第2話

 その夜、夢のような思い出を辿った。

 今のバンドのメンバーは中学生のとき集まった。中学三年生になるまで会話を交わしたことのない四人だった。学年は五クラスある中で中学三年になってはじめて四人は同じクラスになった。始業式が終わって教室に集まると、誰かが声をあげた。

「うわあ、このクラス変なのがいっぱい集まったよ」

 祐介はその声に思わず振り向いた。ツバを飲み込む。後ろの机に手首をぶつけた。だけど声は出なかった。

 クラスでは悲鳴があがった。

「私、違うクラスがいい」

「うわ、マジかよ、超サイアク」

 まず祐介の目にとまったのは朝霞紗枝。男子生徒のひとりがわざとらしく座っている紗枝のイスの脚を蹴る。面白がって続いて蹴る者がいる。「うわ、本気で蹴っても少しも動かないよ」「スゲー重い」冷ややかな笑いが起こる。まわりを囲むように女子たちも笑う。

 紗枝は嵐が過ぎ去るまで黙って俯いたまま耐えていた。それがいつもの風景とばかりのいうように。

 窓際の一番後ろの席で、机に足を乗せて座っている女子生徒がいる。渋谷葉子。「あの、そこ私の席なんですけど」意を決して葉子に意見をした女子生徒は「うっせーな」と声を荒げた。その女子生徒は泣きそうになるが、その友達に促されてなぐさめられる。

 渋谷葉子は大学生の恋人が中学一年生からいて、すでに処女ではないという噂だけがたっていた。髪の毛をメッシュにまっすぐ何本かだけを赤く染めていた。葉子は授業中も休み時間も固まっているかのように空を見ている。その佇まいを守っていた。

 葉子とは対照的に大体出席番号一番でいたためか、このクラスでも一番前の席に指定されていた赤塚寛。いつもなにかの本を読んでいた。声を聞いたことがないと囁かされる生徒だった。

 祐介は教室を見回した。ツバを再び飲み込んだ。祐介は教室の中央で立ち尽くした。その祐介にも誰も近づこうとしなかった。

 祐介もまた友人ができなくて悩んでいた。

祐介は中学生からこの土地に引っ越してきた。大抵の児童は近くの公立小学校ふたつから繰り上がって公立中学に入学してきた。中学一年生の一学期からすでに祐介はよそ者扱いされていた。それでも交流を深めて中学一年生は特別仲のいい友達はできなかったが、まぁまぁうまく打ち解けられるところまできた。

二年生にあがりクラス替えがあると、その中で比較的からかわれている生徒がいた。池田といった。クラスは面白がって池田をいじったりしていた。祐介はそういうことはなんとなく面白くなく、その輪には加わらないように避けていた。

それでもある日、授業で池田が先生に指されて、うまく答えられずにいた。池田は両手をもみながら黙ってうずくまってしまった。そこへひとりの生徒がはやしたてた。続いて何人かも声をあげる。クラスは爆笑した。先生までも笑っている。祐介はまわりを見回した。そして笑われている池田を見た。泣きそうになっているように見えた。池田は勉強をあまりできなかった。特に数学を苦手としていた。それは全員知っている。先生も知っていてわざと指したのだ。

祐介は机を叩いて立ち上がった。

「いくらなんでも、先生までひどいじゃないですか」

 教室は静まった。固まって全員が祐介を見た。緊張して見ていた目がやがて嘲笑の目に変わってなおも祐介を見ていた。数学の時間授業はそのまま終わった。

 休み時間になると男子生徒は祐介を囲んだ。

「お前、さっきのは、なんだよ」

「みんな笑っているのに空気読めないヤツ」

「っていうか、ククク、お前ひょっとして池田をかばったの」

 ひとりが笑いながら言うと祐介のまわりで爆笑がおこった。

「お前、もしかして池田のこと好きなの」

「僕の池田くんがとられちゃうぅみたいな」

 そのうち「ホモ」の大合唱がはじまった。

 祐介は立ち上がってひとりに掴みかかろうとした。

「お前、なにムキになってんだよ。図星だからか」また笑いがおこる。

 とっくみあいのケンカになった。だが祐介ひとりでは相手にならない。簡単に組み伏せられて蹴られまくった。

 最後にうずくまっている祐介の顔に池田がツバを吐いた。

「お前、余計なことしてんじゃねえよ。オレまでホモ扱いされるじゃねえか。ふざけるなよ、よそ者が」

 祐介は泣きそうになったけど堪えた。ここでもし泣いたらそれこそ生きていられなくなる。

 しかし涙を堪えたにも関わらず、このときから祐介はまわりから遠巻きに見られるようになった。無視されるようになった。

 班にも誘われない、体育の授業の球技ではまずパスをくれない。邪魔をされる。修学旅行は休んだ。遠足もほとんど行っていない。

 祐介はその始業式から不登校気味になった。家をでたあとは図書館で時間をつぶした。図書館が休館のときは散歩したり、公園で寝たりした。勉強だけは疎かにしないように教科書は持ち歩いた。

 誰もなにも心配しなかった。親も先生もなにも言ってこない。友達もいない。

 二学期になると文化祭の打ち合わせが始まった。クラスの催しは楽器演奏会に決まり、それぞれの楽器パートが割り当てられていった。ほぼ生徒主導で先生は関与しないという方針であった。中学最後の思い出のため、すべて生徒にやらせてあげたいという配慮からであった。

 祐介の割り当ては決められなかった。祐介の他にも割り当てられなかった生徒がいた。赤塚寛、朝霞紗枝、渋谷葉子。

 この三人は不登校こそしないが協調性もなにをやりたいという意見もない消極性から、その存在を無視した。先生も特に気にする様子もなかった。いや、気付きさえもしなかった。

 不登校であった祐介がそれを知ったのは母親の紀子から聞いた。紀子は赤塚寛の母親から電話で聞いたのだ。

 母親同士はとくに仲がいいわけではなかった。だが寛の母親は何気なく息子からそのことを聞いた。まず寛の母親は同じ男の子の母親である篠崎佑介の母、紀子に相談した。

 祐介は紀子からその話を聞いていたが半ばに立ち上がって電話連絡網を睨み寛に電話した。家にいるかどうかだけの確認をとって電話を切って家を飛び出した。夜七時。

 祐介は走った。寛のマンションにたどり着き、インターフォンを鳴らす。

 寛は俯いたままドアを開けた。祐介は息を切らせながら寛を睨んだ。寛は狼狽した。めんどくさそうにドアを閉めようとするのを祐介は寛の腕をとった。

「文化祭でなにも決められなかったって本当か」祐介は寛の肩を掴んだ。

「痛いよ、やめてくれよ」寛は振り払おうとした。

「教室にいたのに無視されっぱなしかよ。なにも言わなかったのか」祐介は寛の肩を揺らす。

「どうせ、なに言ったって僕には」寛は顔を背ける。

「ちょっと、うちの子になにするのよ」寛の母親が玄関まで歩いてきた。

「お前、このままでいいのか」祐介は両手で寛の両肩を掴む。

「僕のことは放っておいてよ。もう、こういうのは慣れているよ」

 寛は祐介の腕を掴んで、思いっきり突き飛ばした。祐介はバランスを崩してドアに頭をぶつけて、うずくまった。

「あ、ご、ごめ」寛は口を振るわせた。

 祐介は頭を押さえながら、口元に笑みを浮かべた。

「お前だけじゃないだろ、外されているのは。あのふたりも、だろ」

 寛は立ち尽くしたまま、ゆっくり頷いた。

「赤塚、電話借りることできるか。次は朝霞に電話する。朝霞が家にいたらお前も来い」

 祐介は言い終わるより先に靴を脱いでいた。

 寛の母親が声をあげるが、その母親を寛が遮って祐介を通した。祐介は寛の腕を軽く叩いた。

 電話の前の壁には祐介の家と同様にクラスの連絡網が貼られている。

 電話が終わると祐介は寛を誘った。

「寛」後ろから呼ぶ声がする。祐介は「いいから」と寛の腕をひっぱろうとしたが、寛は振り返った。

「夜はまだ冷えるわ。上着を持っていきなさい」

 祐介は寛の母親に向けて親指を立てた。

 祐介と寛は朝霞紗枝の家まで走った。

紗枝の家に来るまで走りながら寛は祐介に確認した。朝霞を誘うなら渋谷も誘うのか、と。祐介はしばらく黙って走っていた。そして大きく答えた。

「オレはこれ以上、仲間外れはつくりたくない。オレは教室でのうのうと自分のことしか考えられない脳なしとは、違う」

「でも渋谷は」寛はか細い声を出した。

 その一声が祐介には聞こえたのか、聞こえなかったのか返事はなかった。そのまま紗枝の家までたどり着いた。

朝霞がドアを開けると同じように祐介は電話を借りようとして今度は渋谷葉子を誘おうとした。

「待って」紗枝は祐介が電話するのを止めて自分が掛けると言った。だが受話器に手を触れたまま動こうとしなかった。

 祐介は待った。玄関で立ったまま紗枝の動きをじっと見ていた。

「あの人は私たちとちょっと違うのよ。いろいろ聞いているでしょう、あの人の噂」紗枝は視線を落としたまま言った。

「噂だけだろ。オレは話したことがない。もし渋谷が嫌だっていうなら無理には誘わない。オレたちが集まったところでなにができるわけじゃないし、まだなにも決めていない」祐介は拳を握って言った。

 紗枝は祐介を見た。

「え、ハブにされた私たちを集めてどうするの」紗枝は大きな目をさらに大きくして言った。「それじゃ渋谷さんを誘えないよ。もし来てくれてもキレられて終わりになるよ」

「わかってる」祐介は紗枝から目を背けない。

寛は祐介の後ろで隠れるように立っていた。祐介の袖をつかんでひっぱるが祐介は少しも動かない。

「噂や言っていることが、必ずしも本当だとも本音だとも限らないだろ」

 祐介は「オレがそうだから」と付け加えて、紗枝を見つめた。紗枝が再び受話器を手に取る。紗枝は震えながら祐介を見る。祐介は頷く。

 電話には葉子の兄がでた。渋谷葉子は家にいなかった。居場所もわからないと言う。葉子の同級生とわかるやぶっきらぼうに切られた。

 紗枝の話を聞いて祐介から長いため息が漏れた。三人は黙ったままだった。

 紗枝の母親が家の中に入れるようにそっと声をかけた。寛は祐介の袖をひっぱり、帰るしぐさを見せたが、祐介は靴を脱ぎはじめた。

 寛も祐介に続いて靴を脱いだ。ふたりは紗枝の部屋に入った。

 紗枝の母親が紅茶とクッキーを持ってきた。祐介と寛は頭を少し下げた。

 紅茶の湯気が細くなっていっても口をつけようとせずに三人は黙ったままだった。

「オレ、明日学校に行くよ」祐介は両手を揉みながらつぶやいた。

「今、行くのはまずくないか。文化祭のパートも決まったばかりだし、余計に白い目で見られるぞ」寛はズレ落ちた眼鏡を直しながら言った。

「他のやつらは関係ない。渋谷に会って話してみる」祐介は寛と紗枝の顔を交互に見た。

「オレたちだけでできることをやろう。あいつらを見返してやるんだ」祐介はテーブルを叩いた。カップが音を立てる。

「なにやるんだよ」寛が祐介を睨む。

「それが問題なんだよな。渋谷が加わっても四人しかいないし、それでどうやって見返せるか」祐介はひとりで笑った。

 つられて紗枝も笑い出した。

「なにが可笑しいんだよ」寛は言った。

「篠崎君ってもっと小難しくて無口な人かと思っていた。それが話聞いたら、全然違うんだもん。変だなって思って」そう言うと紗枝の笑いは止まらなくなった。

 祐介は後ろに寝転んだ。

「な、噂と本当は違うだろ。渋谷だってきっと、いいヤツさ」そう言うと祐介は大きなあくびをした。その後大きなおならがでた。

 これには寛も笑った。紗枝も笑った。祐介も笑った。特に祐介は大きな声で笑った。

 翌朝、祐介は登校した。教室に姿をみせると教室の喧騒が一瞬静まった。視線が祐介に集中された。奇異な動物を見るかの目だった。

 祐介が座ろうとすると誰かがイスを蹴っ飛ばした。机も倒された。

「お前の席なんて、もうねえよ」声が上がり、笑いが巻き起こった。

 祐介は視線を窓際へ向ける。そこには渋谷葉子がいた。祐介は軽く息を吐いた後に振り向いた。誰がイスを蹴ったのかわからないが、一番大きな口開けて笑っているヤツへ直線的に顔面を殴った。祐介は叫び声をあげて、隣に立っているヤツも殴ろうと飛び掛った。その時袖を後ろから捕まり倒された。後は誰彼わからず踏まれ、蹴られまくった。腹を横から救い上げられるようによく蹴られた。顔も蹴られる。脳震盪を起こす。起き上がれない。誰も助けてくれない。笑い声なのか耳鳴りなのか区別できない音が耳をつんざく。

 学校のチャイムが鳴り、先生が教室に入る。生徒は散り、各々の席につく。祐介はやっとの思いで机を起こしてイスに腰を下ろす。

 先生は祐介の存在に気がついた。そしてその容貌はたった今殴られたものだとすぐわかる姿であった。だけど先生は触れなかった。いつもとかわらずに授業が開始される。

 授業が始まると誰かでもなく祐介に消しゴムを小さく切ったものや紙の切れ端を投げた。面白がって何人も祐介目がけて投げつける。

 祐介は息を潜めた。そうしないと過呼吸になる。祐介は再度窓際を見る。葉子は変わらず肘をついて空を見ている様子であった。

 休み時間になって先生が教室から出て行く。祐介は立ち上がった。嘲笑を払いのけ葉子の席まで歩いた。

「ちょっと来てくれないか」祐介は机に両手をつく。

 葉子は一瞥して鼻で笑った。手で払いのけるしぐさをした。それからすぐまた外に目をやった。

 後ろで口笛が吹かれる。紙をまるめたものが飛んでくる。頭を平手で叩かれる。

 祐介は歯を食いしばる。葉子の手を掴んで振り向く。

「ちょ、ちょっと」葉子は腕を戻そうとしたが祐介の力が強い。

「赤塚」祐介は叫び寛を手で大きく招き、葉子の腕をひっぱった。

「やめろよ」葉子は口ごもった。足は祐介と一緒に走り出していた。「どこ行くんだよ」葉子は顔を伏せた。

「朝霞も来い」祐介は教室の扉に手をかけて振り向いて叫んだ。

紗枝は立ち上がった。寛は祐介の鞄を胸に抱えて邪魔しようとする者から必死で逃れながら走った。

学校のチャイムが鳴る。職員室から先生が歩いてくるだろうと思われるルートを避けて祐介は走った。

「どこまで行くんだよ」葉子は祐介の手を振り解いた。

 学校校舎裏にあるプール下まで来ていた。四人とも息を切らせていた。

「昨日の夜、オレたち集まったんだ。秋に文化祭をやるだろ。オレたち、それで当たり前のように外されたのが、オレにはどうしても許せなくなってよ。オレたちだけでなにかできないだろうかって話し合ったんだ。それで渋谷も誘おうって決めたんだ」

 渋谷は地面にツバを吐いた。

「ハッ、お前たちがなにやって、どうなろうと知ったことじゃないけどよ、いちいち私を巻き込むなよな。私のことは放っておいてくれよ」葉子は手で払いのける。

「渋谷、オレは仲間ハズレを絶対つくらない。あんなバカどもに負けてたまるかよ」

 祐介は葉子の肩を掴む。

 葉子は祐介の手を掴んで、肩から離して投げた。

「今まで登校拒否してたヤツが偉そうなこと言っているんじゃねえよ。私はこれでも学校はさぼってないからな。逃げてばかりのヤツになにができるんだ。教室にいるヤツもバカだが、お前も同じバカだ。クソだ」

 葉子は長い髪を振り乱した。髪をかき上げて一息つくと、振り向いて歩き出そうとする。

「オレはもう逃げない。約束する。だから渋谷、オレたちの仲間になってくれ」

祐介は葉子の腕をとった。顔を向かせようとする。

「いちいち触るなよ、スケベが」葉子は腕を振り上げる。

「渋谷、頼む」祐介は葉子の背中に語りかける。

 葉子は顔だけを向ける。

「私がどういう人間か、登校拒否のアンタでも聞いたことがあるだろ。“あばずれ”とか好き勝手言われて、みんなからも先生からも白い目で見られているのを。アンタだって私の噂のひとつや、ふたつ聞いたことがあるだろ、それでも私を誘おうっていうのかよ」

 葉子は言い終わるとツバを吐いた。

 祐介は両手の拳を握る。

「渋谷は自分のこと、あばずれだと思っているのか」

「ふざけるなよ、てめえ」

 葉子が祐介の右頬を平手で張った。

 乾いた音が響いた。

「ひ」紗枝は顔を手で覆った。

 祐介の上半身が横にひしゃげた。祐介は軽い脳震盪をおこすが意識を保ち、倒れるのを堪えた。

「違うだろ。だったらいいじゃないか」祐介は口を少し切った。口元を手でぬぐって言った。

「オレは渋谷を信じる」

「ハッ、私のなにがわかるっていうんだ」

「なにもわからないよ。だけど噂よりも本人のほうが信じられる」

 葉子は黙った。

「渋谷さん、私たちでがんばろうよ」紗枝が消えそうな声で言った。

 寛は俯いたままだった。

「それで、仮に私を仲間にしてなにやろうっていうんだよ。まさか文化祭をぶっ壊すわけでもないんだろ」葉子は顔を横に向けて髪をかき上げた。明らかに苛立っていた。

「文化祭は実行させる」

「だから、お前たちはなにやるっていうんだよ」

 祐介は腕組みをして唸る。

「いや、まだなにも決まってないんだ」祐介が頬を指で掻いた。

「はあああ」葉子が大きな口を開けて語尾を荒げた。

「あの」後ろで紗枝が手を上げて声をかけた。祐介が振り向く。

「うちのクラス、楽器の合奏やるんでしょう。だったらうちらだけでも楽器やれたらな、と思ったらバンドをやるのはどうかなと思ったんだけど」

 紗枝は怯えた声で言った。

「バンド」祐介が声をあげた。

「朝霞はなにか楽器できるのか」寛が言うと、紗枝は首を横に振った。「他のみんなは」と寛が言うと祐介も葉子も首を横に振る。

「赤塚はどうなんだ」と祐介が言うと寛も首を横に振る。

「なんだよ、それ。思いつきでモノ言うなよ。なにもできないのに、そんなの文化祭でやれるわけがないだろ。却下だ、却下」葉子はやや大袈裟に手で空を切った。

「いや、面白いかもしれないぞ。どうせあいつらだって最初からできるやつなんて、そうはいない。今から楽器練習を開始するんだろ、当然やる気のないやつだって沢山いる。その上であいつらよりすげえ演奏をこっちがしてやればいいんだ」

「あと二ヶ月もないぞ」寛が憤然と言う。

「猛練習すれば、なんとかなるかもしれないぞ」祐介が口元に笑みを浮かべる。

 葉子はその祐介の顔を見ると寒気がした。気を取り直して口を開ける。

「バンドをやるにしたってその楽器はあるのかよ。私には買うお金なんてないからな」

 祐介は紗枝の顔を見る。紗枝は咄嗟に手で口を押さえる。なにも言えない。

「とりあえず音楽室に行ってみるか」祐介はあっけらかんと答えた。

 音楽室に行くと授業をやっていた。

「あ、そうか」と祐介は他人事のように言った。「また出直すか。オレ学校さぼっていたから授業のこと、すっかり忘れていたよ」

 祐介はそう言うと舌を出して頭を掻いた。

 三人は目をまるくした。

「あは、あは、あはははは」紗枝は堪えきれずに笑い出した。

 寛と葉子は顔を見合わせると、紗枝につられて声を出して笑った。祐介も一緒になって笑った。

 授業中に廊下で笑い声がするので、音楽室から、また他の教室から先生が出てきた。

「誰だ、廊下で笑っているやつは」

 一番やっかいな推定年齢五十過ぎの男の国語教師藤野に見つかった。四人は職員室に連れて行かれて待機させられた。

 二時間目が終わって先生たちが職員室に戻ってくる。祐介たちを見つけた藤野は走って職員室にやって来た。

 祐介たちが立って待っているところに来ると開口一番大声で怒鳴った。

「篠崎祐介、きさま今まで学校に来ないでなにやっていた。来たら来たで反省の色なしで廊下で笑いこきやがって、どういうつもりだ、この不良が」

 祐介は国語教師藤野のツバを浴びながら、黙って睨んでいた。

「なんだ、その目は」

 教師は後ろにある机を叩く。佑介の睨みは人によってはすごく不愉快にさせるものがあった。目の中の黒目がなくなっていく不気味な光を放つ。凍りつかせるような異様な迫力をみせた。

「先生はオレたちのこと、どう思っていますか。オレは教室から追い出されたんですよ」

 祐介は目線を逸らさずに言った。

「なんだと」教師は言葉に詰まる。

「なんで不良なんですか。なぜ、そう決め付けるのですか、教えてください」

 祐介は詰め寄った。

 祐介のクラス担任、美術教師江藤が覗き込む形で後ろに立つ。学年主任、数学教師菅原が横に立つ。

「学校に来ないやつは不良に決まっているだろ。

そこの渋谷葉子なんて髪を赤く染めて不良そのものじゃないか。他にもいろいろと噂を聞くしな。ガキの噂に目くじら立てるつもりはないが近からずも遠からずのところもあるだろう。

あとは赤塚寛、協調性も積極性もみられない。いるのか、いないのかわからない存在。そんなヤツは別に不良ではないが社会で成功するとは言い難い。いや通用さえしないだろ。なんの覇気もなく、なにを考えているのかわからない。

朝霞紗枝、まぁもう少し痩せたらどうだ。そんなに太っていちゃいじめられるのも当然だろ。お菓子や肉ばかり食っているんだろ。少しは自己管理ができないと。

こう聞くとすべては因果応報、自業自得。お前は追いだされたのではない。人のせいにするな」

肩を揺らして、鼻息を荒くまくし立て、最後は怒鳴ると鼻で笑った。

祐介は歯軋りした。体が硬直した。心臓が固まった思いだった。

横で紗枝がわっと崩れるように泣き出した。

「ひどい、ひどいわ」

 祐介の中でなにかが切れた。呪縛が解かれた。

「それが教師の言うことかよ」祐介は後ろ足で思いっきり蹴って飛び出した。

 祐介の体は大きくない。成長期になってもなかなか背が伸びない。不登校から食が細くなり痩せていた。

 相対した菅原は学生相撲をやっていた体が残っている。祐介の体当たりを軽くいなして、組み伏せた。体罰にならないようにするのを心得ている。

 藤野と菅原に押さえつけられて、祐介は戦意喪失した。

 祐介は頭を床にこすりつけたまま泣き出した。涙を隠そうと、泣き声を殺そうとしても、嗚咽が漏れ、体が震えていて、泣いているのが誰の目にもわかる姿だった。

 葉子は祐介を見下ろした。視線が気になって顔を上げると担任の江藤と目が合った。葉子は頭を掻いて視線を逸らした。

 寛は唇をかみ締めてなにも言えなかった。体は硬直していた。

 祐介は押さえられるのを解かれると、ゆっくり立ち上がった。目は虚ろで憔悴しきっていた。

「おい、どこへ行く」学年主任の菅原が声をかける。その声が聞こえないように祐介は反応をみせずに、そのまま扉を開けて去っていった。

 祐介は靴箱から靴を取り出して上履きと履き替えると、手と顎が震えてきた。

 拳で靴箱を叩いた。頭でも靴箱を叩いた。額が血で滲んだ。嗚咽が漏れる。

「篠崎」走ってきた葉子が叫んだ。

 祐介は振り向いて葉子と目が合うと、顔を隠して、走って逃げるように校舎から出た。

 祐介は走った。学校から抜けて、誰もいないところまで走った。呼吸が苦しくなって、道端で倒れた。

 大型のトラックが行き交う、湾岸道路の途中。祐介は大声で泣いた。拳で道を殴り、うつ伏せていつまでも泣いた。


 その晩、葉子から電話がかかってきた。母親の紀子が電話をとって、祐介を呼んだ。祐介はいないと言ってくれと何度も言った。しかし葉子は電話に出させてくださいと何度もお願いした。

 祐介は根負けして出ることにした。

「悪いけど、電話しないでくれ」祐介が電話を切ろうとすると受話器から「待って」と何度も大声で呼ぶ葉子の声が聞こえてくる。

「なんだよ」祐介はぶっきらぼうに言った。

「バンドの機材がなんとかなりそうなのよ。兄貴がギターとベースを揃えてくれるって。友達と交渉して貸してくれることになったって。あとはドラムが問題なんだけど」葉子の声は弾んでいた。

「もう、バンドの話はいいよ。もうオレの話は忘れてくれ」

 長い沈黙。

「ばあか」

 葉子が言った。

「なに」祐介は怒鳴った。

「どうせ、あんた自己嫌悪とかになっているんでしょ、もうみんなに合わせる顔がなぁい、みたいな。バカ言っているんじゃないよ。あんたこのまま本当にやめたままじゃ、本当に一生ダメになるぞ。わかっているの。私を誘って一瞬でも私をその気にさせた責任をどうするのよ。ふざけるんじゃないわ」

「あ、、、、、」

 祐介は絶句した。

「明日放課後からでもいいから学校に来なよ。いいね」

「学校の先生か親みたいな言い方だな。なに急に偉そうにしているんだよ」祐介は言い返した。

「へ、ばあか」葉子は鼻をこすった。

 祐介は五時に学校に行くと告げた。クラスの連中には顔を合わせられないということも添えて。葉子は承諾してくれた。

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