第5話 決行

 ハンドクリームを塗って、塗って、塗って、塗って、塗りたくる。青いリストバンドが白くなるくらいに塗りたくる。

 ぬるぬるになったら、ピンセットで引っ張って、引っ張って、引っ張る。

 念入りに、根気よく引っ張る。ここが肝心。骨の部分とか関節の部分が難しい。

 おおっと、ご用心。バックルには力をかけない。

 引っかかったらリストバンドの上からもみしだいて、ぐにゅっと絞り上げる。手首から指先に向かって優しく優しく繰り返し。

 無の境地の向こう側をのぞきながら、気長に気長に……。

 クリームでふやけた皮膚に、リストバンドの繊維がこすれて赤むけ。

 だけどあきらめない。最後の難関、親指の付け根。ここを通り抜けさえすれば……ほら!

 ずるり。

「やった!」

 時間はかかったけど、あっけないくらい簡単。

 多分、こう言う外し方は想定してなかったんじゃないかな。切るとか、バックル外すとか、そっち方面にばかり目が行って。

「いったぁ……」

 皮膚がひりひりしてる。知らないうちにすり傷ができていた。細かいのが何本も。

(この程度ならどーってことない!)

 ほとんど血も出てないし、クリーム塗ってあるから平気。缶が半分空になるくらい塗ったから。

 リストバンドがぬるぬるになったけど、またつけ直す時、便利だから問題ない。

 

 ハンドクリームまみれになったリストバンドをカプセルベッドに入れて、蓋を閉める。

(これで、あたしは『寝た』)

 ぬきあし、さしあし、しのびあし。

(寝てる。寝てる。あたしは今、寝てる)

 準備確認。浄気マスクと防護手袋、浄気カートリッジありったけ。明かりを消して、息をひそめてじっと待つ。

 毛布にくるまり、朝を待つ。

 スマホのロック画面は、腕を組んだ二人の自撮り。

 自撮り文化ってすばらしい。人前で好きなだけ、どんだけひっついても許される。誰も疑問に思わない。

「まってて。会いに行くよ」

 冷たく硬い液晶画面じゃなくて、あったかくてやわらかい本物のワミに。


 そろりそろりと静かに静かに。リュックを背負い、マスクをつけて家を出る。

 玄関のエアロックの開閉する音に、びくっとすくむ。消音仕様のはずだけど、夜明け前は静かすぎ。何でこんな大きな音がするんだろう? ただただ空気が抜けるだけなのに。

(この空気のせいで、ばらばらに眠るハメになったんだ)

「おのれ空気めっ」

 不平不満を言葉に出せるのは、ワミに会える未来が見えたから。

「よし、行くぞ」

 夜明け前の町を、自転車で走る。下り坂の手前でブレーキをかける。静けさの中、タイヤがきしむ。

「うひゃあ」

 声出た。でも家を出た時より『どっきり』はしない。

 走り出せばもう、紛れてしまうから。動き出した「次のシフト」に。

 街灯が照らす暗い町。密閉住宅は内側の明かりを外に漏らさない。防犯用に灯る明かりだけが、目に見える光。

 静かな町。熱のない世界。

 密閉された家の中、カプセルに眠る人がいる。

 だけどここからは見えない、聞こえない。

 暗くて周りが見えないと、自分しか見えなくなる。スマホを閉じてしまうと、自分以外の世界とは繋がりが絶たれる。

(もしかして今、この世で動いてる生き物って、あたしだけ?)

 ないないない、絶対にない! 

(空気、冷たい)

 マスクを通して入って来る外の空気。鼻の奥にツーンと刺さる。刺激でうっすら涙がにじむ。

 東の空にほんのりと濃いオレンジ色がにじむ。太陽は見えないけれど、確かに地面の下にいる。今にも顔を出そうと待っている。

 地の際から上空へ、自転車のひとこぎごとに広がるオレンジ。

 ほら、もうすぐ夜が明ける。見えないだけで、次のシフトはもう始まってるんだ。


     ★


「とうちゃーくっ!」

 ブレーキの音が響き渡る。

 ベーカリー木花前。昨日も来たばっかり。お店の中はすでに焼き上がったパンのおいしいにおいがあふれてるはず。

 パン屋さんの朝は早いから。

 自転車をとめて、鍵かけて、お店の前のベンチに腰掛ける。ひやっとして硬い。

(静かすぎる)

 バスも、新聞屋さんも動いてない。

 バスはこの時間帯はまだ動いてない。走ってたとしても一時間に一本。新聞は今はもう、オンラインで読む人の方が多いから配達そのものが少ない可能性。

 理由はすぐに思いつく。それなのに、ああそれなのに。

(まさか、世界中で動いているのはあたしだけ?)


 気のせいだ。考えすぎだ。

「ワミ、びっくりするだろうな」

 パン屋さんの朝は早いから、きっとすぐに動き出す。スマホに『おはよう』のメッセージが届くはず。


「そのあいさつ、自動送信メッセージなんじゃない?」


「ええい、うるさいだまれーっ」

 やばい。人んちの前で大声上げる不審者になってしまった。

 手で口をおさえても、マスクの上から。


    ★


 ベーカリー木花は暗いまま。

「ねえ、もう朝だよ?」

 スマホに『おはよう』のメッセージも届かない。

「早く起きて」

 いつも、ワミが起きる時間はとっくに過ぎた。お日様はあんなに高く上がってる。

 自分から『おはよう』を送ればいい? だめだめだめ、怖くて指が震えちゃう。

 何か手違いがあっていつもより遅くまで寝てる? 単に疲れて眠い?

 それよりそれよりもしかして。

 怖い。恐ろしい。考えたくもない。


 睡眠不適合。

 ワミが、睡眠不適合。

 あるいは。


「そのあいさつ、自動送信メッセージなんじゃない?」


「だーっ!」

 あたし、おかしい。

 電話一本かければ、何もかも解決するのに。

 もしも返事がなかったら?

 それが怖くて。


 どんな不幸な現実でも、確認するまでは夢見ていられる。


 何ていびつな、シュレディンガーの猫。

「動画……動画っ」


『お、は、よー、レコ!』


「これは、自動送信メッセージなんかじゃないし!」


 町はすっかり明るくなっている。だけど誰も動いてない。車も走らずドアも開かず、学校や勤め先に向かって歩く人もいない。

「こんなにいい天気なのに。ねえ、起きてよワミ。起きてぇええっ」

 スマホをにぎりしめたまま、レコはぼろぼろ涙をこぼす。

 もうすぐ会えると信じてた。確信してたのに、まだ会えない。もしかしたら会えないのかもしれない、そろそろそんな予感がしてる、だけど認めたくない。

 割り切っていた時は、まだ押さえがきいてたんだ。一度蓋がゆるんだら、もう止められない。

 マスクの中に涙が溜まる。

 マスクの中で泣いたら涙は拭けない。

 たまらず、スマホの画面から目をそらす。

 涙でにじんでいても、太陽に照らされた世界は輝いているのに。

「ん?」

 走ってくる。

 誰かが走ってくる。

 ごわごわもこもこで、ぎくしゃくしてる。フルフェイスのヘルメットに肩パット、手足にはりめぐらされたパイプにフレーム。頭のてっぺんからつま先までびっちり覆った、完全密封形式の重装防護服。

 汚染された大気の中でも長時間動けるすごい装備。自衛隊とか警察とか消防署とかとにかく役場に置かれてるアレ。

 ただでさえ人のいない中、あれだけごっついのが走ってると、目立つ。

「役所の人?」

 何やってんだろ、こんなとこで。

 あれ、あれあれ、こっちに向かってくる。がっしょんがっしょん音がうるさい。邪魔だなあ。今、あたしは大変なのに。静かにしてほしい。集中できない。こう言うのって何だっけ。

 ああ、取り込み中。取り込み中なんだから早く通過してーっ!

 って、何でそこで止まるの?

『ああ、やっと見つけた』

 マイクを通したひび割れた声。マスクよりさらに強力に密封されてるから、声も外に出ないのだ。

『妙な小細工してくれちゃってぇ! 見つけるのにえっらい手間かかったんだぞ?』

「え。あたし?」

『そう、君!』

 この声、おじさんだ。あんまり軽快な動きだから、もっと若い人かと思った。いや、それ以前に。

「ダレ?」

『私は凍眠監視員。わかりやすく言うと、あれだ。眠りの番人!』

「ああ、カプセルベッドのメンテとかチェックとかやってる人」

『よく聞け、石動令子。今、世界で起きて、動いているのは君だけなんだよ』 

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