第29話 襲撃
真紅に燃える業火の塊が俺の蟀谷を掠めて通りすぎる。
そのあとを追って振り返ると俺の背後には全身毛むくじゃらの巨大な化け物がいた。
筋骨隆々の体躯は三メートルを軽く超える。その筋量は一目見ただけで圧倒されてしまう。特に腕の筋肉はそれだけでその辺の女性のウエストくらいあるだろう。茶色の毛で覆われ、その貌は肉食獣そのもの。鋭い歯牙が並んでいた。
そんな化け物に轟々と火炎の塊が命中し踊るように燃え広がった。肉の焦げる臭いが俺の鼻を犯す。
断末魔をあげる化物。やがてその声も聞こえなくなり一つの炭が出来上がった。
そう、クレアは俺ではなく背後にいた化け物を狙って火炎を撃ったのだ。
勿論俺も後ろにいた化け物には気付いていた。殺意がなく監視しているような雰囲気だったので捨てておいただけだ。
ただ、接近する素振りを感じてはいたので間合いに入った瞬間迎撃する腹積もりではあった。
俺は驚いている。化け物に対してではない。俺の横を通り抜けたあの火炎の塊に驚いていたのだ。
あの炎、全く熱さを感じなかった。肌を掠めるほどの距離にあったにも関わらず。
つまり彼女は俺に一切ダメージ、熱さすら与えずに緻密に火炎をコントロールし猛スピードで化け物に命中させたのだ。
全く恐れ入る。
やっぱりクレアは天才だ。
「サンキュー! クレア」
俺は最大限の笑顔でクレアに礼を言う。
「はぁ……」
しかし、クレアは嘆息を吐いた。表情も芳しくない。
「やっぱり、貴方はここにいるべきじゃない」
やっと口を開いたクレア。久しぶりに彼女の声を聴けた。だけどそれはかなりネガティブなものだった。
「え?」
当惑し声が上ずる。
「私がいなかったら今の化け物に襲われて死んでたわよ」
クレアはそのまま化け物に近づいた。右手の炎は未だ綺麗に火柱を上げている。
「化け物には気づいていたよ。襲ってきたらカウンターで仕留めるつもりだったんだ」
俺の言葉を聞いてもクレアは化け物の焼死体を見ていた。その横顔は残酷だが美しい。
「どうやって?」
クレアの質問。
あれだけ頑なに沈黙を貫いたクレアから聞こえる声は天使のようで俺はこの会話を心底楽しんでいた。彼女の表情と声色が嬉々としていないことはわかっていたし、内容もデートのそれには程遠いが、それでも俺は彼女から声が聞けて嬉しかったのだ。
宛ら天啓を受けたマリアの如く。
「う~ん~そりゃもう俺の見事な廻し蹴りで」
自分でも呆れるほど茶目っ気たっぷりに答えてみる。
「この化け物に? 廻し蹴り? 無理だよ、そんなの」
クレアの表情はさらに悲壮感を増した。その目には哀れみの色と呆れの色が混ざったように見えた。
クレアは近くにあった長さ五十センチほどの枯れ木を拾い化け物を突付く。
「これ、魔獣だよ」
「知っているさ。アルノーの森に住む猿型の魔獣、ハンマー・コングだろ。毛むくじゃらの肉体は筋肉で覆われていて常に強化魔法で全身をコーティングしている打撃特化の魔獣。ちゃんと勉強しているよ」
俺は知識を披露するがクレアの顔は一向に変わらない。
この魔獣は今述べた通り打撃特化のハンマー・コングという種類だ。
森に住む魔獣で常に強化魔法を己に施し、獲物を一撃で完全破壊するほどの膂力を持つ。俊敏さも頑強さも兼ね備えた力自慢の魔獣だ。
だが、それだけである。
トライデント・ボアと同じで強化魔法一辺倒の比較的斃しやすい魔獣なのだ。だから俺はたいして警戒していなかった。
「知識はあるようね。でもね、ハンマー・コングに素手で勝とうなんて無理よ」
幼子に教えるような優しさで、それでいて分を弁えろと言わんばかりの厳しいクレアの口調。
その圧力は師匠にも匹敵する迫力だった。
クレアは右手の炎を枯れ木の先に移す。正真正銘松明が出来上がった。
「わかっているよ。でも俺ならたおせ……」
「無理よ!」
クレアが声を荒げる。
俺はその勢いに飲まれた。
「無理よ。どうやったかは知らないけど……学園に迷い込んだ魔獣を斃したらしいけど……無理なのよ……貴方はここじゃあ生きられない。魚は陸では息ができないのと同じ。お願いだからわかって……」
彼女の次の言葉を聞きたくなかった俺は無意識に耳を塞ぐ。
『来てほしくなかった』に類似する言葉を聴けば俺は発狂してしまうかもしれない。あの五年の苦行を耐えたのはクレアと会う一念のみだ。それを否定されたら俺は俺でいられなくなる。
クレアはまた深い溜息を吐いた。
そして手に持つ松明を俺に突き出す。何か話しているが俺は耳を塞いだままだ。それでも彼女は松明を押し付けてくる。
そこで俺は渋々耳から手を離しそれを受け取った。
「持ってて」
松明を無理矢理渡したクレアは俺から距離を取る。
「ディアレス学園は魔法の世界で最も熾烈な場所よ。魔力を持つ者が切磋琢磨する学び舎。そしてここ……実際に今私たちがいるこの場所は……魔獣が犇めいていて、死が真横にある世界。この世界で貴方は生きられない。学校で学ぶことも、魔法の世界で戦うことも貴方にはできない、叶わない。お願いだからわかって……」
クレアの言葉が俺の胸を抉った。心が切りつけられる痛みはやはり耐えられない。
しかし、きっとそれは彼女も同じだろう。自分から放たれる鋭い言葉はクレア自身も抉っているはずだ。
クレアの右目から薄らと一筋の涙が零れたのを俺は見逃さなかった。
「貴方は私が守る。だからお願い。学園から去って。安全な場所にいて。ここから帰ったらもう一度シャロン先生に直談判するわ。わかってほしい。それが貴方のためなの」
「それでも! 俺は君といたかったんだ」
俺は心から訴える。
クレアは空を見上げた。流れた涙を見せないようまた背中を見せる。
暫くの沈黙。
「お願い」
クレアはその一言を絞り出した。
俺はまた反論しようとする。
その時、クレアが右手の炎を地面に叩きつけた。炎は弾けて地面を走る。
俺はその勢いに負け言葉を飲み込んだ。
地面を焦がし焚火のように燃える炎が周囲を照らす。
瞬間迸る殺気。
それに気づき俺が周囲を見渡すと赤い点が無数にあった。
これは目玉。赤い目玉だ。
数えるのが億劫になるほどの数。
「な? 囲まれている?」
俺は気付いていなかった。これほど囲まれていることに。
クレアといたせいで舞い上がっていたのか?
否、それでも周囲には気を付けていた。事実、俺を襲おうとしたハンマー・コングの動きは読んでいた。
だが、この周囲にいる数多の魔獣には気づけなかった。
何故?
当惑する俺を尻目にクレアは右手を天に翳す。
彼女は気付いていたのだろう。
だから俺に松明を渡したんだ。
クレアは周囲をぐるりと見渡した。
「貴方はこの世界では生きられない」
クレアが指を鳴らす。同時に彼女の周囲に火の玉が十数個出現した。魔法だ。その燃え盛る炎の塊が一斉に魔獣に向かって飛んでいく。
「ぎゃああ!」
呻き声を上げる魔獣達。火炎の塊を浴びて燃えながら飛び出してきた。炎は魔獣を燃料にして一気に火柱を上げる。焼け焦げた死体の山がどんどんと出来上がっていった。
その屍を前に佇むクレア。
その姿は儚く、悲しげで、それでいてこの上なく……
美しかった。
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