第5話
祐介の夢はここで途絶えた。目を覚ませば現実に戻された。寝汗でシャツの色がすっかり変わっていた。額の汗をぬぐう腕も汗が滴り落ちていた。
外は光に包まれていた。窓を開けると新緑が広がっていた。肌寒い風が部屋の中に入っていく。鳥が空を舞う。その向こうに薄く大きな雲が浮かんでいた。
額に手をかざす。汗が乾いていく。叫び出したくなる衝動。
どこかに落ちている携帯電話を探して、布団の下に潜り込んでいるのを発見すると、焦りからかお手玉をしてしまう。落ち着いてから息を整わせてボタンを押す。呼び出したのは赤塚寛。これからすぐにいつものスタジオに集まるようにと号令をかける。まだ寝ていた寛に大声をあげた。文句をぐじぐじ言う寛を無視して携帯電話を閉じた。
祐介は窓を閉めると急いで着替えた。よれたトレーナー、くたびれたジーンズを着て、上にかけようとしたジャンパーを壁に投げて戻した。履きつぶしたスニーカーに足を収めると走り出した。
走りながら拳に力が入っていく。駅まで近づくとギターを忘れたことに気がついた。
「あ」と声をあげて高台にある駅前から振り向くと、家から見た空と変わらない空があると、笑いがこみ上げてきた。
向きなおして切符を買って改札口をすぎる。仲間の待つスタジオに真っすぐに赴いた。
スタジオにはまだ誰もついていなかった。携帯電話にはメールも入っていない。イスに座っていると体がむずがゆくなってくる。受付でアコースティックギターをレンタルする。個人でスタジオ一部屋を借りて入る。
軽くチューニングを合わせると、ストロークして音を確かめる。指で弦をなでる。
足を組んでギターを優しく抱える。拳でボディを叩いてリズムをとる。
曲名は「HELP」目を閉じてゆっくりと歌う。あの日からこの曲は何度も練習して、ライブでも定番の歌として歌っている。
祐介の体に染み込まれ、いつだって歌うことができる。曲ができない、ライブがうまくできなかった、そういうときこそ「HELP」を歌った。いいことがあったときも同じように歌った。
曲を弾き終わるとドアをノックする音がした。開けると葉子を先頭に寛と紗枝がいた。
「また、その曲やっているんだな、好きだね、しかし」葉子はくってかかったような笑い方をする。
「うるせえな、遅いからとりあえず弾いていただけだ」
祐介はストラップを肩から外して、ギターを壁に立てかけた。
「急に呼び出しておいてそれはないだろ」
腕を組んで葉子は嘲笑する。
祐介は歩み寄る。
「オレたちにはなんというか華というか、これというバンドの目玉がなかった。他のバンドと似たり寄ったりだ。これじゃ勝てない」
祐介はそれぞれに視線を送る。
「なにか考えがあるのか」寛が言う。
「メンバーを増やそうと思う」祐介は表情を微笑ませて言った。
葉子は目を見開き、口を大きく開けた。寛は素っ頓狂な声をあげる。
「誰。もう決まっているの」紗枝が葉子の腕を掴んで裏返った声で言った。
「本人にはまだなにも言っていないから、断られるかもしれない。だけどこれはまだ案というかみんなの意見も聞いておきたくて」
「だから誰なんだよ、私たちの知っている人なの」葉子は前髪を掻きながら言った。
「深川舞子だ」
そう祐介が言うと口を硬く結んだ。
「え」寛は聞きなおした。「誰だって」
「だから中学のとき同級生にいただろう、深川って。あいつがダンスやっていたっていうのを思い出したんだ。それでこのバンドにダンサーとして入れたいんだ。どうよ」
「深川だってぇ」葉子がわざとらしく笑い出す。走って祐介に近寄った。
肩を大きく叩いて白い歯を見せながら笑う。
「そうかそうか、夢にまで出てきたのか。祐介は委員長に惚れていたもんなぁ」
祐介は葉子の手を払う。
「そんなんじゃねえよ。ただみんなの目をひくと思ってさ」祐介は葉子を無視して寛と紗枝の顔を見る。
「でも本人にはなにも連絡してないんだろ。大学生なら少しは時間があるかもしれないけど、働いていたり、引っ越してどこか遠いところに住んでいたらどうするんだよ」
祐介は唇に手をやって唸りだした。
「なに、お前まさか」寛は背負っていたギターを肩からずり落とした。
「断られるかなというのはあったけど、その理由までは考えたことなかったな」祐介は頭をかいた。
「この世間知らずのフリーターが」
「うるせえ」祐介が足を振り上げる。葉子が笑い出す。
葉子がふと横をみると、いつも笑っている紗枝が口を結んで頬を手で覆って俯いている。葉子は「どうしたの」と声をかける。
「深川さん、引っ越していないわ。働いてもいないと思う。確か」
「え、マジ。じゃ、いけそう」
祐介は指を鳴らして体をターンさせる。だけど、紗枝は目線を上げない。
「深川さん、噂で私も本当のところまではわからないけど入院しているハズ」
「え」寛と葉子は紗枝の顔を見る。
「体でも悪いのか、病気。それとも事故かなにかなのか」祐介は身を乗り出して声を張り上げる。
「体の病気じゃないわ。事故でも怪我でもない」
「じゃあ、なんで入院しているんだ」
祐介はツバを吐き出した。
「お母さんたちの話だから信憑性とかいまいちだけど」
紗枝は一瞬祐介に視線を送るがすぐに下に戻した。
「精神病院だって」
場が静まる。
葉子のツバを飲み込む音がする。
「ばかな」
祐介は頭をかきむしる。そのままへたり込んだ。「ばかな、なぜ」
「そうだ、なんでだ。中学のときじゃ委員長やっていて学校じゃ活き活きしていたじゃないか。信じられないな」
寛はめがねのズレを直す。
葉子は壁に寄りかかって前髪をなぞる。ため息が漏れる。
「そうだ、なにかあったのかよ。理由とか。突然そんなことにはならないだろ。信じられるかよ」
「おい」祐介は紗枝の顔に向かって怒鳴った。
「これ以上はわからないわ。私だってそんなに深川さんとは仲はよくなかったし、お母さんからその話を聞いても、少し悲しい気持ちはあったけど、ふうんって聞き流したから、そんなに深くは知らないわ」
紗枝は半べそをかきながら祐介を睨んだ。
祐介はアンプを蹴っ飛ばした。マイクスタンドも蹴っ飛ばした。
「オレは信じないぞ」
水の入ったペットボトルを蹴り飛ばし壁にぶつけた。マイクを手にとって思いっきり壁に投げつけた。
「おい、機材とかはマズイって」寛が止めに入る。
「うわあああ」祐介は寛を振り払い、悲鳴を上げた。
「おい、篠崎祐介ぇ」
葉子が金切り声で叫んだ。
祐介の動きが止まる。
「アンタ、それでも男かい。なんだい、噂話に動転しちゃって情けない。それに精神病院がなんだっていうんだ。委員長がどんな状態なのかわからないで勝手にパニックになってどうするの」
葉子はブーツの足音を立てながら祐介に近づく。
瞬間、乾いた音が響く。
葉子が祐介の頬をひっぱ叩いた。
「委員長に惚れていたんだろ。仲間に入れたいんだろ。どうなんだよ」
祐介は鼻血をたらしながら頷いた。
「だったらその人を笑わせるような顔をさっさと洗ってきな。行くぞ」
祐介は手で鼻をぬぐい、部屋から出て行った。
「どこへ」寛が聞いた。
「とりあえず、委員長の家に行ってみるか。引っ越していなければ家族はまだそこにいるでしょ。委員長の状態と、あと入院している病院も聞いておこう」
「葉ちゃん、深川さん入れる気なの」
紗枝が葉子をまっすぐに見て言う。
葉子は腰に手をあてて天井にため息をついた。
「祐介がそうしたいっていうんなら、それもいいんじゃないかって思ってさ。いつだってあいつの一声でなにかが動いてきたんだ。そのあいつが不安をもって、なにかをしようっていうならそうするまでだ。だって、このバンドをつくったのはあいつだし、あいつの好きにさせてやろうと思ってね」
「束縛を嫌うお前が意外なこと言うな」寛がめがねをさすりながら言った。
「ふん、これもあたしの自由さ。ただ精神病って聞いただけで腰抜かすヤツは嫌いだからひっぱたいてやったわ。それでもやめるんなら、それもひとつの答えでしょ」
葉子は大口を開けて笑った。
そのときドアの開ける激しい音がした。祐介がドアを蹴っ飛ばしたのだ。
「コラア、外まで聞こえているぞ葉子」
「なんだ、やるのか鼻血男」
「なんだとぉ」
寛が決まって仲裁に入る。
紗枝は三人の姿を見ていると胸が震えてきた。ツバを飲み込むと涙がひとつ零れ落ちた。
紗枝は袖で頬を拭うとドラムの席に座った。
「ねえ、せっかくだから一曲やってから、行かない。私なんだか、そんな気分なんだ」
そう言うとドラムを軽快に叩きだした。
「いいね」祐介が応えた。エレキギターをアンプにつないでエフェクターを踏む。
寛もうなずいた。
「こういうことははやいほうがいと思うけど、まぁいいか。金も払っていることだし」葉子は自分のベースをバックから取り出す。
「あ、チューニングしてないや」葉子がそう言うと「いいよ、そんなもん。はやくお前も参加しろ」と祐介は派手にチョーキングした。
歪む音に葉子は苛立ちを隠せなかったが、葉子はそのままベースをアンプにつないだ。
紗枝は葉子の準備できたのを確認すると、改めてリズムをとった。
曲はクラッシュ「白い暴動」
よく葉子がなに言っているかわからないとバカにしている曲だが、祐介が「誰もが学校に行く、そこでいかに間抜けになるか教え込まれる」ってところがすごく好きだって言っていた。ドラムのイントロが始まると祐介がパトカーの音をまねて声を出した。
一曲終えると、すぐに退出の準備にかかった。
一度全員家に戻り、楽器を置いて再び、紗枝の家に集まった。深川家に電話してまずは舞子に会いに行く。そのための交渉は紗枝が一番適しているとの判断だ。
紗枝はしぶったが面子を考えると仕方がないと思った。
「紗枝は中学のときにも理科室を使わせてもらったり、こういうことは向いていると思うんだよね」葉子は紗枝の両肩をもみながら言った。
「ちょっと電話するときは他の部屋にいてよ。ただでさえ緊張するんだから気が散るわ」と言って葉子たちを部屋に押し込んで、紗枝は居間にある電話で深川家にかけた。
壁ひとつむこうに耳をたてながら様子を伺う祐介と葉子だったがまるで声は聞こえなかった。寛だけは落ち着いてお茶をすすっていた。
「お前よく落ち着いていられるな」と祐介が言うと「別に」と寛は答えた。
数分後、紗枝が部屋に入ってきた。
「どうだった」祐介が紗枝の顔を覗き込む。
「面会は一応大丈夫だって。ただ、家族の同伴が必要だから、深川さんのお姉さんも一緒に行くことになったわ。日時は来週の水曜日のお昼。それでいい」
「わかった」祐介が言うと、葉子がしゃがみこんだ。
「家族同伴じゃないといけないって、いよいよ本当っぽいね」
「ええ。しかも重度で、まともに話せるかもわからないって言われた。その覚悟も聞かれたわ。日によってコンディションも違うから場合によってはその日は面会もできなくなる可能性もあるって。朝よくてもすぐに変わったりするから面会途中でも無理だとわかったらすぐに中止にすることもあるって」
紗枝は舞子がいる病院名を書いたメモを祐介に渡した。
「当日はお姉さんの車に乗せて行ってくれるって。郊外にあって電車で行くには少し大変なところだからって」
祐介はもらった紙を丁寧にたたんでズボン後ろポケットに入れた。
静かに立ち上がり、全員を見た。
「ごめん、今日はオレもう帰るわ。来週また会おう」そう言うと振り向いて玄関に歩いて行った。
「また、あんたはぁ」葉子が拳を握って立ち上がった。
祐介は振り返った。「勘違いするな。弱気になっているわけじゃない。その覚悟を固めるだけだ。会いに行って現状を知る覚悟じゃない。その上でメンバーに入れるかどうかの覚悟だ」
葉子は中学の頃にみた祐介の面影をみた。真面目な顔つきの中にもおどけた表情。人によっては不敵な生意気にうつるが、みる人がみれば期待せずにはいられない高揚した気分にさせる。葉子は握った拳をガッツポーズに変えて祐介を励ました。
「あいつの顔ってイラつかされるような、とぼけた顔しているよな」腰に手をあてて葉子は吐き捨てるように言った。
寛は膝を抱えて座って黙っていた。少しも落ちていないめがねをしきりに気にして指先でいじっていた。
「寛、アンタなんか今日は中学のときのアンタに戻ったみたいだよ。祐介も中学のときみたいに見えたからかもしれないけど、アンタは悪いほうに戻ったみたい。なにも喋らなくなって、なにも興味なさそうで、なに考えているかわからないような」
葉子は寛をみると思わず口をついてでた。
「なんだと」
寛がにらんだ。
「言いたいことがあるならハッキリしなさいよってことよ。なにイジイジしてるのよ。男のくせに」
「うるせえ、なにもねえよ」
寛はそう言うと紗枝の家から駆け出て行った。
「なに怒らせているの」紗枝がため息をつくと葉子がしゃがんでいた。
紗枝が葉子の肩に触れると、葉子は震えていた。
「へ、情けないね。男どもに抜かしておきながら自分はこのザマだもんね」
紗枝は首を横に振った。
「うん、しょうがないよ。私も受話器を持っていた手がまだ震えているもん」紗枝は笑った。
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