身と下半身が分かれていたことだろう。


「貴様!」


 パーシヴァルの怒号が轟く。

 そして、巨大な咢は霧散して消えて行った。

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