第三章 / 詩人は歌を口にせず

第11話 絵画を出たおさかな

 ──カルン荒野・中東部。


 盗まれたエメリナを奪還して無事に魔水鏡ホロウメロウの中に戻したジゼは、成り行きで手に入れた黒馬に乗って荒野を駆け、辿り着いた小さな沢の近辺で休息を取っていたのだった。


 簡素なテントを張り、焚き火をくべて明かりを得る。

 沢で汲み上げた水を煮沸させている間、彼は先日立ち寄った古書店で手に入れた専門書を読み進めていた。


 人魚の生態、と記されたその本を。



〝人魚は泡から生まれてくる。雌個体しかいないため、詳しい繁殖の条件は不明のままだが、澄んだ水の中でのみ繁殖が出来ると言われている〟


〝古来より、『人魚は子種を求め、人間の男を水辺に誘って引きずり込む』という迷信が広く信じられていた。それゆえ、男児の髪を伸ばして女児に扮させることで人魚の目を欺こうとする風習が根強く残っているのである〟



 ──ぺらり。



〝人魚の感性や知性は人間より劣るとの見解もあるが、それは誤りだ。人間と関わる機会の多かった個体は人の言葉をよく理解し、人への愛憎を積極的に示し、人間に恋心まで抱いた個体も確認された〟


〝一方で、人間が人魚を恋い慕うケースもごくありふれている。人魚の見た目の美しさに魅了された人間が強引に関係を迫り、殺してしまう事例は後を絶たない〟



 ──ぺらり、ぺらり。



〝人魚は不幸な生き物だ。いつの世に生まれても、おそらく幸せになどなれないのだろう〟


〝彼女たちは、弾けて消える泡沫と同じ〟


〝他者と触れ合うことも、言葉を交わすことも許されない。囚われ、傷付けられ、ただ破滅の時を待つだけの、儚き存在なのだから──〟



「……チッ、胸糞悪いことばっか書きやがって」



 ぺらり、古書のページを捲り、時折悪態をつきながら、ジゼは記された古い文字を目で追っていく。


 人魚伝説を題材にした著書は大陸各地に数多く残っているが、こうした生態記録は少ない。

 それもそのはず、生きた人魚が最後に確認されたのは二百年以上も前なのだ。乱獲と産業文明による環境破壊で棲む場所を追われ、人魚は絶滅してしまった。一般的に使用される文字も時代と共に変化したため、当時の生態記録が世に出回っていなくとも不思議ではない。



(おとぎ話や伝記なんかは、結構残ってんだけどな。……まあ、この著者の言う通り、人魚が幸せになるような話は創作物でもほとんどないんだが)



 目を細め、ジゼは近くの岩場に立て掛けた鏡を一瞥した。その視線の先では、ようやくわずかに傷が癒えて泳げるようになったエメリナが、鏡から顔を出して興味津々に馬を眺めている。

 その無垢な横顔にちくりと胸が痛んでしまい、ジゼは目を逸らした。


 今回のことで改めて認識したが、この時代を生きる人間にとって、『人魚』という存在は馴染みがなさすぎる。


 人魚がいたという事実は知っていても、『触れれば火傷する』というごく当たり前の知識すら持っていない。ひとたび本物の人魚を目にすれば、安易にその手を伸ばして手中に収めようとしてしまうのだ。


 根底にあるのは、好奇心と欲望。

 人魚は宝石や金貨と同じ。

 目にした瞬間、欲がヒトの思考を奪う。



(……俺も金目的で人魚を盗んでんだから、この前の賊と何ら変わらねえな)



 伏し目がちに思案し、無意識に舌打ちが漏れてしまう。


 最後の人魚の記録が二百年前。

 乱獲が横行したのはそれより遥かに昔だが、不老不死の言い伝えを信じる者によって、どの時代でも人魚は殺戮されてきた。


 もし、いつか、エメリナが高額で売却できたとしても。

 その先で彼女を待っているのは、また狭い水槽に閉じ込められて観賞用の見世物にされるか、喉を食いちぎられて殺されるかの二択。


 どのみち幸せになどなれない。



「……気分わる……」



 ぽつり、呟きながら「どの口がほざいてんだよ……」と辟易したその時、ずりずりと地面を這う音が近付いてきた。


 ハッと目を見張って振り向けば、水の入った小瓶を首から下げたエメリナが腹這いの状態でジゼに寄ってきている。


 濡れた体が砂まみれになっているその姿を視界に捉えた途端──ジゼは目尻を吊り上げた。



「うおおぉい!! コラァ人魚!! 濡れたまま砂の上這いずったら汚れるからやめろっつってんだろォ!!」


「?」


「〝だから何?〟みたいな顔してんじゃねー!! つーか、お前まだ火傷完治してねーんだからあんま外に出てくんなって言ってんだろ!? チッ、やっと綺麗な肌に戻ってきたってのに、これだからこのバカは……」



 ブツブツと不服げに毒づきつつ、ジゼは手袋を嵌めるとエメリナの肌に付着した砂を丁寧に落とし始める。「痛かったら何か合図しろよ?」「あと火には近付くな、危ないから」などと気遣う様はもはや保護者さながらで、エメリナは嬉しそうに尾ひれを揺らめかせてジゼに擦り寄った。



「うわっ!? お、お前、危ねえって! 軽率に俺に触るな! 間違って火傷させちまったらどうすんだって何度言ったら……」


 ──ぴとっ。


「なんっで更に引っ付いてくんだよボケェ!! 話聞いてんのかお前!!」



 いくら怒鳴っても擦り寄ってくる人魚に一層憤り、どうにか引きはがそうとするジゼ。しかし、じゃれつくエメリナは微笑むばかりで頑なに彼から離れようとしない。

 傷痕がまだまだ目立つ繊細な人魚が相手では、雑に突き放すことも出来ず──しばしの攻防の末にジゼは観念し、極力触れないよう両手を上げたまま彼女の抱擁を渋々受け入れた。



「……十秒だけだからな」


 ──ぎゅっ。


「くっそ……っ! 嬉しそうな顔すんな……」



 笑顔のエメリナと目が合い、頬が熱くなってしまう自分にうんざりしながら、ジゼは顔を逸らした。


 盗賊にさらわれた一件以来、すっかり彼に懐いてしまったエメリナ。

 よっぽど怖かったのか、それともジゼは安全だと判断して心を許したのか──兎にも角にも、隙あらば衣服越しに引っ付いてくるようになった危なっかしい彼女に、ジゼは頭を抱えている。


 先日までは怪我の状態が酷くて動くのもやっとだったというのに、『ジゼがいないと寂しい』という理由で無理やり鏡から出ようとする行為が何度も相次ぎ、その度にエメリナを叱りつける羽目になったぐらいだ。


 しかし拒絶すると耳ヒレが下がって悲しそうな顔をされてしまうため、存外お人好しのジゼは、結局エメリナのわがままを受け入れてしまうのだからどうしようもない。



「ほんと、勘弁しろよお前……十秒経っても離れなかったら、また怒るからな……」


『エメリナ、ジゼにおこられるの慣れた』


「慣れんな」



 ぷくぷくと小瓶に泡を吐いて得意げにのたまったエメリナに苛立ちつつ、ジゼは彼女にのしかかられたまま最終手段とばかりに蜂蜜の瓶を開ける。


 たちまち甘い香りにつられて背筋を伸ばした彼女は、丸い瞳を分かりやすく輝かせた。



「──!」


「〝はちみつ!〟って言ったろ、今」


「……! ……?」


「別にもう声がなくても分かるわ、お前の言いそうなことぐらい」



 ぱくぱくと動いた唇が紡いでいるであろう言葉を何となく読み取り、ジゼは木のスプーンで蜂蜜を掬うとエメリナの口元へ運ぶ。彼女はそれを小さな口に含み、幸せそうに頬を緩めた。



「~~!」


「〝おいしい〟か、よかったな」


「……! ……!」


「〝もっとちょうだい〟だろ、ハイハイ」



 まるで赤子をあやしているかのような自分に辟易しながらも、おいしそうに蜂蜜を舐めるエメリナはすっかり元気そうで、つい安堵してしまう。


 一時はどうなることかと思ったが、体調もだいぶ良くなったようだ。



(蜂蜜は火傷に効くからな、念のため傷痕に塗っておいてよかった。……まあ、塗ったそばからコイツがすぐ舐め取っちまうから、あんま意味なかった気はするけど)



 火傷に蜂蜜を塗るたびに隙を見て口へ運ぼうとする人魚との攻防戦を思い返し、ジゼは遠い目で虚空を見つめる。一方で、蜂蜜を嚥下したエメリナは上機嫌に尾ひれを揺らし、離れた場所にいる黒馬を指さした。



「……? 何だよ、あの馬がどうかしたのか?」



 こんこん、蜂蜜の瓶を指でつつき、再び馬を指し示す彼女。


 どうやら、『あの馬にもこの蜂蜜をあげたい!』という意思表示らしい。ジゼは「あー……」と目を細めた。



「いや、あの馬にやんのはもったいねえだろ……。アイツ、お前の火傷に塗った蜂蜜舐めようとするから俺が毎回必死に止めてんだからな? 今はリンゴ食わせてるから寄ってこねえけど……」


「?」


「はあ……だから、蜂蜜はお前だけの特別なんだよ。あの馬は成り行きで拾っただけなんだから、テキトーにその辺の木の実とか草とか食わせときゃいいの」



 ため息混じりに言い聞かせれば、エメリナはキョトンと首を傾げながら瞳をしばたたく。

 ややあって彼女は何かを考え込み、水の入った小瓶に泡を詰めた。



『あのひと、なまえ、うま?』


「あ? ……いや、アレは〝ひと〟じゃなくて、馬っていう生き物」


『あれ、うま? じゃあ、うま、なまえなんていう?』


「名前だァ? そんなん知らねーよ、あれ盗品だし……大体、そんなもん知ってどうすんだ? お前が呼ぶことなんてないだろ」



 問えば、エメリナは控えめに馬を一瞥して、小瓶にぷくりと泡を吐き出す。



『エメリナ、うま、ずっと前からしってる。暗いお部屋の、絵のなかにいたの、いつも見てたから』


「……あー……確かにあの部屋、デカい馬の絵があったな……」


『エメリナ、うま、すき。なかよくなりたい。だから、なまえ、知りたい……だめ?』



 俯きがちにジゼを見つめ、潤んだ瞳で問い掛けるエメリナ。


 彼女はトレイシー邸の地下に囚われていた頃から、壁に掛けられた黒馬の絵を眺めて過ごしてきた。

 その目で見たことも無い、絵画の中に描かれた、のどかな田園風景と黒馬だけが──エメリナの知る〝外の世界〟だったのだ。


 そんな彼女の訴えを聞き、ジゼはぎこちなく視線を泳がせる。



「は、はあ? そんなん聞かれても、俺はこいつの名前なんて知らねーよ……。つーか、名前付けたいならお前が好きな名前つけりゃいいだろ」


『……すきな、なまえ? エメリナの、すきななまえ、うまにあげてもいいの?』


「ああ、好きに付けろよ」



 投げやりに吐き捨てれば、エメリナは黙って考え込んだ。ジゼは頬杖をつき、その様子を見守る。



(……まあ、名前なんて何でもいいし、こいつに名付けさせても別に問題ないだろ)



 馬ならしばらく連れ歩いても困るってことないしな、とジゼが小さく息を吐いた頃、エメリナは閃いたとばかりに勢いよく顔を上げる。


 自信ありげに胸を張り、彼女は小瓶に泡を詰めた。



『──〝おさかな〟!』


「それはねえだろッ!!」



 しかし、放たれたのは想像の斜め上をいく名前。

 楽観視していたジゼも思わず食い気味で声を張り上げてしまう。



「なんで魚なんだよ!? お前はこいつが泳ぐと思ってんのか!?」



 早口で問えば、彼女は得意げに答えた。



『ジゼ、エメリナに〝すきななまえ付けろ〟言った。エメリナ、おさかなすき。だから、うまのなまえ、おさかな』


「いやちげーだろ!! 魚は魚で、馬は馬なんだよ!! ややこしいから却下だ、もっとマシな名前付けろ!!」


『なんで……? おさかな、だめ……?』


「ぐっ……!」



 しょぼんと耳ヒレが垂れ下がり、悲しげに肩を落とすエメリナ。


 最近発覚したことだが、ジゼはエメリナの『だめ?』に弱い。潤んだ瞳で儚げに問われると、まるで自分がとてつもなく悪いことをしているような錯覚に陥ってしまうのだ。


 くだんの馬まで責めるような目で己を見ているような気がして、ジゼは手のひらに汗を滲ませた。



(ば、バカ、流されるな……! こいつはただの魚だ、この俺様がこんなやつの悲しい顔ひとつに躊躇う必要なんて……)


『エメリナ……おさかな、すき……。おさかな、だめ……?』


(っ、あ~~~~~ッッ、くっ、クソォォォ!!)



 頭に巻きつけたバンダナごと前髪をぐしゃりと握り込み、険しい表情で天を仰ぐジゼ。


 再三脳内で葛藤した彼は、飛び交う様々な理屈やプライドに苦しい言い訳を繰り返し、やがて震える声で、「おさかなで、いい……」と彼女の願いを聞き入れたのだった。

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