第11話

 深川舞子を練習に加えたいときは事前に連絡を入れる。その日の朝に再度連絡を入れるのが約束だ。その日その日によって舞子の体調が違うからだ。松戸によれば正直直前になってもわからないという。それほど舞子は不安定だった。

「だけど最近はずっと調子がいい。今度はいつ君たちが来るのかと尋ねてくるぐらいだ。君たちにわかってほしいのは、あの子の調子は自分でコントロールできないんだ。突然変わることもある」

 許可をもらいながらも佑介はじっとりと汗をかくのだった。

 病院につくと受付で講堂にいく許可をもらった。他の部屋に行ってならないということだ。佑介たちは静かに声をだすことなく廊下をわたる。

 講堂にでると葉子は大きく息を吐いた。

「いつ来ても慣れないね」

 紗枝はすでに運び込まれているドラムをセットする。

 黙々とセットをする。ルールを決めたわけではないがこの病院での練習はあまり騒ぐことはなかった。セッティングが終わると内線で松戸に繋ぐ。しばらくすると松戸と舞子、白鳥笑美がやってくる。

 講堂での練習は初日からこれで三回目だった。前の練習では音とダンスをどのように合わせるかまで話し合えた。今日はその確認とこれから本番に向けての本格的な練習を開始することにしていた。

 最初に笑美が入り、続けて松戸が入ってきた。いつもの順番だ。舞子はなかなか入ってこない。

 松戸は頭をかきながら廊下をみる。

「今日はどうする。やめにするか」

 松戸は舞子の様子をみると頷いた。佑介をみると頭を下げた。

「みんな、今日はごめん。朝まではよかったんだが、今日はもう無理だ。ここまでやっと来たんだけど」

 佑介はつばを飲み込んだ。

「えっでもそんなにダメなんですか。ホラ、音を聞かせると治るとかないんですか」

「篠崎くん、深川さんの症状は急に悪くなることはあっても、急によくなることはないんだ。彼女はここに入るだけでも今、強い拒否反応を示している」

 佑介は歯を食いしばってギターピックを下ろした。アンプからギターの音が鳴り響く。

「なにをする」松戸が思わず言ったが遅かった。

 舞子が廊下で金切り声をあげた。嗚咽交じりの雄たけび。

 笑美も奇声を発し、舞子に駆け寄る。松戸はすぐに舞子を抱きかかえた。

「どうしたんだ」佑介はギターを下ろすと舞子のいる廊下へ走った。

「来るな。見てはいけない。深川も嫌がる」

 松戸は叫んだ。

 松戸はインカムでスタッフを呼んだ。スタッフはすぐに駆けつけた。

「興奮させないようになだめながら行かせてくれ。白鳥をそばにいさせてくれ。それだけでも大分落ち着く。白鳥、深川を頼むぞ」

 舞子は暴れていた。スタッフに抱えられるとおとなしくなったが、叫ぶ声はとまらなかった。その声は講堂の中にもいつまでも残った。

「さて、君、一体どういうつもりだ」

 松戸は佑介を睨んだ。佑介の目は生気を失い虚ろになっていた。

「音楽を、音を聞けば治るのかなって。その深川さんは音楽が好きだから」

 松戸は首を振った。

「朝までは大丈夫で、今はもうダメで。じゃあ、僕らの本番で調子が狂ったら、もうその日はダメってことですか」

「そのときは白鳥だけでいいだろう。あの子なら緊張もとくにしないから安定している」

「それじゃダメなんです。深川舞子じゃないとバンドとしての成功はありません」

 松戸はため息をついた。

「君は案外自己中心的なんだな。自分のことしか眼中にないなら深川はあきらめろ。君には愛がまったくない」

「ぐっ」佑介は歯を食いしばる。なにも言い返せない。

「君たちはもう帰りなさい。今日の深川はもう最悪だ。回復はないだろう。あとは今後のこともよく考えておくことだ」

「わかりました」紗枝は答えると立ち上がった。

「悪いがあと十五分ぐらいで出て行ってくれないか。ここで我々はミーティングを行うんでね」

 松戸がそう言うと部屋から出て行った。

「ほら、佑介」葉子が佑介の背中を叩く。

「これでもうここで練習できなくなったわけじゃないんだろう。今日はたまたまだろ。気にするな。次はたぶん大丈夫だろう」

 寛は雄介の肩に手を置いた。佑介はその手を振り払った。

「なんだよ」寛が声をあげる。

「うるせえな。さっさと片付けろよ」

「なにいじけているんだよ。深川の調子が悪いのは別に佑介のせいじゃないだろ。ちょっと刺激与えて失敗しただけだろ。なんだよ」

「うるせえ、この野郎」

 佑介は寛に飛び掛って、顔面を殴った。

「ちょっと、なにしてんの」紗枝は顔を手で覆った。

「知ったような口ききやがって。うぜえんだよ、お前はよ」

 佑介はさらに倒れた寛の上にまたがって顔を殴った。

「いいかげんにしなよ」

 葉子は佑介を押しのけた。

「なにイラついてキレてんだよ。寛はなにも悪いこと言っていないだろ。なに聞いているんだよ。あんたを励まそうとしてるのに、なんだよ。ヤツアタリしてんじゃないよ」

「なんだと、この野郎」

「はっ、私を殴るのか。殴ってみなよ」

「なんだよ、コノー」

 寛は起き上がって佑介の頭を殴った。

「いってえなオイ」佑介が寛に掴みかかった。

「いいかげんにしてえ」

 紗枝が叫んだ。

「おい、ここは病院なんだよ。それに十五分で片付けるように言われているのに、ケンカしている場合じゃないだろ」

 葉子がドスのきいた声で言うと佑介の胸倉をつかんだ。

「お前、このままこれでぶち壊すつもりかよ。これで諦める気かよ」

 葉子は手を離すと佑介を睨んだ。

「ふざけんなよ。とっとと今日は帰るぞ」

 佑介は息をするのを忘れるぐらいにただ突っ立っていた。

「ほら、元気だせ」

 葉子は背中を叩くと、ギターバックにしまわれた佑介のギターを押し付けた。

「自分のものぐらい自分で持て」

 佑介はその日はずっとふてくされていた。


 佑介はそれからもずっとバンドメンバーには声をかけることもなく、また連絡があってもそっけない返事で断っていた。

 最近あまり入れていないバイトのシフトも休みがちになっていた。そろそろクビを言い渡されるかもしれなかった。うまくいけば本社採用とまでいわれていたのももう遥昔のような話になっていた。

 佑介は呆然としていた。暑くなっていく気候も手伝って、ただ空を見上げていたり、あとは寝て過ごしていたりしていた。寝ていたといっても目は開いたままで、うわ言をずっとつぶやいていた。

 食欲もなく水ばかり飲んでいた。どうしようもなく空腹なときはそうめんを茹でて食べた。固形物を食べることがなくなった五日目、電話連絡が入った。

 雑誌の取材だった。

 時間があれば近くまで行くから取材させてほしいとのことだった。

 佑介ははじめ朦朧とした意識の中で、ただ空返事をしていた。その話の内容が徐々に理解ができてくると背筋を伸ばして立ち上がった。

「その話、本当ですか」

「君たちは東京大会の優勝者だよ。嘘を言ってどうするんだい」

 

 佑介は電話を切ると走り出していた。メモした紙を握り締めて夢中で走った。メンバーに集まるようにメールを打とうにもうまくできなかった。返事を待つこともできなかった。

 最初に紗枝から返事があった。葉子と寛は急には来られないということだった。

 ファミレスでふたりは会うことにした。

 佑介は水だけを飲んで紗枝を待った。水のおかわりを二回して店員から嫌な顔をされはじめたときに紗枝がやってきた。

「またあなたは水ばっかり飲んで」

紗枝は鞄をソファの上に置いた。佑介は貧乏ゆすりをしてイスを揺らして音をさせていた。

「お金がないから仕方ないだろ。バイトもクビだしな」

「えっクビになったの」

「もう欠勤が続いていく気もしないよ」

「そう」と紗枝はため息をついてメニューを広げた。

「朝霞は仕事、なにやっていたんだっけ」

「ああ、私。私はもう辞めたの。言っていなかったっけ」

「えっそうなの」

「そうなの」「すいませえん」紗枝は店員を呼んだ。

「私も大学に行っておけばよかったな。あ、このケーキお願いします」

「仕事していないのに頼むのかよ」

「だってレストランにふたりいてなにも注文しないわけにいかないでしょう。ここは公園や図書館じゃないのよ」

「違いない」

「で、話ってなに」

「ケーキ食べながらでいいよ。ちょっといい話だ」

 ケーキがテーブルに運ばれると紗枝は小さなフォークを器用に使いひとつかみケーキをひとくち入れた。

「あのさ、雑誌の取材がきた。バンドの大会が近いだろ。それで各地の代表がそれぞれインタビューに答えるっていうやつ」

「へえ。そうなんだ」紗枝はケーキを口に運ぶ。

「なに嬉しくないの」

「嬉しいもなにも、まあそういうのはあるんじゃないの。仮にも東京代表なんだし。で、いつなの。ちゃんと受け答えするんでしょう。がんばってね」

「がんばってって。みんなだろ」

「佑介がリーダーでしょ。だからあなたのところにしか連絡がこなかったわけだし」

「そんなのオレ苦手に決まっているだろ。お前なんか話すのうまいじゃないか。一番まともっていうか」

 紗枝は長い吐息を漏らした。

「バンドのドラムで私なんかが一番喋ってどうするの。あなたはギターでボーカルでフロントマンなんだから、あなたが一番喋らなければならないのは当たり前でしょう。なに言っているの」

 佑介はテーブルを叩いた。

「オレは別に好きでやっているんじゃねえ。みんなから言われて仕方なく今もやっているだけだろが」

 紗枝は身をすくめた。

「ちょっと、まわりが見ているでしょ。声が大きすぎるよ」小声で諭した。

「だってよ」佑介はふんぞり返った。

「取材に来るんだったら尚更バンドの名前を決めないとね。ユースケバンドじゃかっこ悪すぎるわ」

 佑介は頭をかいて黙っていた。

「ちょっと調べたりして私なりに考えたものがあるんだけど」

 紗枝は鞄からメモ帳を取り出して広げた。

 佑介は受け取って唸った。ページをめくっていく。書いてあるものに佑介はあごを手でさすり、いちいち声をあげる。

「ちょっと、なに。恥ずかしいんだけど」紗枝はメモ帳を取り上げようとした。

「待てよ。自分から見てくれって言っておいて。で、これがいいんじゃない」

 佑介がページを開いて指をさした。

「カリス」

 佑介は頭をかいた。「カリスマから魔を取ったって感じか。意味はそのまんまか」

 紗枝は柔らかな微笑みをたたえ首を横に振った。

「意味はキリスト教で恵みよ。ギリシャ神話では美や慈愛の女神のことをさすわ。カリスマって元々は恵みを与える人のことを言うの。深川さんのイメージにあっているでしょう。私もそれはお気に入りだったの。それで二番候補は」と紗枝が言いかけたところで佑介はメモ帳をとってページを閉じた。

「それで決まりだ。他はもう考える必要はない。その新しい名前で出版社やバンド大会に報告しよう。それ以外はもうありえない」

 紗枝はケーキの最後のひとくちをおいしそうに食べた。

「中学生の頃から変わらないね、君は」

「なにを」

「いいところが、よ。さて、インタビューにうまく答えられるようにシュミレーションしておかなくっちゃ」

 佑介はコーヒーを一杯だけを注文して、紗枝と長い時間話し合った。


 佑介はバンド名の変更とメンバー追加を連絡した。大会運営からはバンド名変更はすんなりと受理されたが、メンバーについては難色を示された。

 予選で勝ったからといって野次馬根性や目立ちたがり、文句のいえない技術のないOBや先輩の加入などでもめたことは過去にも何度もあったようだ。

 だが祐介は「東京大会突破が加入の条件だったんです。加入者ふたりはダンサーで演奏には影響ありません」と懇願し食い下がった。

 電話では話にならないと佑介はメンバーを呼び、直接運営部に頭を下げに行った。そこでも不信がられた。その加入予定の深川と白鳥がいないからだ。佑介は、ふたりは今入院中だけど大会には間に合わせると言った。なんの症状で入院かは最後まで黙った。そのふたりが加わってこそ、最高のバンドの完成形だと強く言った。

 佑介は大きな声を出さなかったが、メンバー誰も口を挟めなかった。運営部も次々と上層部へ、プロデューサーまで話を持っていったが佑介の迫力は衰えをみせなかった。何度も同じ事をひとつひとつ丁寧に言った。佑介の目は人によっては生意気にも見える猛禽類のようにも見える。まだ心がみえる猛獣の目とはまた違った。佑介の目は三白眼に怪しく光る。

 バンド大会プロデューサーは佑介の目を見て口角をあげた。

「お前さん、なかなかいい面構えみせるじゃねえか。オレを斬り殺そうとするようないい目だ。最近のいいところの大学にいるようなお行儀のいい優等生お坊ちゃんバンド小僧にはない、ロックンロールの飢えた目をしてるじゃねえか。ピストルズのジョンライドンさながらだ」

 佑介はふっと気を緩めた。

「気に入ったぜ。そのダンサー加入も特別に認めよう。ただし、本当に出す価値はあるんだろうな」

 佑介は頷いた。

「会場の度肝を抜きます。新生バンド、カリスを楽しみに期待してください」

 佑介の声は自然と力が入っていた。

 後ろにいたメンバーは佑介の言うことにいちいち顔を見合わせて落ち着かなかった。佑介が最後振り返ると、みんなに長いため息が漏れた。

「よかったね」紗枝がそう言うと佑介は親指をたてた。葉子が佑介の頭を軽くはたいた。

「ヒヤヒヤさせるんじゃないよ、まったく」

 寛は部屋をでるときプロデューサーに一礼をした。きをつけをして足を揃えて丁寧に頭を下げた。


 佑介は本番前にライブを一本入れることにした。一度でも深川舞子を舞台に立たせたい。ぶっつけ本番は避けたかった。問題は日程だ。

 佑介は主治医の松戸の携帯番号を聞いている。指定の時間に電話をしてこなければいつでもいいという許可をもらっている。舞子はその一時間前でさえ調子がわからない。そのライブで参加は可能か。そして本番はどうか。

 一度舞子抜きの白鳥笑美で練習をしたことがある。そのときの佑介は自分でもまわりからもすぐにわかる気のなさだった。

 白鳥はコミュニケーションをとりづらいがメンバーとも次第に慣れて仲良くなってきた。献身的に紗枝がサポートしたおかげもあった。メンバーとしても息があってきた。メンバーも認めている。佑介はみんなに隠れて見えないようにため息をついていた。

 葉子はその気のなさにすでに呆れていた。紗枝はそれでもみんなを鼓舞した。

 舞子と一緒の練習は時間があまりにも限られている。それでも佑介の腕は動かない。

 最悪を想定した練習もしておかないと大会では見られたものにならないと寛が佑介に言ったときだった。「最悪を想定して最高のイメージができるかよ。最悪のままで優勝なんかできるかよ」と怒鳴った。

 白鳥笑美は呆然と立ち尽くした。

「もういいよ、佑介は帰りな。もう練習する気ないんだろ。あとは私たちだけでも合わせるよ」葉子はあしらった。

 本番までもう日にちもあまり残っていなかった。


 本大会の一週間前にライブハウスでの演奏が決まった。それがいつもやらせてもらっているライブハウスではなく、少し規模が大きく百人は収容できるライブハウスだった。東京大会優勝バンドはもっと大きなところでやったほうがいいと推薦をもらってのことだった。

 取材記者も来るという連絡も入った。

 佑介たちのバンド、カリスは雑誌に載り、インタビューも掲載された。

 扱いは他バンドと比べて少し小さかった。同じ東京代表のブルーレインはひとりひとりのインタビューがあるのに対し、カリスは佑介だけでその字数はブルーレインのひとりよりも少ない。その佑介のインタビューでさえ、質問にただ答えるだけで自分の意見をほとんど出せていない。目標も優勝してプロになりたいというありきたりな文面。他のバンドはプロになってからの具体的なプランを語っているのに。

 雑誌を読んだ葉子と紗枝は苦笑いをした。だが寛は特集の最後のページをみつけた。大会運営からという記事だった。

「すべての地区予選をみてきて思うことであるが、地区代表に選ばれたバンドはほぼどのバンドもすでに完成されていてすぐにでもプロでも通用する腕前をもっている。その中で優勝候補といえるのは下馬評通り東京代表ブルーレインだろう。アマチュアながらすでに多くのファンを獲得している。続いて毎回上位に食い込む北海道代表サインオブザタイムス、九州代表ダイヤモンズアンドパールズも業界内では評判がいい。他の地区代表もどこが優勝してもおかしくはない。今回の大会もかなりハイレベルだ。

北海道代表一組、東北代表一組、関東代表一組、東京代表二組、中部代表一組、北陸代表一組、近畿代表一組、大阪代表一組、中国代表一組、九州代表一組という合計十一組で争われるわけだが、毎回この代表選出には物議がでている。四国には予選会がなく、本大会にでるには中国か近畿、もしくは大阪九州大会にエントリーしなくはならない。また福岡は激戦区であり、沖縄からもいいバンドが参加するためここは九州枠とは別に福岡と沖縄にも選出一組ずつつくるべきだという声もある。東京と同じように参加の多い大阪にももう一組という声もある。

そういった中での東京だ。今回の東京は崩れるバンドが多く目立ち、代表候補といわれたバンドが次々脱落していった。異様な雰囲気が漂い、はっきり低レベルであったという指摘する声もある。その東京にあって二組も代表がでるのはおかしいという物議だ。だがそんな雰囲気の中でも最高のパフォーマンスをしたのが東京代表に勝ちあがったブルーレインとカリスである。

本大会の優勝候補にあげられるブルーレインはいいがもうひとつの東京代表カリスはどうだろう。業界内では無名でファンがついているともいえない。技術においても郡を抜いているのかといえばそうではない。特別なにかがあるというバンドではない。しかし私にとっては非常に楽しみなバンドのひとつである。まだ発展途上といったふうで、本大会ではさらにメンバーを増やしての参加である。中でもフロントマン篠崎佑介くんは最近にはみられないハングリーさを持ち合わせている。ロックンロールとはないかという原点に立ち返らせてくれそうな、そういうオーラを醸しだしている。是非彼には私はもちろん観客を脅かせてくれるステージを期待している」

書いたのは誰かわからないがメンバーは予感していた。この記事に目を留めた人も多くいるだろう。ライブハウスに来てくれる何人かは目を通しているだろう。前哨戦とはいえ、失敗はできない。

「いいイメージで本大会にでよう」いつしか集まるたびにこの言葉が誰ともなく口を出た。

ライブ開始三十分前に二台のタクシーが会場前に停まった。深川舞子と白鳥笑美と舞子の姉の由紀子、そして松戸先生が娘と一緒にやってきた。

「今日は休みとって娘を連れてきた。小学六年生で恵というんだ。有名人じゃないけどライブに行くかと誘ったらふたつ返事でやってきたよ」

「こんにちは」

 佑介たちの前で松戸恵はおじぎをした。

「先生に似なくて美人ですね」紗枝が笑った。

「女房が美人だからな。わはは」

 佑介は松戸をみると微かな笑みを浮かべた。松戸と目が合うと深々と礼をした。

「どうした、いつもに増して固いじゃないか。大丈夫か」

「ありがとう熊先生。どうか見ててほしい」

「ん。見せてもらうよ。私からもスタッフに話をしてみる。何事もなく観客席でずっと見ていられることを祈るよ」

「オレが案内します。深川のことは少し話をしておきましたが、先生がいるなら心強いです」

 深川由紀子は舞子の表情を見る。緊張しているが嫌がるそぶりはみせないし、発作が起こる気配もない。つないでいる手はほんのり温かく汗もでていない。手を離して舞子の腕をさすると舞子が由紀子に顔を向けた。

「大丈夫よ、お姉ちゃん」

 その声ははっきりしていた。

 声を佑介も聞いた。佑介は口を固く結んだ。

「いいん、深川さん、行きましょう。好きに踊っていいから」

 舞子は手を佑介に差し伸べた。その表情は穏やかに微笑んでいる。

 手を握った。

 佑介の体が熱くなった。

「舞子って呼んで」

 佑介は強く握った。

「痛いわ」

「あ、ごめん。ご、ごめん。ごめん」

 佑介は肩を震わせて、涙をにじませた。

「どうした、佑介。これから本番だぞ」寛が声をかける。

「わかっているよ。うるせえな」佑介は鼻をこすった。「ま、舞子、さあ出番だ」佑介は頭をかいてやっと言った。

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