第4話

 ビートルズの曲は「HELP!」に決まった。誰でもわかるという前提において話し合った結果だ。一曲だけの演奏とはいえ、みんな練習のときは顔つきがかわる。原曲を何度も聞いて練習がおかしいとすぐに聞きなおす。自分らなりのアレンジも加える。何度も何度も納得がいくまで練習した。


 本番まであと三日まで迫った練習の日、理科室のドアが開いた。深川舞子だった。

「どこで練習をしているのかと思ったら、こんなところでやっていたのね」

 演奏が中断されて全員が舞子を見る。

「あの、なにか」紗枝が聞く。

「文化祭準備の詰め作業をちょっと抜け出してきたの」というと舞子は舌を出した。

「ね、ちょっと演奏を聞いてもいい」舞子はそう言うとイスを引き出して座った。

「ダメだ、でていってくれ。もう本番も目前なんだ。大事なときだから」祐介は舞子に近づきながら言った。

 舞子は唇を噛んで祐介を睨んだ。

「なによ、いいじゃない。本番だと大勢を前にしてやるのよ。それが今私ひとりだけで萎縮しているの。そんなんじゃ本番が思いやられるわ」

「なんだと」祐介はギターを肩から外して舞子の目の前に立ちはだかった。

「なによ。どうする気。私を殴る気なの」

 舞子の大きく潤んだ瞳に祐介の苛立たしい姿が映った。

 葉子と紗枝が顔を見合わせる。寛は動けずに固唾を呑んだ。

「ね、いいじゃない。当日私は執行部であなたたちの演奏を聞けないのよ。お願いだからさ、いいでしょう」

 舞子は手を合わせてちょこんと頭を下げた。その仕草に祐介は顔をそらせた。

「おい、みんなはどう思うよ」祐介は声を震わせながら言った。

「ま、いいんじゃないの、別に」葉子が言う。

「私も反対しないわ」紗枝が言う。

「みんなもいいって言っているし、いいよ」寛も言う。

 祐介は頭を掻いて、その手を払うと吐き捨てるように「じゃ、そこに座っていな」と言った。

 深川舞子ひとりだけど始めて人を前にして演奏した。祐介はなかなかうまく弾けない。練習ではもう目を閉じたってできるフレーズでミスをしてしまう。つられて葉子も考えられないミスをする。ギターとベースがちぐはぐだとドラムも音を合わせづらい。寛の演奏だけが骨格を維持していたから、かろうじて曲として成り立っていた。祐介の意味のないシャウト。曲が終了する。

 舞子は拍手した。思いっきり手を叩いていた。

 祐介は始め呆気にとられたが、舞子が拍手をやめないので胸をかきむしった。

「やめろ」祐介は叫んだ。

「いつまで手を叩いているんだ」祐介は前にあった机を平手で叩いた。

 舞子は拍手をやめた。

「だって、よかったのだもの。拍手をしてなにが悪いの」舞子は口をとがらせた。

「なにがよかっただ。ミスは連発、音は合わない、歌詞だって途中飛んでいる」

 祐介がそう言うとみんな俯いてしまった。

 沈黙が流れる。祐介がギターを置くと、その音がスピーカーに反響して大きな音がでた。祐介は息切れしていた。

「そんなふうに聞こえなかったわ」舞子は立ち上がった。

 祐介はギターを持ちかえた。

「もう一度聞いてほしい。さっきのは不本意だ」

 祐介はみんなを見た。葉子は頷く。紗枝はスティックを叩いてリズムを刻む。

 やりなおした演奏はうまくいった。祐介はふだんやらないギターリフも入れた。

 演奏が終わると祐介は飛び跳ねた。紗枝がドラムを祐介の着地に合わせる。祐介はギターを振り上げた。

「おおー、今度はキレイに決まったね。拍手していいかな」舞子は両手を握ってはしゃいだ。

「好きにしなよ」祐介は鼻で笑った。

 葉子は祐介を肘でつついた。

 舞子は拍手をした。

「ねえ、アンタ、いつまでもここにいていいの」葉子が声をかける。

 舞子は壁掛け時計をみる。見ると両手で口をおさえた。

「いけない。みんなに怒られちゃうわ」

「ねえ」葉子はもう一度声をかけた。

「アンタもこのバンド入ってみたくなったんじゃないの」葉子は笑みを浮かべる。

 舞子は立ち止まって微笑んだ。

「私には将来の夢があるの。それは音楽じゃないの。これよ」

 そう言うと舞子は足でステップを踏んだ。膝を手で叩いて、手拍子に変え、それから踊り出した。

 寛が口笛を吹いた。

「ダンスやっているの、委員長」紗枝がスティックを振り上げて叩く。

 舞子はダンスを止めた。

「母親がインストラクターやっていて、私はプロになりたいの。これ、みんなには内緒にしているんだけど。将来はダンスの海外留学もしたいの。だから英語だけは頑張っているのよ」

 舞子は照れ隠しのように笑った。

「みんなもプロになれたらいいね」

 舞子は言葉を残して理科室から出て行った。

「プロ」祐介は頓狂な声が出た。今までまるで意識していなかった言葉が口をついてでた。

 

 本番当日を迎えた。

 生徒達はそこでプログラムを渡される。不審に思った生徒から声があがった。本来休憩時間として挟まれる時間帯に「特別バンド演奏」とプログラムされている。

 このプログラムに関して認知しているのは教師たちと執行部でも限られた人、深川舞子と副委員長、そして祐介たちだけであった。

 クラスのひとたちからは冷ややかな視線を浴びていた。なにも知らない生徒達は祐介たちが今日なにしに学校に来たのか不可解だからだ。

 中学の文化祭は体育館中心に行われるかたちになった。校内アナウンスが催し物の案内をする。その準備の間、各教室にある展示物を自由に生徒や父兄は鑑賞するのであった。

 祐介たちはアンプなどの機材はすでに体育館の舞台裏に運んでおいたが、楽器は理科室の手元にあった。文化祭を満喫する余裕はなく、リハーサルをかねた練習を何回も繰り返した。祐介たちが校舎内で見かけなくても誰も気にする者はいない。

 紗枝は葉子が風邪の心配かと疑って心配するほど緊張で震えていた。ドラムセットは体育館倉庫にあるためスティックバチで机を叩くだけの練習だが手元がおぼつかない。

 祐介も指がうまくひっかからない気がする。葉子は目を閉じながら演奏する。寛はさっきから深呼吸をしてばかりいた。

「おい、今何時だ。そろそろ行ったほうがいいんじゃないか」祐介は何度も時計を見ながら言った。

「ダメ、だめ、駄目」紗枝が祐介の袖を掴む。

「ダメって、じゃあいつになったらいいんだよ」祐介は不機嫌になって紗枝の手をあしらった。

「ううう、大丈夫かな、大丈夫だよね」

 紗枝が両腕を抱えながら小刻みに跳ねる。

「あんまり緊張しないでよ、こっちまでうつっちゃうわ」葉子が紗枝の背中を叩く。

「とにかく悔いを残さないように、がんばろう」祐介が拳を突き上げる。

「なに、アンタいやに余裕じゃないの」葉子が呆気にとられる。

「ああ、吹っ切れた。オレって本番に強いのかもな」祐介は大きな声で笑った。

「よく言うよ、無理しているくせに」葉子が笑った。

 つられて寛も笑った。紗枝も笑顔になった。

 理科室を出て体育館に向かう途中で深川舞子に会った。

「あ、丁度今迎えにきたところなのよ」舞子は無邪気な笑顔をみせる。

 祐介は舞子を見ると体が硬直した。歩くのが止まると後ろにいた葉子が鼻を祐介の背中にぶつけた。

「ちょっと、アンタなに急に止まっているのよ」葉子は鼻をおさえながら言った。

「委員長にも聞いてほしい。本番のオレたちの演奏を。できるかい」

 祐介はそう言うと自分の腕を掴んだ。握り締める。

「いいよ。聞いてあげる」

 舞子は微笑むと振り向いて走っていった。

 祐介の後ろにいた三人はみんな顔のにやけがなかなか治らなかった。祐介の顔が赤らんだからだ。

 体育館ではざわめきが大きくなっていった。プログラムに書かれた「特別バンド」というのが原因であった。

「誰が来るのかな」「もしかしてプロかな」「先生とかだったら嫌だな」「今までこういうのはなかったんでしょう。なんか楽しみだね」「期待しちゃう」そういった声があがる。

 菅原先生は廊下ですれ違う生徒の話を聞いていた。その声をすぐに深川舞子に伝えた。舞子は体育館の脇の委員席に座っていた。そこへ菅原先生が耳打ちをしてこのプログラムを削除すべきだと言った。

「君が中心となってやるなら話は別だが、例の問題児がこんなに話題になるのはまずいのではないか」

 舞子は立ち上がり、背筋を伸ばして手前に手を重ねて、菅原先生の目に視線を合わせる。

「もうあと少しの時間で開演です。もう中止にすることはできません」

 菅原先生は唇をつねってなにも言えずに引き返した。

「深川さん、なにかあったのですか」隣に座っていた副委員長が尋ねる。

「ううん、なんでもないわ」

 舞子はそう言うと歩き出そうとした。今準備を行っている祐介の様子を見に行こうとしたのだ。

「委員長、次のプログラムの時間です。放送をお願いします」声がかかった。

 舞子は座りなおす。マイクのスイッチをオンにする。息を吸い込む。

「みなさま、次のステージのご案内を申し上げます。特別バンド四人組によります特別演奏を行います。曲はビートルズのHELP!」

 マイクのスイッチが切られる。

 紗枝がスティックを叩く。

「イチ、ニ」ドラムを叩く。

 幕が上がっていく。歓声があがる。

 祐介が歌いだす。

 祐介の姿が観客席から見えると、手拍子と歓声は弱くなった。代わりにざわめきがおこった。

 祐介は構わずに歌う。なるべく客席は見ないようにする。やや上のほうに視線を合わせて、時々ギターコードを確認するようにギターネックをみる。

「あれユーレイじゃないか」

「なんであんなことしているんだ」

「ずるーい、なにあれー」

「なんでアイツらこんなことしているんだよ。おかしいだろ」

 ざわめきは次第に騒ぎになっていく。不愉快な口笛が吹かれる。ブーングがおこった。

 祐介はHELPと叫ぶ。緊張で喉が渇き、声がうまく出なくなっていく。冷や汗が背中を湿らせる。

 指が震えてコードがうまく押さえられない。右手もうまくピッキングできない。音がバラバラになる。

 紗枝も前を見ると恐怖に引きつりそうになりながら縮こまってドラムを叩く。そうすると音に迫力がなくなる。素早い動きもできない。リズムが狂う。今どの辺りを演奏しているのかでさえわからなくなる。

 葉子は舌打ちした。コーラス部分も忘れて歯を食いしばった。今にもベースを投げ出して壊してしまいたかった。そうすれば少しは黙ってくれるだろうと。横で祐介が蒼白な顔をしている。声が出なくなっても歌おうとしている。その姿を見て葉子はこの曲だけでも終わりまで弾こうと考え直した。

 演奏しているスピーカーからの音よりもブーイングの声のほうが大きくなる。

 寛はすでに演奏を放棄していた。自分の名前が悪意を込められて呼ばれるたびに心臓に痛みを感じた。腕は硬直して動かない。嘲りの笑いが起こるとすべてが自分に向けられている気になる。

「こんなこと参加しなければよかった。篠崎祐介、オレもう今にも屋上から飛び降りたいよ」小声でつぶやいた。一言が漏れると独り言は加速する。

 演奏の音は体育館にはもうほとんど聞こえない。悲鳴や怒号、笑い声だけがこだましていく。

 祐介は貧血を起こしそうになる。目の前が点滅しだして暗転しそうになる。平衡感覚が掴めずに立ちよろめく。

 だけど、あと少し、あと少しで曲が終わる。どんな形であれ最後までやり通したい。そう願った。

 その時

 突然音が消えた。スピーカーの残響が激しくこだました。舞台のスポットライトが消えて真っ暗になった。

 舞台袖で大笑いをしている男子生徒が何人かいた。ひとりが笑いながらコードを何本も持っておどけている。

 その様子を祐介、葉子、紗枝が見た。寛は膝をついて倒れている。

 場内は爆笑に包まれた。あからさまな侮蔑の笑い。指をさして笑っている。男子生徒が引っこ抜いたコードを祐介に投げつける。そこでまた笑い声が大きくなった。

 祐介は立ち尽くした。嘔吐感がこみ上げる。口が震えて歯が小刻みに当たる音が体に響く。呼吸困難になる。

 紗枝が泣き出した。泣き声がさらに嘲笑を誘発する。好き勝手なことをいう大衆。

 葉子が「あー」と雄叫びをあげた。「誰だ、音をとめたヤツは」そう言うと舞台袖へ走り出した。

 葉子が祐介の前を通りすぎようとした時、祐介は持っていたギターを振り上げて、舞台に叩きつけた。鈍い音が場を静かにさせる。ネックを強く握ったため、弦で手が切れて血がでた。血豆もつぶれた。叩きつけた衝動で手首をひねってしまい赤く腫れあがった。

 祐介は膝を舞台についた。体は骨が軋むほど震えている。頭が支点を失ったように回る。

 祐介は吐いた。嘔吐物が広がる。場は騒然とした。女子生徒の悲鳴が木霊する。大声が渦巻く中、祐介は泣いた。上半身を起こしている力も失い、嘔吐物の中に頭が落ちた。

「うおあがあああああああああああああ」

 声を失っていた祐介は声をあげた。祐介の叫び声は続いた。

 その声に体育館は静寂した。逃げ出していた生徒の足は止まって、祐介をみた。

 校内放送のスイッチが入れられた。マイクの音が入る。

「これが我が校生徒のすることですか」

 深川舞子の声だった。

「篠崎君の演奏を止めた生徒は名乗り出て、篠崎君に謝ってください。それから笑った人、すべての人も謝ってください。そして、これがどういうことかを考えてください。なぜ、こういうことをしたのかを篠崎君に説明してください。私は悲しいで、え、ふ」

 舞子は声を詰まらせた。

 舞子はスイッチを切った。伸ばした手をそのままに顔を伏せた。肩を震わせて泣いた。

「ごめ、ごめんね篠崎君、まさか、こんなことになるなんて」

 舞子の声は祐介に届いた。

 祐介は歯を食いしばって体の震えを止めた。まずは立ち上がろうと足を拳で叩きながら、もがいた。

 舞台の上の三人が祐介に駆け寄った。寛は力強く祐介の腕を掴んだ。

「大丈夫か、立てるか」

 祐介は袖で目を拭い、口を拭いた。

「今、深川さんが放送で言ってくれた、嬉しかった」

 祐介は呼吸を取り戻すかのようなため息をついた。

「オレは今日のことを忘れない」

 葉子はふてくされたように歯軋りする。

「ああ、悔しいよね」

 祐介は寛の肩に手をかけて、少しの笑顔を浮かべた。

「いや、精一杯やれば深川さんのように見てくれる人は必ずいる。オレはそのことを忘れない。悪いヤツはどこにだっていつだっている。嫌なことはどうしたって忘れられない。そうじゃなくて意識して忘れないことを覚えておきたいんだ」

 葉子は祐介を支えていた手を離した。舞台袖に入る手前で目頭をおさえた。

 演奏を止められたときは出なかった涙があふれでた。

「ゲロだして、なに言っているんだ」

 葉子は笑いながら涙が止まらなくなっていた。

 祐介はそれでも食いしばった歯を震わせていた。祐介は外の体育倉庫裏に自分の鞄を隠していた。それを取るとそのまま下校した。

 葉子と紗枝は顔を見合わせた。

 後ろから走ってくる足音が聞こえてくる。深川舞子だった。

「篠崎君、待って。こんなことになるなんて私も」舞子の息は切れ切れだった。

 祐介は歩く速度を変えることもなく、振り向きもせずに、歩いていった。

「お願い、戻ってきて。みんなに説明してもらうから」舞子は叫んだ。

 葉子が舞子の腕をつかんだ。

「なにするの」

「なにするの、じゃないよ。このまま帰してやってよ。みんなの前で謝られたって、恥かくだけだわ」

 もがく舞子だったが、葉子は握力を強くして離さなかった。

「篠崎くーん」紗枝が叫んだけど、祐介は最後まで振り向かなかった。

 舞子の声は聞こえていた。だけど祐介は頑に首を動かそうとせず振り向かなかった。

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