第91話 決着 その八

「ダメ!」


 不意に俺は、背中に温もりを感じた。

 クレアだ。

 クレアが俺に抱き着いていた。


「ダメ! アイガ! それ以上はダメだよ」


 その顔は儚くも美しい。

 そして啼いていた。大粒の涙を流していた。


 モーガンの蛮行が自分に向いていたと知った時以上に、クレアは啼いていた。

 殺意が消えていく。その空いた部分に何かが埋まっていった。


「ダメだよ……アイガ……お願い……そっち側にいかないで……人を殺さないで……」


 そうだ……

 その言葉に俺は漸く己の心に埋まった何かを理解した。


 悔恨だ。


「……」


 俺は黙る。

 そう、これは化け物退治じゃない。


 いつの間にか、モーガンを化け物だと思い、憎しみのまま退治しようとしていた。

 違う。


 どんなに醜くても、憎くても、モーガンは人だ。

 俺は人を殺すところだった。躊躇いもなく、この爪で、転がる猿の屍と同じように、殺そうとしたんだ


 一線を越えるところだった。

 超えてはならない一線。

 超えてしまえば二度と戻ってこられない。


 人殺し。

 その言葉を理解した時、身体が鉛のように重くなった。

 心が泥に塗れ、コールタールのように纏わりついて、地獄の如き暗闇が覆う。


 だが、まだ線は超えていない。

 ギリギリで踏み止まれた。否、踏み止まらしてくれた。


 差し込んだ一筋の光によって。

 クレアのお陰だ

 クレアが止めてくれた。引き戻してくれた。


 人を殺す。

 その先にあるのは修羅の道だ。


 俺は深く嘆息し、左手からモーガンを放した。

 モーガンは地面に落ち、虚ろな目で俺を見上げている。


「済まない。クレア」


 やっと言葉が漏れた。


「ううん。良かった。アイガ……」


 クレアは俺の上着を持っている。俺はそれを受け取り、腰に巻いた。


「丹田閉塞」


 祝詞を呟き、獣の身体から人の身体に戻る。


 青白い煙の中、クレアが笑ってくれた。

 久方ぶりに見る偽りのない笑顔だ。

 その笑顔が俺の心を癒す。


 危なかった。本当に。

 躊躇いもなく俺は一線を越えるところだった。


 二度とこの笑顔が見られなくなるところだった。

 それは何よりも俺には怖かった。


 今になって悔恨の震えが手足を侵す。

 クレアが俺の制服を再生してくれた。それを受け取り、俺は素早く着替える。


 その間もモーガンは俯いたままだ。


 決着の時。


 そう感じていた。


「どうして……」


 モーガンが不意に何かを呟く。

 小さくて聞き取れない声だ。


「どうして……」


 やがて聞こえたその四文字。

 俺は警戒してクレアの前に立つ。


「どうして! どうして! 僕はこんなに!!」


 狂気が残った眼で俺とクレアを瞠目するモーガン。

 しかし戦意はない。覇気もない。まるで玩具を買ってもらえない駄々っ子のようだった。


 ただ、戦う術と抗う意思を失ってなお、残るその滓の如き狂気は未だ健在だった。


 そして。

『どうして』の続き。その先の言葉を俺は知っている。

 お前はそれを言うつもりなのか? 自爆する気なのか?

 それは文字通りの意味ではない。


 ここまで俺ですら黙っていた真実の最奥。

 例え、敵と言えどそれを他人が暴露していいいのか。そう思い口にしなかった真実。

 それを自ら暴露する気なのか。


「どうして! 僕は君を……」


 モーガンの目から大粒の涙が零れる。血の混じった、しかし純粋な涙だ。


「愛しているんだ……こんなに愛しているんだよ……」

「え?」


 そう、こいつの本当の目的。

 それは強者や貴族への嫉妬じゃない。

 ヒーローシンドロームもついでだ。


 本当の目的、それはクレア自身。クレアへの歪んだ愛が全ての原動力だった。

 今までその断片はあった。俺も口走っていただろう。


 だが、実際に言葉として出されるのは違う。

 明確な答えが現実に出された時、その怖気はリアルとなって襲ってくる。


 実際、俺はそれを目の当たりにした。

 こいつの部屋に侵入した際。そこにあったものがそれだ。


 クレアの顔から一気に血の気が引いていく。

 今まで真実を告げられていた時にもなかった反応だった。


 俺はクレアを無意識に支える。


 こいつの部屋にあったもの。それは……壁一面に書き殴られたクレアへの想いを綴った赤い文字の数々。

『クレア、愛している』

『クレア、君の隣には僕が相応しい』

『クレア、今日は笑っていたね』


 恐怖を通り越したものがそこにはあった。


 その瞬間に悟る。

 こいつはクレアに惚れていたんだ。

 洗脳の最終目的は傀儡にすること。クレアを傀儡にしてこいつは偽りの愛を手に入れようとした。


 それが一番腹立たしかった。

 クレアの気持ちを蔑ろにして一方的に自分の欲望を押し付けるその傲慢さ。

 愛していると嘯きながらその実クレアを危険に晒している事実を感じていない鈍感さ。

 全て自分に都合よく現実を捻じ曲げて理解する愚鈍さ。

 子供のように己の意しか通そうとしない幼稚さ。

 全てが稚拙。そして身勝手。故に性質が悪く救いがない。


「僕は君を愛しているんだ……なんで……なのに……なんで……ぼくじゃダメなんだ? そこに……君の隣にいるのは……なんで……そいつなんだ……なんでなんだよぉぉぉ!!」


 モーガンは泣き崩れる。

 それはやはり子供のようにも見えるが、醜悪さは消えていない。

 その姿を見て、俺は自分の中にある感情がもう怒りなのか憎しみなのか……わからなくなっていた。


 ただ哀れ。その感情だけは如実にわかった。

 俺はこいつを憐れんでいた。


 ふと、クレアが俺から離れる。


「クレア……」


 俺の言葉にクレアは右手を振って反応する。

 表情は見えない。


 モーガンはゆっくりとクレアを見上げた。

 泣き顔に微かに光りが宿る。囚人が聖母でも見つけたかのように。


「貴方は私のことが好きだったの?」

「そうだよ! 初めて会ったのは! ディアレス学園入学テストの時だ。君の圧倒的な力を目の当たりにして、僕は心が奪われたよ。君こそ僕の妻に相応しい! そう思った。だから僕は心の底から君を愛した。愛したんだ……」


 モーガンの唇はまだ動いていた。

 だが、もう声は出ていない。


『愛していた』だけが辛うじて読み取れる。


「愛している? 愛していれば何をしてもいいの?」


 クレアが言葉を向ける。

 背中越しに伝わる殺意。

 それは俺やサリーが持っていた殺意とは種類が違う。

 憤怒や憎悪が混じった、燃えるような殺意じゃない。

 どこか冷たい。凍てつくような殺意だった。

 切り捨てる。見捨てる。侮蔑。軽蔑。唾棄。それらに近い。

 これは混じり気のない純然たる殺意だったのかもしれない。

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