第四話 胸中

 長いこと目にしていなかったはずなのに、海は記憶にあるそれと変わらない。冬であれ夏であれ、降り注ぐ陽の光が無数の星の如く海面に光珠を瞬かせ、たゆたう波の白い線の上に飛翔する鴎の影がよぎる。

 白亜の城の高層に設けられた露台から南の海を見るのが、シードゥスはこの上なく好きだった。

 二人はしばらく、眼下に広がる海原を眺めていた。生姜に糖蜜を入れた湯呑を持つ手が、冬の空気の中でじんわりと暖かい。口をつけ飲み込むと、ごくりという音が妙に耳に響く。


「……親父さんのことは聞いてるか?」


 沈黙を先に破ったのはクルックスの方だった。シードゥスの肩がびくり、と僅かに震える。それに気付いているか分からないが、クルックスの顔は海に向けられたままだ。


「まあな……左遷だって? 監視付きで。処刑されてもいいくらいだったろうに」


 こちらもどうにも眼を合わせることが出来ず、海の際に視線を戻して言った。


「陛下の温情だよ。それにその方が後々いいだろう。シードゥスが戻って来られなかったのだって関係してるんじゃないのか」


 答えられずにいると、クルックスは淡々とした口調で続けた。


「シードゥス、変なとこで真面目すぎるからな。どうせテハイザこっちでは親父さんの息子ってことで陛下に顔向け出来ないと思ったんだろ」


 図星だった。頭がきり、と痛むのは、海から吹き付ける冷風のせいだけではないだろう。しかしそんなシードゥスの心中を見透かすように、クルックスはさらに言い当てる。


「それでいてシレアむこうでは、自分が間諜だったのを申し訳ないと感じていたんじゃないのか。あれだけいい人達だからわかるけれどさ」

「……本当のことだろう」


 自分はテハイザ王の意に反する勢力に属する者として隣国に送り込まれた。当初はシードゥス自身がどう疑問に思っていたとしても、あくまで急進派の駒として入ったのだ。王の権力を政治の中心へ戻すと言う自分達の計画が定まるまで、親とその一派の指示のままに王の意に反する動きをしていたことは確かなのだ。しかも反急進派として動き始めた後ですら、シレアの人々を騙し続けてきたのは本当なのだ。おまけにシレアの後継者であるカエルムとアウロラを、自国のために危険を承知で利用したのである。

 騙していた分、城の雑用でもなんでも役に立って償うことが出来ればという考えが頭から離れなかった。王子、王女をはじめとして城の皆からまず一度はテハイザに帰ったらどうだと何度も言われたが、胸の内ではいくら経っても罪悪感が燻り続けた。それに——


「スピカに顔向け出来ない気持ちもわかるよ。僕たちみたいに自立していい年齢ならまだしも、あの幼さで親父さん無くすのと同じだものな」

「クルックスには……何も隠せないな」


 はぁーっと大きく溜息を吐く。自分がしたことが間違っていたとは思わない。先のテハイザはどうあっても変えなければいけなかった。そのために、父親のやっていることはどうしても止めねばならない——強硬手段も厭わない。

 父の左遷はその必然の結果だ。スピカは賢い。きっと頭では理解できるだろう。実際スピカは、国の状況を丁寧に話したら自分たちの計画に協力までしてくれた。しかし、父親がいつ会えるかわからない状況になったとき、その理由を納得できたとしても、受け入れられるかはまだ別だ。それにはまだ幼すぎる。そう考えると、妹から父を奪うことになった兄に対して何も思わないはずがない。


「スピカは元気に振る舞うのが上手いから、普通にしていると思うんだよ。外向きでは」

「そう思うんだったら、兄であるお前がちょっとでも顔見せにくるべきだろう。一時的であれさ」


 船のない海の上に潮騒が満ちる。


「それより他にも、帰ってきにくい理由があったんだろう?」


 シードゥスは湯呑を包む手に力を込めた。クルックスは生姜湯をゆっくり飲み干すとさらりと述べる。


「いつまでも失恋まで引きずってちゃいけないよ、シードゥス」

「っ?!」

「失恋の傷心は残念ながら分からないけどね」

「失恋してねぇよ!」

「恋する相手を失ったのは事実だろう?」

「お前人の心読むのやめないか!?」

「図星か」


 クルックスはさも面白そうにくすくす笑いながら、赤面するシードゥスの方へ顔を向ける。露台に出てから、二人は初めて顔を向き合わせた。


「っとに……クルックスはこんなことまで全てお見通しかよ……」

「あはは、ごめん、これは違う。僕、ロスさんと文通してるから」

「そんなに簡単に書簡送れるものなのか……」

「伝書鳩の扱いなら、この城でスピカの右に出るのはいないよ?」


 欄干に預けた腕に恥ずかしさで火照る顔を押しつけ、シードゥスは情けなくも小さく呻いた。そして脳裏にもう会えなくなった少女の顔が浮かび、頭を腕の中へさらに埋める。

 それこそ頭では理解しているのだ。きっともう、会えないのだと。それでも受け入れ難いとは自分のことだ。


「そうそう消えるものじゃないだろうけれどさ、時間がかかるかもしれないけど。下手な未練も苦しいだけだよ」

「スピカには言うなよ」

「僕が言わなくても、女性はその手の勘がいいって言うしね」

「あいつはまだそんな歳じゃないだろう」

「さぁ、それはどうかな。最近は書店の息子さんが気になるみたいだよ」

「ちょっと待てなんだそれ!?」

「冗談だよ」


 それまでのことなど全て頭から吹っ飛び勢いよく顔を上げると、クルックスは湯呑を宙で遊ばせながら自身の発言を否定する。シードゥスは一気に脱力し、再び欄干に体重を預けた。


「嫌な冗談言うなよ……本気で心配したじゃないか」

「スピカもいつまでも子供じゃないってことだよ。あっという間に大きくなる。でもどんな大人になるか、それにはやっぱり兄であるシードゥスがいてやらなきゃ。兄代わりの僕ではどう頑張っても務まらないよ」


 子供が成長してどんな人間になるのか。未発達の子供は強く、そして繊細だ。その繊細さは他人や環境からの影響を大人よりも素直に受けると言うことであり、それは彼らの優れたところであるとともに、脆いところでもあるのだろう。スピカはまだその段階だ。


「戻ってくるのか?」

「それが……ちょっと迷ってる」


 意外な答えに、クルックスは目線でなぜ、と問うた。シードゥスは空を見上げて、胸の内をゆっくりと言葉にしてみる。


「陛下の力になるために、もう少し強くなりたくて。秋には結局、シレアの人に身を救われることになったし……まだまだ甘いんだよな」

「でも、陛下には十分お強い近衛師団長がいるよ」

「そうだけど、近衛師団長あの人は先代から仕えててそれなりの歳だし、いつまで現役でいられるかわからないだろ。それに比べて陛下はお若い。シレア王子殿下には同年代の側近がいらっしゃるが、陛下はそうじゃない」

「なるほどね。近衛師団長級の人の元で、側近としての鍛錬か……」


 上空に飛翔する鴎を目で追う。側近という位に昇格したいわけではないが、新王がこの後、長く安泰に政治を行うには、やはり実力を伴った者が側に必要だ。護衛としての身体能力を備え、王族の立場や国の状態を理解しつつそれを使う判断力を身につけたい。その望みを実現するにはどうしたら良いのか、手っ取り早い方法は……。


「スピカはどうする?」

「そこなんだよな」


 妹をこの先も親友に任せていいのか。そもそも自分から離したままでいいのか、それがシードゥスの決断を阻んでいた。

 その心を悟った風に、クルックスが言い添える。


「あまり寂しい想いは、ってわかってると思うけど。スピカの希望も聞いてやれよ」

「うーん……あいつ、この先どうしたいのかな」

「そろそろ将来の夢も出来たらしいよ」

「何だって…?」

「女官長だそうだ」

「そりゃまた壮大だな……」


 御転婆で落ち着きがなく、礼の仕方さえ半人前のスピカだ。普段の言動を知っているクルックスにとってもそれは遥かな夢のように聞こえ、隣にいる彼女の兄が頭を抱えてしまうのも無理ないことだと思った。


「その前にちゃんとした女官の礼法と、基礎教育だな……」


 シードゥスは途方に暮れて海の方へ視線を投げた——そして、とんでもないものを見た。


「あ、シードゥス!!」


 城の前、ちょうど露台から斜めに見下ろす部分に小舟が進み出てきたかと思えば、そこにアウロラと年端も行かぬ少女が乗っているのだ。遠目で見ても見間違えようがない。


「あっ、兄さーんっ!! おかえりなさーいっっ!!」


 眼を見開いて欄干から身体を乗り出した青年二人を見つけたスピカは、小舟の上で立ち上がって高い声で叫びながら、大きく手を振った。


「あっ」

「馬鹿っ!」


 それはクルックスとシードゥスが短く叫んだのと同時だった。


「っあ、あれっ? きゃーっ!?」


 露台の上に合図しようと手を振るのに掌を開いたがために、小舟の櫂がスピカの手からするりと抜け落ち、そのまま音を立てて水の中へ落ちたのだった。

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