第6話
いくつもある鍵を鳴らしながら、鍵を選んでいく。重い鉄扉をひとつ開けて中通路の鉄格子を開ける。部屋へと通じる三番目の扉に鍵を差し込んだときから、向こう側から、うめき声や叫び声が聞こえてくる。最後の重い鉄扉を開けて中に入る。扉の鍵はひとつひとつ丁寧に閉められる。
施設員に導かれて五人はついて歩いていく。
遠くに鳥の鳴き声が聞こえるが、それは幻聴のようにも聞こえる。背中の汗は冷え切っていて、冷たい雫が背中に滴る。冷房がきいているせいだけではないだろう。
「考えが甘かった」
祐介は目に映る光景を見ながらそう思った。
そこはロビーのような広さがあった。長椅子がいくつか設置されていている。その上で走り回る者、イスの下にもぐりこんでいる者、両手を天井に掲げてなにかを叫んでいる者、はいつくばっている者、壁に向かってひとりで喋り続けている者、立ったまま動かずに床一点を集中して見ている者。男も女も老人も中年も子供もいた。みんな同じ服を着て、それぞれにそこにいた。
喉が渇く。祐介はもう何度ツバを飲み込んだだろうか。
細い廊下に入り、小部屋のドア前まで来る。施設員とその後ろにいた深川舞子のお姉さんの由紀子が小声で少しなにかを話している。(すぐ近くにいて声が聞こえるのに、なにを話しているのかが、まったくわからない)施設員が軽く頷く。施設員がドアを開けて五人を部屋へ通した。五人が部屋に入ると施設員だけが部屋を出て、どこかへ行く。ドアが閉められる。
祐介たち四人が窓を背にしてイスに座った。間に机が挟まれてドアを背にして由紀子が座る。
「ここに来る前にも話したけど。どお、ここに来て。まだ舞子に会う気はありますか。このままあの子に黙って帰ることだってできます。まだあの子は知らないままよ。今ならまだ間に合う」
由紀子は全員の顔を代わる代わる見比べる。祐介はどのように見られているか気になった。
寛はさっきからずれおちる眼鏡を気にしている。俯いてはまた眼鏡がずれ、また顔を起こして眼鏡を直すが、また俯いていく。
紗枝は大きな体を揺らしながら「ふうふう」言っている。大きな目を左右に移しながら口を動かしながら、それでいてなにも言えずに誰かの意見を待っていた。
葉子は明るい栗色の髪の毛を指でいじりながら、白い机を見つめたまま、なにも言えずにいる。
由紀子はため息をついて、目の前にいる祐介たちを見る。それは睨んでいるようにもみえる。
どれぐらいの沈黙時間がたっただろうか。由紀子はあとどれぐらいの時間待ってくれるのだろうか。
葉子は隣に座る寛の太ももをつねる。「いてえ」と忠弘は声をあげる。その声があまりのも大きく、みんな一斉に視線を寛に向ける。
寛は小声で「なにすんだよ」と葉子に言う。葉子は右手を顔の前に出して「ごめん」と目配せをした。
「ばか」紗枝は小声でふたりを責める。
由紀子は机を平手で叩いた。
その音があまりにも大きく部屋に響いた。由紀子は眉間に深い皺を刻んで四人を睨みつける。
「遊んでいないで、どうするの。私は帰りますよ」
低い声で言う。
祐介が立ち上がる。勢いが強すぎて、座っていたパイプイスが倒れる。
「舞子さんに会わせて下さい。そのために僕たちは来たのですから」
祐介の体は小刻みに震えていた。喉が渇く。由紀子を見下ろす。相手は祐介をまっすぐに見ている。見られている自分が先に目をそむけるわけにはいかない。
「わかりました。舞子を連れてきます」
由紀子が立ち上がるため、視線を一度下ろす。祐介はそのときを見計らいイスを直して座りなおす。
由紀子はドアノブに手をかけると、もう一度机向こうの四人を見る。寛のイスの位置が後ろにずれる。祐介は由紀子と視線が合うと、ゆっくりと頷いた。祐介は机の上で手を組んでその握りを強くした。
由紀子はドアを開け、廊下に出て行った。
ドアの閉まる音がして、歩いていく由紀子の足音がすると、葉子は机にうつ伏せた。手を机の上に伸ばして、指を動かす。「あーーー」と声をあげる。
「ほら、すぐに深川さんがくるかもよ」紗枝が葉子の腕を叩く。
「だって、すごく緊張したんだもん」葉子は頭を掻いた。
「おい、来たぞ」祐介が声をあげる。
ドアノブが回る。ドアが開く。
最初に由紀子が入る。ドアを押さえて、舞子を誘導する。
舞子はなかなか入ってこない。後ろで施設員となにかを話している。舞子が顔を少し見せる。紗枝が気付いて手を振る。
舞子が俯きながら、ゆっくりと部屋に入ってくる。祐介たちをなるべく見ないようにしていることが見て取れる。
祐介は舞子の様子を注意深く見ていた。思考が交錯して、よくわからなくなっている。動悸だけが激しい。こめかみが痙攣する。
由紀子がイスをひくと上から吊るされた糸が切れたように音がするほどの勢いで舞子は座った。その座り方に、なんの思惑を感じられない。いつもそうしているのか、たまたまそうしたかったのか、まったくわからない。
葉子が祐介を見る。祐介は首を軽く振る。
「こんにちは」紗枝が声をかける。
舞子が顔を少しあげる。視線まではあがらない。
「深川さん、私のこと覚えている。中学三年のとき文化祭とかでお世話になった朝霞紗枝よ、わかる」
舞子が「へへへ」と笑う。
葉子が気になっていたのは、髪の毛があまりにもボサボサなことだ。病院内で化粧やオシャレをすることもないだろう。だけど髪や肌質までなにもケアされないのは女の子として、あまりにもかわいそうに思えてならない。二十歳の同じ女性として、自分にとっては、あまりにもありえない。
寛はずれためがねを直す際に舞子の目が見えた。寛は顔を上げられない。顔を覗き込もうとする葉子も舞子の目を見た。
舞子は充血しきった大きな目をさらに見開いて、黒目を動かす。
祐介は中学のとき同級生だった深川舞子を思い出す。生徒会委員長をこなし、スポーツが得意で、たまに見せる笑顔が魅力的だったのを覚えている。あの頃の舞子は髪をショートカットにしていて、丸みを帯びた感じだったが、今はその面影が少ししか見られない。
「考えが甘かった」祐介は、その言葉を頭の中で反芻するだけだった。
葉子は佑介と紗枝を交互に見る。佑介はこっちを見るなと言わんばかりの視線を返す。
舞子は隣に座る由紀子の袖をつかんで、その手を振り出した。こわばった顔を由紀子に向けて顔を横に激しく振る。
葉子は口を開けたまま動けない。
紗枝は目を閉じて深呼吸をした。意識して平静を装うとする。だけど気持ちが押さえられない。涙が一筋こぼれ落ちる。
祐介は紗枝の姿を見ると、その目を閉じた。
「舞子がもう嫌がっています。あなたたちもさっきから黙ってばかりで、とくに話すこともなければ、今日の面会はこれで終わりにします」
由紀子は舞子の肩に手を触れて、机向こうの四人に言った。
「いいですね」由紀子はやや大きめの声で言った。
由紀子は立ち上がった。舞子も立ち上がらせようと促す。舞子が立ち上がる。
舞子は振り向いて初めて顔をみんなにはっきりとみせた。知らないなにか、まるで動物に対してでもように手を振った。
ドアが閉められる。
舞子が部屋に入り、出て行くまでどれぐらいの時間だったのだろうか。一分のようにも思えるし何時間もたったようにも感じる。
「もう、祐介なにか言ってよ」葉子が頬を膨らませて言った。
「無茶言うな。お前なんてこっちばかり見やがって、なんだ、あの態度は」
「なんでそんな言い方するのよ」葉子が机を叩く。
「その元気を委員長がいるとき出せよ」祐介も机を叩く。
「ケンカしている場合かよ。どうするんだよ、深川の姉さんもなんだか怒っているし。面会も終わりにされたしよ」寛が腕を組んで、右手人差し指で眼鏡のズレを直す。
「お前だってめがねばっかりいじって、なにもしてないじゃないか」祐介が怒鳴る。
「もう、やめて」紗枝が叫んだ。
紗枝はハンカチで顔をずっと拭いていた。アンダーアイラインが涙に溶けて黒い涙を落としていた。それをハンカチで広げるから、顔が黒く、ファンデーションとチークにまた混ざり、それを今ハンカチだけで拭き取ろうとしていた。顔は様々な色で汚くなっていた。
「なあに、紗枝、ひどい顔」
葉子が口を抑えて笑い出そうとすると、ドアノブが回される音がした。
由紀子ひとりが部屋に入ってきた。
「あなたたち、帰るわよ」張りあがった声で四人は硬直した。
ゆっくりと遅々と立ち上がる四人を見下ろすように腕を組んで見えていた由紀子はふいに右手を高く上げて、その手を勢い強く振り下ろし机を叩く。机から硬く乾いた轟音がした。
四人は顔を見合わせる。祐介が立ち上がる。
無言のまま部屋を出る。祐介について、あわてて全員立ち上がる。
ドアが閉められる。
病院を出るまで全員黙っていた。由紀子だけが顎を引いて前方を見据えてハイヒールの音をたてて歩いていた。後ろの四人はうつむきながら、肩を落として、足をひきずるように歩いていた。
病院を出るとまた強い日差しが目にかかる。空は青く、濃い影を落とす。
祐介が目の上に手をかざそうとするとき、由紀子が振り向いた。
その姿勢はほぼ仁王立ちの構えであった。
「あなたたち、今日はなにしに来たの。舞子に会いたいっていうからわざわざ車まで出して連れてきたのに、なにも言わないでさ。じゃれあってばかりで、腹たってしょうがないわ」
眉を吊り上げて由紀子は言った。祐介をはじめ、みんな硬直してしまった。
「舞子の同級生ってもう二十歳でしょ。大人としての自覚がないの」
由紀子は髪をかきあげてなおも続ける。
「舞子はあんなふうだけど、一応感情だってあるし、考えていることだってあなたたちとかわらないわ。ただ、それをうまく表現できないだけなの。それはここにくる前にも話したよね。精神はおかしいけど、普通の人と同じように接してほしいと。だけど、あなたたちはそうじゃなかった」
由紀子は一度空を見上げた。嗚咽をもらす。泣いているようにも見えた。
「今日、どれだけ舞子が傷ついたか。あなたたちはその想像もつかないの」
そう言うと振り向いて歩き出した。
「ここから右にずっと歩いていけば国道に出るわ。そこからタクシーでも拾って帰って。もう、あなたたちの顔も見たくないわ」由紀子は声をあげた。
動けないでいる祐介たちを残して、駐車場から車のドアの開閉する音が響き、エンジンがかけられて草々に車は彼方へ走り去っていった。
「行っちゃった」葉子がつぶやく。
「しょうがない。怒らせちゃったんだから」祐介が肩をすくめる。
「私たちが悪いのもわかるけど、もう少し、お姉さんも私たちのこともわかってほしいわ。まさか、あそこまでとは思わなかったもの。会話も成り立たないなんて」
紗枝がジーパンの裾を握る。顔の頬あたりが痙攣している。
寛は座り込んだ。振動でずれためがねを直す。
「さて、どうしようか。すぐ夕方になって、夜になっちゃうぞ」とため息をついた。
祐介は病院に向かってまた振り返った。あの壁の向こう側に深川舞子がいる。だが再び会うには鍵のかかったドアをいくつも開けながら進まないと会えない。しかも肉親同伴が規則で、勝手に会うことが許されない。
舞子もまた、赦しが下りないと自由に外出できない。
祐介は急激な眩暈に襲われた。強い日差しの下で動こうとしなかった祐介は日射病をおこした。
紗枝が駆けつけて膝の上に祐介の頭をのせる。寛は急いで病院の中に走った。
それからのことを祐介はあまり覚えていない。記憶が途切れ途切れだった。意識がはっきりしたときはタクシーの中にいた。本当は最寄り駅までタクシーの予定が、祐介が立てなくなったから、祐介の家まではタクシーを走らせた。
後からその分の請求をされた。
記憶は飛んでいたのは現実のことで、逆にそのときみた夢は鮮明に覚えている。
祐介が立つ前にステージ上、舞子がいる。舞子は大観衆の前で楽しそうにダンスを踊っていた。大歓声とまばゆいスポットライトを浴びながら舞子が躍動する。
その夢をしばらく忘れることができなかった。
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