第16話 本能
俺の眼前に突如として現れた魔獣の猿。
それが殺意を剥き出しにして襲い掛かってくる。
どうする?
どうする?
どうする?
俺は完全にパニックになっていた。
「ぎゃ!」
突然汚い呻き声と共にその猿が地面を転がる。同時に俺の足に伝わる確かな衝撃。
俺は無意識に右足で上段廻し蹴りを決めていた。その蹴りが見事に決まり猿を吹き飛ばしていたのである。
これには俺自身も驚いた。
脊髄反射。即ち、脳が考えるよりも先に身体が反応し迎撃を行ったのだ。
師匠から叩き込まれた修行が実を結び俺は少し感慨深くなる。
明確な殺意と奇襲による攻撃。そんな状況下では瞬時の判断の遅れは死に直結する問題だ。そんなこと修行時代幾度となくあったはずなのに俺の脳は全く機能していなかった。
恐らくアイツに会えると思い込んで舞い上がり、一時的に平和ボケしていたのだろう。もしくは慢心していたのかもしれない。下級魔獣如き、と。
その危機的状況で俺の身体は見事に回避してくれた。
師匠曰く、「本能に刷り込むほど鍛えた技はお前の意識とは別の場所で動き必ずお前を助ける」
その言葉の意味を今、身をもって知ったところだ。そして稽古をつけてくれた師匠に深く感謝する。
ありがとうございます、師匠。
俺は自分の頬を張り、気合を入れ直す。
その上で敵を注視した。
目の前にいるのはシャドー・エイプ。トライデント・ボアよりは戦闘力は下だが使う魔法がトリッキー故にトライデント・ボアよりランクの高い魔獣だ。
その魔法とは影移動。
闇属性の魔法で影の中を自在に移動できる魔法である。
ただ、その距離には制限があり三メートル以上は不可能のはずだ。恐らくこの個体はトライデント・ボアのボスの影に潜み次いで俺の影に移動して奇襲のチャンスを虎視眈々と伺っていたのだろう。
そして俺の気が緩んだ一瞬を見抜き飛び出したのだ。
改めて俺は腹に力を入れる。今回は失態だ。一歩間違えば死んでいたのだから。アイツに会うことも無く、こんな下級魔獣に殺されるなど末代までの恥。死んでも死にきれない。
俺はここに来た目的を思い出す。
ここには遊びに来たんじゃない。
アイツに会いに来たんだ。
アイツを守るために来たんだ。
アイツと帰るために来たんだ。
俺の目に冷たい炎が宿る。この感覚だ。これが無かった。ゴードンとの喧嘩でも沸かなかった感覚。これを忘れていた。
取り戻せ。
俺の中に眠っていた本能が今、雄叫びを上げながら目を覚ます。
俺はタンクトップを脱ぎ捨てた。
「闘う気か!? 待て……」
「デイジー先生は闘える状態ではないでしょう。そこでお休みください。高が猿一匹。猪の群れに比べれば屠ることなど造作もない。それに魔獣退治は慣れてますから」
俺はデイジーの制止を無視して構える。
デイジーはダメージもあるが覚醒した俺に気圧されたのか動かない。それでいい。今は黙したまま傍観者に徹しておいてほしい。
ゴードンはまだ脳震盪から完全に復活していないが、体勢だけ横向きになっていた。
どちらにせよ、この状況を打破できるのは俺だけだ。
シャドー・エイプの攻撃力が大したことないと評したが、それはトライデント・ボアに比べての話。
オランウータンに近い体躯だが当然その身体にある筋量は普通の猿とは比較できないほど高密度。さらに獲物を痛ぶる狡猾な側面もありそれに加えて魔法が使えるのだから魔術学園の生徒といえ、武装無しの一対一でどうにかなるものではない。
元居た世界のレベルに合わせるなら格闘技の全国大会に出られる高校生が何の装備もなくゴリラと戦うようなものだ。無謀である。
だが俺は違う。この身体に染み込ませた闘争の研鑽は近代兵器以上の力があるのだから。
「丹田……解放!」
本日二度目の『魔人の証明』を発現させた。
一瞬で全身に奔る文字の刺青。
ただ、魔獣を斃すのにはまだ足りない。
これは切札其の一であり、下地だ。ここからさらに切札の化粧を施す。
「ぎしゃあ!」
シャドー・エイプは立ち上がり、影に逃げ込もうと飛ぶ。それはまるで水泳選手のスタートのようだ。
習性なのか、こいつらはそのままゆっくり影に潜むのではなく飛び込むように潜む。そのためシャドー・エイプは空中にいる間は隙だらけだった。
俺は脱いだタンクトップを丸めて投げる。
タンクトップは猿の足元で開き、その影を覆った。これで猿は影に入れない。こいつらの魔法は下級故に遮蔽物があるとそれだけで無力化してしまうのだ。
これが狙いで俺は服を脱いでいた。
伊達や酔狂ではなく、ましてや筋肉を見せつけるためでもない。歴とした対抗手段の一種だ。
影に潜めず地面に弾かれた猿がいら立ち、俺の服をびりびりに破る。が、その隙に俺は猿との距離を一瞬で詰めた。
間合いに入る。
慌てて猿がその鋭い爪のある手を振り回し迎撃してきた。
奇襲ならともかく、見えている攻撃ならば慌てることもない。まして今の俺にはもう油断など微塵も無い。
多少強い程度の猿などあの草原にいた大熊に比べればイージーすぎる相手。容易く斃せる。
俺は猿の渾身の引っ掻き攻撃を左腕で弾いた。爪による斬撃を喰らわぬよう、猿の手首から弾いている。
驚く猿の腹目掛け、渾身の前蹴りをお見舞いした。
「ぎゅ!」
手応えはあったが猿にダメージはない。ただ、サッカーボールのように空中へと蹴り飛ばしただけだ。
影移動を発動する際、シャドー・エイプは一瞬の間が必要になる。その間を与えないための攻撃であり、ダメージは最初っから期待していない。
次、影に入られるとまだ動けないゴードンかダメージを負っているデイジーを狙われてしまう可能性が高い。それを防ぐためにもこの猿の行動をできるだけ制限しなくてはならなかった。
そして打撃だけで勝てる相手ではないことは百も承知。いくら『魔人の証明』でブーストを掛けてもこの程度が限界だ。ダメージを与えられずあしらう程度。しかしそれは普通ならば、の話。
俺は普通じゃない。
既に準備は整った。今までの回りくどい攻撃は時間稼ぎも含んでいたのだ。
「丹田! 覚醒!」
叫ぶと同時に俺の丹田、つまり臍から熱い脈動が全身に駆け巡る。
『魔人の証明』の古代文字が微かだが青く輝き出した。
さらに俺の手足が薄らと同じ色の青いエネルギーを帯びる。
「まさか! それは!」
デイジーの驚く声が後ろで響いた。
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