第10話 夜明けの光と黒い鳥
ばしゃり、ぽた、ぽた。
どこからともなく水の跳ねる音がする。
痺れるような体の痛みと恋しかった水の冷たさによって目を覚ましたエメリナは、重たいまぶたを持ち上げた。
視界にまず映り込んだのは、洞窟内に差し込む夜明けの光。そして、微かな日差しを浴びて輝く蜂蜜色の長い髪だった。
ジゼは灰鼠色の瞳を閉ざし、疲弊した様子でウトウトと舟を漕ぎながらも、小瓶に汲み上げた水をエメリナに休まずかけ続けている。
周囲は既に水浸し。
エメリナは枯れた声で彼の名を呼びかけたが、その声は届かず返事もない。
彼女は一瞬悲しげに視線を落とし、火傷跡の目立つ腕をもたげてジゼの服の裾をくいっと引っ張った。
刹那、彼は弾かれたように顔を上げる。
「……っ!」
「……」
「──エメリナッ!? 目が覚めたのか!?」
視線が交わったジゼはたちまち目を見開いて彼女に手を伸ばしかけたが、素手であることに気付いたのか途端に冷静さを取り戻し、その手の動きをぴたりと止めた。
行き場がなくなってしまった右手をぎこちなく引っ込めつつ、彼は意識を取り戻したエメリナに安堵する。
「はあ……っ、生きてる……。お前、大丈夫か? どこも苦しくないか? しっかり意識あるんだよな?」
ひとつひとつ、矢継ぎ早に問いかけるジゼ。
普段より幾分か優しく感じるその声色にきょとんとしつつ、エメリナは小さく頷いた。
その様子にまた安堵し、彼は更に問いかけてくる。
「おい、嘘はつくなよ? 本当にもう苦しくないんだな? 嘘ついてたら怒るぞ?」
──こくり。
「耳はちゃんと聞こえるか? 目も見えるか? 手も動くんだな?」
──こくこく。
しつこくたずねられる言葉にエメリナは何度も頷く。
まだ本調子ではなさそうだが、どうやら命の危機は脱したようだ。ジゼは改めて胸を撫で下ろした。
(人魚は回復力が高いって、本にも書いてあったしな……)
そう考え、緊張の糸が解けたのか脱力した彼はその場にへたりこんでしまう。寝不足による隈が目立つ目元を押さえ、「良かった……」と無意識に本音を漏らした。
「はあー……マジで、ふざけんなよお前……ずっと死んだみたいにピクリとも動きやがらねえし、もう目ぇ覚まさないかと思った。こっちがどんだけ心配したと思って……」
「……」
「……ハッ! い、いや、違うぞ、勘違いすんなよ!? あくまで〝商品〟としての心配だからな!? お前が死んだらカネが手に入らねえから心配しただけだぞ!! 自惚れんなよ!?」
「?」
頬を赤らめて弁明するジゼに首を傾げ、エメリナはぱくぱくと口を動かす。何か伝えたいのだろうと悟り、ジゼは小瓶に水を溜めて彼女に差し出した。
エメリナは上体を起こし、瓶を受け取って肩を落とす。
『……ジゼ、ごめんね』
「は?」
『エメリナ、おかねに、ならなくなっちゃった……』
お金にならなくなっちゃった──力なく眉尻を下げ、そんな言葉を告げるエメリナ。いきなりそんな謝罪をされるとは思わず、ジゼは言葉を失ってしまう。
おそらく、盗賊の男に捕まった際に肌を焼かれて商品価値が下がってしまったことを謝っているのだろう。綺麗な状態でカネにすることにこだわるジゼが、エメリナの肌を大切に守ってきたことを知っているからだ。
ごめんね、と再び枯れた声が小瓶から届いて、ジゼの胸はちくりと痛んだ。
「……なんで、そんなこと、謝ってんだよ」
『……? ジゼ、おかね、ひつよう。エメリナのこと、キレイなまま、おかねにしたい。でも、エメリナ、汚くなっちゃった。わるいことしたから、ごめんなさい。……ちがう?』
「違わ、ねえ……けど……」
複雑な感情がぐるぐると胸の内を巡り、ジゼは眉根を寄せて顔を逸らす。
エメリナは、ただの商品。出来ることなら傷付けず綺麗なまま金にしたい。
その認識は正しいし、商品価値が下がってしまったことに対して少なからず落胆したのも事実だった。
……けれど。
「……俺は、お前に謝られる筋合いなんてねえよ」
ぼそりと低く声を発して、ジゼは身を乗り出し、エメリナの顔を正面から覗き込む。彼女は不思議そうに瞬き、どこか苦しげに歪む彼の顔を見ていた。
「謝るのは、俺の方だろ」
「……?」
「油断した。悪かった。鍵のかかる部屋の中に置いていけば安全だなんて考えが、そもそも甘かった。怪我させちまったのも、声枯れるまで叫ばせちまったのも、その声に気付けなかったのも……全部、俺が悪い」
ごめん、と消え去りそうなほど小さい謝罪の言葉が紡がれて、ジゼは素直に頭を下げる。
ばつの悪そうな表情。その場を包む長い沈黙。
エメリナはしばらく黙ったまま、瞳をしばたたいて彼のつむじを見つめていたが──やがて口角を上げ、小瓶の内部に泡を込めた。
『ジゼ』
「何だよ……」
『エメリナ、ジゼのこと、すき』
「ぶっ!?」
その直後、
思いがけない一言に「ハアァ!?」と勢いよく顔を上げた彼だが、微笑むエメリナと目が合うと大きく心臓が跳ねてしまい、分かりやすく頬を染めて言葉を詰まらせる。
一切の穢れもない無垢な瞳を向けるエメリナ。
ジゼは盛大に混乱したまま、しどろもどろに言葉を続けた。
「……ッ、な、何っ……お前、いきなり変なこと言うなよ!」
『へん? エメリナ、へんなこと言ってない。ジゼ、すきだから、すき』
「す、すっ、好きって……! お、おま、な、なな、何言って……っ」
『エメリナ、おさかな、すき。はちみつも、すき』
「……へ?」
『おはなも、おみずも、ちょうちょも、ことりも、みんなすき。……でも、人間、ずっときらいだった。エメリナにこわいことするから』
ぷつり、泡が弾けて、エメリナの本心が耳に届く。彼女は一瞬表情を曇らせたが、すぐに柔く微笑んで、続きの言葉も小瓶に込めた。
『……けど、ジゼ、すき。ジゼ、おこるとこわいけど、ほかの人間とちがって、エメリナのこと大事にしてくれる。エメリナ、ジゼと、いっしょにいたい』
「な……っ」
『まだ、ジゼと、いっしょいていい? エメリナ、ジゼいないの、かなしかったから。……だめ?』
最後は不安そうに耳の角度を下げ、控えめに問うエメリナ。
見た目だけは整った彼女の上目遣いについ緊張してしまいながら、ジゼは熱を帯びる頬の赤みを隠そうと、手のひらで押さえつけた口元をまごつかせる。
そのまま暫しの間を置き、ようやく彼は声を絞り出した。
「……け、怪我が治るまで、どうせ売れねーんだから……嫌でも、一緒にいるしかねーだろ……」
「!」
「お、おい嬉しそうな顔すんな! 言っておくが、仕方なくだぞ!? しょうがなく一緒にいてやるだけだからな!!」
『──うんっ! ジゼ、だいすき!』
「大好きとか簡単に言うな、バカ!!」
おそらく深い意味などないと分かっていても胸の高鳴りを抑えることができず、ジゼは速まる鼓動に気付かないフリをしながら真っ赤な顔で声を張り上げる。
一方のエメリナは満足気に口角を上げて彼に擦り寄ろうとしたが、「怪我してんだから大人しくしてろ! 危ねぇだろ!!」とまた怒鳴られてしまい、ぷくりと頬を膨らませるのだった。
* * *
──同時刻、第二人工居住区〈アルバ〉の診療所内。
小窓から差し込む夜明けの光を一瞥し、淡い亜麻色の髪を耳にかけた女は、目の前の男へと視線を戻した。
「……つまり、あなたは自分を奇襲した犯人の姿を見ていないというんですね?」
問えば、上半身から顔にかけてぐるぐると包帯を巻かれたミイラ男が力なく頷く。彼は苦しげに呻き、大火傷を負って膨張した唇に言葉を乗せた。
「う、うぅ……そうだよ……俺は、何もしてねえ……野宿してたら、背後から、いきなり襲われて……」
「この街の近辺で知り合った方など、犯人に心当たりはありますか? 人に恨まれるようなことをした覚えは? この街で馬を盗んだのはあなたでしょう、他にも何かしたのでは?」
「い、いや……っ、確かに、馬は盗んだ……! だが、他には何も……! この街には、一時的に立ち寄っただけで、知り合いもいねえ……」
「……そうですか。なるほど、分かりました」
こくり、冷静に頷く女。その正面でベッドに横たわっているのは、上半身に火傷を負った盗賊の男だった。
ジゼの襲撃後、駆けつけた自警団によって発見され、
そんな男の聴取を行っていた彼女こそが、王国騎士団──通称〈
彼女は黙って調書を睨み、「うーん……」と眉根を寄せる。
「盗難品の馬以外、取られたものはなし、相手との面識もなし……おかしいわね。こんな怪我までさせて、相手は何がしたかったのかしら」
「エマさ〜ん、聴取終わりましたぁ〜?」
直後、不意にビスケットを口に咥えた赤髪の青年が診療所の扉を蹴り開ける。「こら、足癖が悪いわよ、サリくん」と指摘された彼──サリは、「すんません〜」と口先だけで謝りつつも悪びれることなくビスケットをかじった。
「ほんで? 何か分かりましたぁ? 馬ドロボーについて」
軽い口調で問う彼に、女──エマは嘆息する。
「馬を最初に盗難したのはこの男よ。目撃証言が複数あるから確かだわ。……でも、彼を襲った犯人の目的がよく分からない」
「ふーん?」
「お金は盗られてないようだから、金銭目的の強盗じゃない。馬もまだ持ち主の元に戻ってきていないようだし、関係者が取り返しに来たわけでもない……」
「わはっ、アイツまだ何か隠してんじゃないっすかぁ? 誰かに恨まれることしたんっしょ〜。馬以外にも何か盗んだとかぁ……」
壁に背をもたれ、口の端についたビスケットの欠片を舐め取りながら、サリはにたりと八重歯を覗かせて盗賊を見遣る。冷たさを孕むその視線を盲目ながら感じ取った盗賊の男は身震いし、汗を噴き出して縮こまった。
露骨な反応にサリが「ふぅん……」と目を細める傍ら、上司であるエマは「こら」と彼の頭をバインダーで叩く。
「やめなさい、サリくん。罪人とはいえ相手は怪我人よ。まずは心身のケアを最優先にするべきだわ」
「わー、エマさんったら相変わらずのお人好しぃ〜。甘〜い、甘すぎて口の中が満足しちゃった。残りのビスケットあーげる」
「もごっ」
部下とは思えぬ軽い口調でエマの口内に食べかけのビスケットを突っ込んだサリは、眉根を寄せて睨む上司などお構いなしに「ところで、エマ騎士長補佐〜」とわざとらしく役職名を口にして小さな紙袋を取り出した。
「俺、この賊が潜伏してた宿でさっきまで事情聴取してたんですけどぉ。そこで、ちぃーと気になるものを見付けたんですよねぇ〜」
「……? 気になるもの?」
「ええ──これ、何だと思います?」
サリは意味深に微笑み、エマの手の上に紙袋の中身を落とす。
ころり、手のひらにいくつか転がり出て来たのは、宝石のように輝く翠色の〝鱗〟だった。
「これは……」
エマが訝しんだ刹那、鱗は手の熱によって瞬く間に変色してしまう。ぐにゃりと形を歪めたそれのひとつを横から奪い取ったサリは、焦げた鱗を指で擦り潰しながら「実はこの前、王都で気になる噂を聞きましてね〜」と視線を投げた。
「なんでも、大陸の西方面で名のある貴族のお屋敷から、
「……超貴重品? 窃盗? 私にはそんな報告きてないわよ」
「上の連中が極秘で扱ってる案件なんですよ」
「騎士長補佐の私すら知らないことをなんであなたが知ってるの」
「俺は耳が良いんでえ〜」
サリは楽観的にのたまい、「で、いまの落とし物、どう思います?」と再び問い掛ける。エマは眉根を寄せ、手の中に残った残骸を見つめた。
「どう思うって……そんなこと言われても知らないわよ。何なのこれ? 魚の鱗みたいに見えたけれど……」
「合ってますよ、おそらく。たぶん鱗。宿の床にいくつか散らばってました。──ま、ただの魚の鱗じゃなさそうだけどねえ? 盗賊さぁん」
サリは楽しげに首を傾げ、縮こまっている盗賊に近付くとわざと大袈裟な音を立てて目の前の椅子に腰掛けた。失明している男は大きな物音にあからさまに狼狽え、己に迫るサリの圧に竦み上がる。
「お、俺は……何も、知らな……」
「嘘つくなよォ、あんたが取ってた宿の部屋にも落ちてたぜ? この変な鱗。まるで道筋が続いてるみたいに……あっ、なんかアレみたいだな! おとぎ話の、ほら、パンくず落としてさあ、帰り道の目印にしようとするやつ。知ってる?」
「う……っ、ぎ!?」
明るい声色で語りかけるサリは、突如手を伸ばして包帯の上から男の顔を鷲掴むと両目の傷口に指を突き入れる。たちまち溢れ出す血の赤。「ぎゃああぁ!!」と響く男の枯れた絶叫も気に留めず、彼はにこやかに続けた。
「でもあのパンくず、結局他のヤツに奪われちまってさ。ぜーんぜん意味ないの」
「ぎっ、いっ、痛いッ! 頼む、やめてくれ!!」
「くくっ、あんたの場合はどっちだ? 自分で撒いたパンくずか? それとも、あちらさんが勝手にばら撒いて足跡残しちまったのか? あんた知ってんだろ? この鱗の持ち主」
「あ、がぁ……ッ!!」
「ほら吐けよ。使えねえ目ん玉にもっと穴開けんぞ?」
ブチブチ、縫合したばかりの傷口を少しずつ指で裂いて抉るサリ。激痛に悶える男は「助けてくれ!!」とエマに叫んだが、彼女はぴくりとも表情を変えない。
やがて、エマは勝手な行動を取る部下に「サリくん」と呼びかけて背を向ける。
「──殺さない程度にしなさいよ」
「はぁい、喜んでぇ」
去っていく足音を耳で拾い上げ、男の顔が絶望の色に染まる。
いびつに口角を吊り上げたサリが椅子から立ち上がった頃、断末魔のごとき絶叫と共に、病室の扉は音をたてて閉ざされた。
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