第10話
講堂では深川舞子がふたりでダンスをしていた。もうひとりも音楽に合わせて、まったく同じ動きで踊っている。傍目からみればミリ単位でぴったり合っている動きだ。
寛はツバを飲んだ。
佑介は舞子の様子をあまり見ずに、延長コードを伸ばしてアンプに電源をつなぐ。ギターにコードを通す。チューニングを合わせる。
「クマちゃん、適当にいらないファイルかノートか持ってないかな。持ってきてくれない。何冊か」
「このガキ、オレのことクマ先生と呼ぶヤツはいるがクマちゃんだなんて呼ぶのは、お前のほかには、そこで踊っている深川ぐらいだぞ」そう言うと人差し指を立てた。
「クマちゃん体力ないならそう言ってよ。オレが取りに行くよ。場所教えてよ。適当に持ってくるから」
「バカ言うな。大切なファイルだってあるんだ。もうわかったよ、ちょっと待て。五分で持ってくる」
地鳴りをさせながら歩いていく。佑介が葉子に片目をつむってみせる。葉子は口を間抜けに開けて時を失ったかのように立ち尽くす。我に気づくと背中で笑った。鼻歌を歌っていつもは面倒くさがってやりたがらない準備を佑介が率先して行っていた。舞子に背中を向けて顔をあげないようにしていた。
舞子はすぐそばで踊っている。ラジカセから大音量で流れる音楽に集中している。体全体を使って大きく踊る。
「ちょっと、寛。なにボケッとしているの。さっさと手伝ってよ」葉子が寛をつっつく。
「あ、ああ」寛は気のない返事をした。寛は舞子から目が離せなくなっていた。
舞子の汗は遠くから見ても輝いて美しく見えていた。
「佑介はなにもいわないの。なにもしていないの、寛だけだよ」
葉子は小声で佑介に促した。佑介は目を閉じて首を振った。
「たぶん、ああなるだろうと思ってオレは委員長を見ないようにした。ここに入ってすぐに踊っているのが見えて、咄嗟に見ないようにした。一度見入ってしまったら動けなくなるっていうことはすぐに想像できた。だから鼻歌でも歌って委員長を意識から消そうとしたんだ。もうああなったら寛は動けない。黙っていたオレも悪い。だから、なにも言わない。委員長のダンスが終わるまで寛は放っておこう。さ、さっさと準備を終わらせよう」
佑介は葉子に歯を見せた。
葉子と紗枝は顔を見合わせた。
舞子のステップ音が響く。終わるような気配をみせない。ふたりで汗を同じ方向に飛ばして踊り続けている。
「あの深川さんと一緒にダンスしている人もすごいね。動きがピッタリよ」
紗枝が葉子の袖を引っ張る。
「彼女は白鳥笑美。あの子は最初ダンスどころか歩くこともできなかったんだ。今でも歩くことは困難することはあるが」
後ろから松戸が厚手の空ファイル一枚を佑介の頭の上に乗せて、あとはイスへ何枚か置いた。
「深川のダンスをみるやすぐにマネをはじめた。はじめは全然ついていけなかった。深川もとくに教えるということはしなかった。動きをゆっくりにしてみせることはあったけど。それでも白鳥は諦めなかった。彼女がなにをそうさせたのか我々は理解できなかった。なにしろ白鳥は誰にも心を開かない、それでいて言語を決して話さない子だったのだから」
「えっ」
「白鳥笑美は失語症なんだ。理由はわからない。そして、今、深川舞子のダンスにだけ心を開いているようなんだ。これは診療では奇跡に近いことだ」
松戸先生は目を閉じて大きく息を吐いた。
「もし、深川をステージにあげるのであれば、白鳥も同行させてほしい。深川と君たちの繋がりは聞いた。だけど、関係ないかもしれないけど、白鳥も仲間に入れてほしい」
松戸は大きな目で佑介を見た。
「よし、準備はまあまあかな。あとは朝霞がちゃんと即席のファイルドラムを叩けるかどうかだ」
佑介は膝についた埃を叩いて落とした。
「君、私の話は聞こえたのかね」
佑介はゆっくりと目を閉じて、ゆっくりと目を開けて松戸を見た。
「クマちゃん、テストを受けるのはオレたちのほうですよ。委員長、その深川がいいんだったらその、白鳥さんも仲間に入れます。というより、もうこのバンドの中心、というか魂は委員長のダンスです。委員長に従うまでですよ」
佑介はゆっくりと笑顔をつくって松戸に向けた。
葉子は「佑介」と声がでて、無意識に手があがったがなにもそれ以上できなかった。軽く息を吹くと落ち着いた。
「それも、アンタらしいわ」
葉子はアンプにコードを差込み、ベースにつないだ。
紗枝はファイルを何度かスティックで叩き、落ちないように工夫しながら固定させた。
「なんとか一曲ぐらいはできそうかも。でもあくまでリズムをとる感じだから」
佑介が頷いた。
寛は何度も深呼吸をしていた。手が震えている。その震えを隠そうと、なんとかごまかしていた。
佑介はメンバーの顔と向き合った。とくに寛の顔をみた。
「これは失敗してもいい。音が外れようが、飛びようがいいんだ。委員長に、何年かぶりに再会を知らせるだけだ。だから、緊張しても仕方がない」
佑介は少し声を出して笑った。口をぬぐうと真剣な顔つきに戻った。
深川舞子と白鳥笑美はダンスを中断させていた。場の空気が変わったのを察知したためだろうか、息を呑むように佑介たちを見た。
講堂の隅で大人しくしていた深川由紀子は舞子の顔をみてはっとした。
「よくないわ、これ」
松戸はゆっくりと後ろに下がり由紀子の近くに腰を下ろした。
「まあ、見守ってみましょう。いざとなったら専門家の私もいる。やばくなったらすぐ中止にさせます。想像だけで判断しちゃいけないこともあります」
「あの子不安がっているわ」
「不安だと思っているのは本人以外かもしれない。もしかしたら治療になるかもしれない。手遅れになるにはまだはやい」
そう言いながらも松戸はツバを飲み込んだ。
佑介は右足でリズムをとる。息を大きく吸って、止めた。
紗枝のイスとファイルを叩く音で曲がはじまった。
まずは東京大会で演奏した曲を歌った。舞子はこわばった体をさらに固めていた。
動かない。
佑介は舞子を直視できない。息を吐くことができない。
舞子も白鳥笑美も微動だにしない。
そのとき紗枝はリズムを変えた。
「仕切りなおしか」
佑介はピックをまっすぐにピックを下ろした。
「だけど、これ、全然踊れる曲じゃないぜ」
佑介は振り向いた。寛も葉子も照れくさそうに笑みを浮かべて頷いた。
ビートルズ「HELP!」
佑介が歌う。祈りにも通じる歌。
紗枝は叩きながら微笑みを浮かべた。歌っているのは英語だが和訳をかみ締めていた。
「若かった頃は誰かの助けが必要だって思ったことはなかった。でも月日が流れ、そんな気持ちもなくなってしまった。今、僕の考えが変わって、心の扉が開いたよ」
紗枝は舞子に願いをこめる。
「佑介をしっかりと立たせてあげて。あなたの助けがいるのよ」
舞子がゆっくりと腕をあげた。
足を踏み鳴らす。さっきまで踊っていたのとは違ってぎこちない動きだった。
曲が終わる。
佑介は声を出さずにギター演奏だけに集中させた。
舞子は少しだけ踊ったというより動いただけだった。
白鳥笑美は舞子の顔を覗きこむ。
「あ、あうあ、ああ」舞子の腕を、力をこめてつかむ。
舞子はその手をなでた。
「大丈夫よ」
はっきりした声だった。
静まり返った講堂に紗枝までその声は届いた。
笑美の手を優しくほどくと、舞子は佑介に歩み寄った。
佑介は息を止めて舞子をまっすぐ見つめた。
舞子は立ち止まると手を差し伸べた。
「文化祭、が、んばったね」
佑介は舞子から目をそらした。口が痙攣をおこしたように震えて鼻水がでそうになっていた。佑介は見られたくなかった。
舞子は差し伸べた手を下ろさなかった。
「ほら、佑介」
葉子が声をかけた。佑介は舞子に向きなおした。
「いっしょに、やるんで、しょう」
舞子のそのときの微笑みは天国から零れ落ちた光の雫。
佑介も手を伸ばし舞子に触れた。力を入れない軽い握手だった。
佑介は目の前の光景を神々しく見つめた。体が動かない。心臓だけが鼓動する。どれぐらいの時間がすぎていくのか感覚がわからない。佑介は多幸感に包まれた。
舞子が手をほどき、その手を後ろ手にすると笑美の横に歩いていった。
「笑美ちゃんもよろしくね」
佑介ははっとした。心臓が波打った。
「うん。わかってる」
佑介は大きく頷いた。
深川由紀子は自分で気がつかないほど前に歩いていた。松戸も近づいていった。
「あの子が普通に話している」
「うん、少し戻ってきているな。ただ目の焦点がまだ頼りないけど」
「はい」
「ダンスしている以外の動きもまだ不自然なままだけど」
「はい」
「目の輝きを取り戻しつつある」
「はい」
「あの青年のおかげかもしれない」
「はい」由紀子の目から一筋の涙がこぼれた。
佑介は頭をかいてメンバーを見たりしていた。
「オレは委員長を踊らせることができなかった。もう一度、チャンスをくれないか。もし、気を遣ってメンバーに入るのだけは、やっぱり気が引けるというか。一緒にやってくれるって言われたのは、嬉しいけど。なんかちょっと、違うというか」
佑介は勇気をもって舞子をみた。
「私と、笑美ちゃんが、ダンスを、しなかったのが、気になるの」
佑介は視線を落とした。
「そう、だ。その、踊れる曲じゃなかったから無理もないけど。踊れる曲も用意しないといけないけど」
佑介は再び舞子に視線を合わせる。
「このままじゃ、オレ納得いかないんだ」
佑介は振り向いた。
「どうだ、みんな。ロックンロールをやらないか」
「どうって、あんた、その曲まだできてないじゃん」葉子がのけぞった。
「いいね。その曲だったら踊れそうじゃない。やってみようよ」紗枝が手を叩く。
「まあ、適当にあわせてみるよ」寛がめがねをつまんで少しおしあげる。
「適当って。まあいいや。佑介の言う通りにするよ。リズムは紗枝がつくるんでしょ」
「よし。委員長は気が向いたらついてきてくれ。無理はいわない」
「どんな、曲かわからないのに、入れないよ。さっきも、どうしたらいいか、わからなかったし」
舞子は笑美の様子を何度も見ながら言った。
佑介は下ろそうとしたピックを止めた。
「そうか」佑介の口が開いたままになった。
葉子が鼻で笑った。
「曲がダメだったわけじゃないんだ。どうしたらいいのか、わからなかっただけなんだ」
佑介は声を出して笑った。
舞子は人差し指を口にあてて首をかしげた。
「だったら、一度聞いてほしい。オレたちのロックンロールだ」
佑介は紗枝にアゴでサインを送る。紗枝はあわててズレ落ちたファイルを戻す。
寛はズレ落ちためがねを何度も戻した。テンポを確認する。曲はわかるが、みんなどういうペースでやるのかを雰囲気で演奏しなければならない。いつだって息を潜めて、みんなに合わせてきた。それでうまくいかなかったことも多かったけど、自分にはそうすることしかできない。
紗枝がリズムを取り始めていた。寛はもう一度めがねに指をあてて慌てて指をキーボードに乗せた。
佑介はギターのネック部分を上下に揺らし体を動かして楽しそうに弾いていた。葉子も落ち着いて弾いているが時々佑介に近づいておどけていたりする。紗枝は一所懸命に、それでいて時折笑顔をみせている。寛は演奏中、顔をほとんどあげたことがない。曲に集中しているためだ。ミスをできるだけしないようにだけを毎回心がけている。曲がしっかりと形になる責任を負っているつもりだった。寛は演奏中に笑ったことがない。
曲が終わった。
佑介は舞子の様子をみる。
「どお、だった」
佑介が後ろ手を揉みながら、下げていた視線をゆっくりと舞子に合わせて聞いた。
「うーん。と。やってみる。笑美ちゃんもダンスしてみて」
舞子が笑美に手招きをする。
笑美は前に駆けてくると、すぐに踊りだした。紗枝はすぐにリズムをとった。
「え、もうやるの」佑介がコードを抑える手にとまどっていると舞子は手拍子をはじめた。
手拍子をやめると舞子は笑美のダンスに合わせた。呼吸をふたりで整えていく。即興のわりに次第に合っていく。
寛がふいに目線をあげた。そのとき舞子の手足は高く伸びていた。指先までしなやかな動きだった。寛は思わず両手いっぱいに鍵盤を押してしまった。
講堂いっぱいに間の抜けたブザー音が鳴り響く。「あ、あ」寛は両手を挙げて呆然としてしまった。
演奏が止まった。みんな動きをやめて寛を見る。寛は視線に耐え切れずうつむいてしまう。歯軋りをする。
「あんた、委員長見たでしょ」葉子が寛に向かって言った。
「ご、ごめん。オレ」
「あっはっはっはっは」佑介が笑った。それはとても大きい笑い声だった。
「佑介、怒っていないのか」
「お前は準備もろくに手伝わないで委員長のダンスに見惚れてよ、またやっちまってんのかよ。どんだけだよ、お前」と言うと佑介はまた笑い出した。
「演奏、どうして急にブーっていってやめたの」舞子が首をかしげる。
それを聞いてまた佑介は腹を抱えて笑った。
「どうしてブーっていったんだろうなあ。どうしてなんだろうなあ。ブーってなんでいったんだろうなあ。なあ寛ぃ」
佑介はさらに笑い続けた。
「どうしたんだ佑介のヤツ。気でも狂ったのかあ」葉子がため息をつく。
「でも楽しそうでよかったね」紗枝がファイルをそろえながら言った。
「どうしたの。なにか、嬉しいことあった」
舞子は笑美の手を強く握って佑介に言った。笑美はずっと舞子の顔をうかがっている。
「うん。最高の気分だ。こうして、また委員長と話ができて、今、最高だ」
「あの、さっきから、ずっと、私のこと委員長、委員長っていうけど、私委員長じゃないわ」舞子は笑美が痛がるほど手を強く握った。
佑介から笑顔が消えた。
「ごめん。なんか言えなくて。だけど」
佑介は一度唇を固く結び、舞子の目を見た。
「深川舞子さん、僕たちのバンドのメンバーになってください。白鳥笑美さんと一緒に。お願いします」
佑介は頭を下げた。
「うん」と舞子は頷き、笑美と顔を合わせた。
「佑介、深川さん受け入れてくれたよ」紗枝が佑介に歩み寄って背中に触れた。
「ほら、佑介顔あげなよ」葉子は声をかける。
佑介は深いため息をついてから顔をあげた。
「うん」
佑介は葉子に親指をたててみせた。
「よかったね」
紗枝が佑介の肩を叩いた。
「よかった。でも、まあここからだな。次が本当の勝負だからな」
佑介は笑顔になれなかった。息を長く吐いた。
「クマ先生。いいん、深川さんがバンドに入ってくれたよ」佑介は大きな声で言った。
松戸先生は親指をたててみせた。
「それで、これからここを練習場で使わせてくれないかな。深川さんも白鳥さんも簡単にここから出られないんでしょう」
松戸は大きく笑った。
「この講堂をそんなに毎回貸切で使わせるのも簡単じゃないわ。今日は特別だ。他の患者もいるし、スタッフの都合だってある。今日だってセッティングが大変だったんだぞ」
佑介は視線を落とした。
「でもな、案ずるな青年。ちゃんと予約を入れろ。簡単じゃないが、毎回特別にしてやる。セッティングもなんとかしてやる」
松戸はまた豪快に笑った。
佑介は松戸に駆け寄り握手を求めた。
「すげえなクマ先生、権力者みたいだ」
「そのかわり、いつも都合がつくと思うな。だめなときも、もちろんあるということを覚悟しろ。それとな、オレにここまでさせるんだ、絶対優勝しろよ」
松戸は腕を佑介の首に回して耳打ちした。
「篠崎くんといったね。今日は深川さん、すごく調子がいい。会話が普通にできている。こういうこともある。だがいつもこうだとは限らない。会話どころか正体が不明になって暴れることもある。これもいつもではない。だが覚悟をしておくことだ。その大会のときも、どっちになるかわからない。むしろ白鳥のほうが安定している。あの子の様子はずっとあんな感じだ。いいか」
松戸は腕を解いた。
「解明されていないの」
佑介は舞子を見ながら言った。
「それができればノーベル賞だ。ふふ。それほど人間の心は複雑なんだ。それでも君はやるんだろ。男だものな。だがな、これは賭けではない。しっかりとしたケア、あきらめないこと、そして愛しかない」
佑介は思わず噴出した。
「あ、愛だってぇ」
「笑うな青年。人の真の愛があればどんな治療薬よりも効く。これはノーベル賞よりも尊い。ふふ。それほど人間の心は複雑なんだ」
佑介は松戸を見る。
「君の愛であの子を蘇らせてみせろ」
松戸は拳で佑介の胸を軽く叩いた。
佑介は口を固く結んだ。「うん」頷いた。
帰りの車の中、佑介はギターを抱えて薄ら笑みを浮かべながら目を閉じて規則的に呼吸をしていた。
「あなたたち、これから舞子を交えて練習するときは病院を使うらしいけど、私、いちいち車出してあげないからね。私だって忙しいのだから」
由紀子は舌打ちを何度もしながら言った。
「バスとか近くに走っていないのですか」
紗枝が運転席に顔を近づけて言った。
「バスで来たことないから詳しいことはわからないけど、一本どこかの駅からでていたはずよ。ちょっとそれくらいネットで調べてくれる。携帯電話くらい持っているんでしょう。とにかく病院への送り迎えはこれで最後にしてくれない。私はあなたたちとは友達でもないのだから」
由紀子は声を落として小声になっていった。
「今日は確かに舞子も楽しそうにみえたからよかったけど。だからこうして帰りも送ってあげているだけだから」
車内に沈黙が流れる。
葉子はずっと貧乏ゆすりをしながら窓の外の遠くの景色を見ている。
助手席に座っていた寛はふいに声を出した。
「バスは二本ある。一本はなんとか通えそうなところにバス停がある」
葉子が手を伸ばしてきた。
寛は携帯電話を葉子に渡した。
葉子はずっと画面をみながら「おお~」を繰り返した。
「だったら、なんとか通えそうね。そう毎日合わせることもないだろうし。無理することもないしね。みんなもよかったんじゃない」
紗枝は佑介の寝顔を見ながら言った。
「それとバンドの名前も変えなくっちゃ。メンバーも増えるんだし、いつまでもあんなダサい名前もしていられないし」
「ユースケバンドか。参ったよな」
葉子と寛は笑いあった。
「そうよ。これからはこのバンドの顔は深川さんになるかもしれないんだから、ユースケバンドはないわ」
「違いない」
みんな笑いあった。
「ちょっとあんたたち、ここはあんたたちの家じゃないのよ。ここは私の車の中で、私が運転して、私が送ってあげているのよ。ちょっとはわきまえたらどうなの。いつも」
由紀子は舌打ちしてからハンドルを叩いた。その大きな声にみんな車から降りるまでずっと黙っていた。
別れ際、由紀子にお礼を言うと由紀子は鼻で笑った。
「じゃ、これからはバスで行くように。私のところにはもう来ないでよ。これからは松戸先生に直接許可をもらいなさい。病院の連絡先を教えてもらったんでしょう。じゃ、よろしくね」
そういい捨てると靴の音を高くたてながら足早に帰っていった。
残された三人はしばらく笑いを堪えていたが、由紀子の姿が見えなくなると声をだして笑った。
「なんだよ、あの言い方は」
「笑っちゃう人に見えちゃうと笑っちゃうよね。腰がすごくなんだか上下に揺れていたよね」
「紗枝も見た。私もそれが一番可笑しかった。かくっかくってしていたよね」
佑介だけが笑っていなかった。深川舞子が音を合わせて踊ってくれたロックンロールを小声で口ずさんでいた。寛に肩を叩かれてやっと生半可な返事をした。
佑介は手を力なく振って、なにか言ったか言わなかったの声で「また明日」みたいなことを言って帰っていった。
「なんだアイツ、ひどく疲れたのかな」
「いや、今日のことをずっと思い出しているのかもしれないわ。佑介ってそういうところあるから」
紗枝は両手で寛の背中を押した。
「なんだよ」
「いいから私たちももう帰りましょう。私もひどく疲れたわ」
「今日は寛、ずっと委員長にみとれて演奏もしていないし、途中でやめさせちゃったぐらいだから、アンタはちっとも疲れていないだろうけど」葉子が舌を出した。
「なんだよ。それについては反省してるって。ああ、もう」
寛は胸をかきむしって持ってきていたキーボードを背負いなおすとみんなに背中を向けた。
「オレもう一気に疲れたよ。オレも帰る」
葉子と紗枝は顔を見合わせて、声をこらえながら笑った。
「じゃ、私たちも帰りますか」
「そうだね。また練習日だね」
ふたりは手を振って別れた。
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