世界のために踊れ
辰
第1話
都内の貸しスタジオ。土曜日、午前十一時。
ドラムの重低音を利かせたリズムが刻まれる。続いてベースが響く。ギターの音が軽快に鳴らされる。さらにギターが重なって曲が完成される。
大音量が包み込む。
いつも練習している曲で、息もぴったりと合っている。何度もお互いを確認しあって作ったオリジナルの曲。
ギターを弾く篠崎祐介がマイクに口を近づけた。イントロから歌い出しまで、あと、1、2、3。
そこで祐介の手が止まった。
エレキギターの残りの歪んだ音がしぼんでいく。かき鳴らしていたピックを持った右手がだらしなく下ろされた。
祐介はマイクにおでこを乗せた。
メンバーの演奏も止まった。
「祐介、どうしたの」
ベースの渋谷葉子がベースの弦にピックを挟んで祐介に近づく。
キーボードの赤塚寛とドラムの朝霞紗枝は顔を見合わせる。
一番前に立つ祐介がどういう表情をしているのか、みんなわからない。歩いていった葉子が覗き込もうとすると、気付いた祐介が手を振り払ってソッポを向いた。
沈黙が流れた。
葉子が祐介の肩に手を触れようとすると、祐介はギターからアンプに繋がれているコードをギターから引っこ抜いて、コードの先端を床に叩きつけた。
「なにするのよ」
葉子が声をあげた。
祐介は振り向こうとしないで、ギターを持って、扉前に置かれている自分の荷物を背負い、そのまま出て行ってしまった。
葉子は振り向いて、寛と紗枝の顔を見た。寛は肩をすくめた。紗枝はドラムスティックで頭を掻いた。
「どうしたんだ、あいつ」
寛がずれ落ちた眼鏡を右人差し指で直して、軽いため息をついた。指がギター1弦に触れておならを髣髴とさせる間の抜けた音が響く。
葉子は両手を腰にあてて天井を見た。長い髪をかきあげて息を吐く。口角を上げて振り返った。
「ま、調子悪いだけじゃないの。ギターボーカルがいないんじゃ、しょうがない。私らも帰るか」伏し目に言った。
紗枝が頬を膨らませた。
「えー、ここは前金なんだよ。途中で帰ったらお金もったいないよ」紗枝がタムを軽快に叩く。次第にリズムが刻まれた。強い蹴りでバスドラムが鳴らされた。乾いた音。紗枝には独特のドラム音がある。
葉子は弦に挟まれていたピックをつまんでドラムの音に合わせた。どんな曲調でも初合わせでも大体一発でこのふたりの音は合う。 寛が音を重ねる。だけどその曲はふいに止まった。曲にすらなっていなかった。ただリズムを刻んで、それなりの音を重ねただけ。そこには成り立ったものがなにもなかった。
三人は顔を見合わせた。
葉子はベースのストラップを肩から外した。無言のまま赤いベースバックにしまった。
紗枝は大きな体をゆらしながら、掛けてあったフェイスタオルを手にとって顔の汗を拭いた。つぶれたばかりのニキビに触れると痛んだ。「よっこいしょ」と少しの痛みに顔をゆがめながら立ち上がってスティックをバックにしまう。
寛も機材を持って借りているものをスタジオに返す準備をする。腰をかがめるたびにズレ落ちる眼鏡をそのたびに戻す。
チャックを閉める音、コードを巻きつける音、そして重い機材がきしむ音。掛け声や、指示しあう声はあっても、そこに会話は発生しなかった。
やっと口を開いたと思ったら
「どうしたんだ、あいつ」
「一体、なにがあったの、あいつ」
「なに考えているの、あいつ」
似たようなことを一緒に言ったものだから、紗枝は吹き出して、笑い出してしまった。寛もつられて笑い出す。それを見て葉子はスタジオに設置されているアンプを蹴った。葉子は笑っているふたりを一度睨むように見て、それからドアを開けて出て行った。ドアは力いっぱいの勢いで閉められた。
葉子のハイヒールブーツの去っていく音が聞こえる。その音を追うように寛がスタジオから出て行く。
ひとり残された紗枝は丹念に汗を拭いて、誰もいないからと汗で濡れている上着を着替えた。ドラムを力任せにやっていたせいで腕はすっかり太くなってしまった。バスドラムの重低音を出すために太ももも太くなった。
タンクトップに汗がにじむ。
まだ春先だというのに冷房をかけても暑くてたまらない。
紗枝は誰もいないスタジオで思いっきり叫んだ。馬鹿という言葉を連呼した。
「ばかばかばかばかばかばかばかぁーーー」
祐介は帰りの地下鉄に乗り込むと呆然としていた。ギターを抱えて座り込んで、あとはなにも考えないようにした。地下鉄車両の中はほぼ満員になり、立っている人もたくさんいる。大きな声で話し合っている女子高校生を除けば、サラリーマンやOL、大学生のような男女、主婦、おじいさん等みんな押し黙っている。携帯電話やゲーム機などに夢中になったり、座っている人は寝ていたり、立っている人は新聞を読んでいる。
東京ではいつの時間にどの電車、車両に乗ったって大体全部似たようなものだ。人が半分以上入れ替わったってそんなに影響がないようにも思える。
祐介は横目でまわりを見ている。どこかに創作のヒントがうまれないかを見てみるが、毎日同じような景色、窓の外は真っ暗なため、なにも変わらない。なにかを発見できるわけもなく、そのうちまた思考を止めて、うずくまった。
地下鉄を降りて家路につく。だけど家に帰る気はない。他にいくところもないため家に行くだけ。背負っているギターがやけに重い。
携帯電話が鳴る。赤塚寛からだ。ややためらったが出ることにした。
「おう、今どこにいる」寛の声。
「もう家の駅だ」やや、ぶっきらぼうに答える。
「なに急に帰っているんだよ。なにかあったのか。バンド練習だって普通だったじゃないか。なにかあったのかよ」
携帯電話ごしからも相手の不機嫌さがわかる。祐介は舌打ちした。
「別になにもねぇよ」祐介は耳から携帯電話を離して、マイク部分に口をつけて言った。そのまま電話を切ろうかと思ったが寛が電話を渋谷葉子に替えた。
「祐介、ちょっと待ってよ」
祐介が電話を切らないとわかると葉子はひとつ咳払いをした。
「祐介、なにがあったの。これ、寛からの電話だから今、好きなだけ話していいよ」と言って葉子は少し笑った。後ろで寛が「なんだよ、それ」と大声でつっこんでいる。
祐介は息をひとつ吸って吐いた。
「なにもない。つーか、なさすぎるんだよ。このバンドにはなにもない。限界が見えた。それだけだ」祐介は口をあまり動かさずにつぶやいた。
「なに、いらついているのよ、ムカつくわね。なに言っているの」葉子は特別高い声で言った。
「いらついてねぇよ」
「それが苛立っているっていうのよ」
声がぶつかり合う。息がお互いの受話器から聞こえる。
「中学から私たち一緒にやっていて、今までだって普通にやっていたじゃない」
祐介が地面にツバを吐く。
「オレたち夏にバンドコンクールを控えているだろ。そこではなんとしてでも優勝してプロの足がかりにしたいんだよ。趣味じゃない音楽をやりたいんだよ」
葉子は黙った。
「だけど今のままのバンド演奏じゃ全国のやつには勝てない。オレたちだってテクニックはある。演奏も歌もなにも問題はない。だけどそれだけだ」
祐介は道に座って、頭を掻いた。
「プロのライブDVDとかをみると、やっぱりオレたちとは違う。このまま夏のイベントにでただけじゃ、他のバンドに埋もれてしまう。観客を魅了するインパクトに欠けるんだよ」
葉子は唇をかみ締める。
「バンド、やめるの」
祐介の胸がざわつく。
「やめない。このバンドはオレの魂だ。このバンドをなんとかしていくしかない」
祐介が語尾を強めると、電話口の向こうから葉子の笑い声がする。
「てめ、なに笑っているんだよ」
「あー、ごめん、ごめん。大真面目に魂とか語っちゃうから可笑しくなっちゃって」
「なに、この野郎」祐介が声を荒立てる。
「ごめんって。でも、祐介が本当に夏イベントで優勝狙っているって、なんかはじめてわかった気がする。今までそんなこと言ったことないし」
葉子は明るく言った。
「ふざけるな」祐介はつぶやいた。
「まあ今日は家でゆっくり気持ちでも落ち着けてよ。来週末にでもまた集まってミーティングっていうか、話し合おうよ。それで、いいでしょ」
「わかった」祐介は立ち上がった。
電話は葉子から寛に替わった。
「なに、いつまで話しているんだよ。解決したのか」寛はやや苛立ちを隠せないように言った。
「いいだろ、後で渋谷からでも聞いてくれ。じゃあな、電話切るぞ」
電話を切った。
祐介は携帯電話をGパンのポケットに押し入れた。ギターを背負いなおして歩き出す。
大きなため息が漏れた。
冬から春になり、道端に花が咲き始めている。気温もあがり、コートを着る人もあまり見かけない。
夏の最大目標のバンドコンクール優勝。そのための地区予選までもう一ヶ月もない。
祐介は家に帰ってもなにもすることがない。アパートに親と住んでいるから家で演奏するわけにもいかない。公園の芝生の上に横たわる。空を見上げる。
まだ夕方の面影を見せないくらいの嫌味なほど青い空だった。
祐介はアルバイト中もバンドのことばかり考えていた。スーパーでの品出しのバイトは一度場所さえ覚えてしまえばあとは技術を必要としなかった。客からなにか尋ねられたら社員か店長を呼んで対応してもらえればいいし、あとは黙々と行えばいいだけなので割と気に入っている。
さすがに音楽を聞きながら働くことはできないが、いつも頭の中で音は鳴っている。そうやってイメージしながらでもバイトをこなすことができた。
品出しを終えると生鮮部門バックヤードの清掃にかかる。これも床掃除をブラシで磨くのと、テプラで貼ってある名前のところにそれぞれまな板やトレーなどを定位置管理できれば完了である。いつもやっていることで、別段毎回変化はない。これも一度覚えてしまえば簡単な作業だ。
祐介は時間や作業内容の多少の違いこそあるが、このアルバイトを高校一年生からもう五年もやっている。だからもうなにも考えなくても体が覚えている状態だ。
新入りのアルバイトが入ってきたら簡単な指示も行える。店長からの信頼も固い。時給も年々上がってきている。このバイトを辞める理由がない。
アルバイト仲間とは仕事中の世間話はするけどアルバイト以外での付き合いはしないと決めている。余計なことに巻き込まれてバンドに支障が起きるのが嫌だからだ。だからある程度の距離は置くようにしている。
平日は夜十時半まで。開始は日によって夕方からもあるし昼からでるときもある。
祐介は決まって閉店後作業時間までのシフトを希望した。希望によっては九時から帰れるシフトも組めるが十時半をなるべくシフトに入れた。過剰人員になったときだけ十時にすることもあったが基本的には十時半までにした。
自然と帰る頃には店長とアルバイト二、三人だけとなる。それもかえってよかった。わずらわしさがない。
アルバイトが終わると祐介は走って帰る。高校生の頃は自転車で来ていたが、卒業してからは走ることにしている。
「お疲れ様でした」と一礼して振り返る。店の脇は細長い公園、ランニングコースのようになっていて走るのに適している。実際、夜十時過ぎでもランニングしている人はそれなりにいて、よくすれ違う。
祐介は ダッシュよりも少し力を抜いた加減で走る。春先の気温だと薄っすら汗がにじむ。心地いい。
走ることが気持ちいいことだと知ったのは本当につい最近だ。それまでは走るということが嫌でたまらなかった。
(お前、走り方が変なんだよ)
走り出そうとすると思い出す、忌まわしい記憶。その声を振り切ろうと首を振る。
夜走る分なら自分の走る姿はあまり見られない。すれ違うランナー達だって自分のことで精一杯か、並んで走っている人しか見ていない。誰も自分の走っている姿なんて気にしない、注目しない。そう思えるようになってやっと走ることができた。だから走ることができるのは、夜の今だけの時間だけだ。
息を少し切らせながら帰宅する。
この時間になると親はほとんど寝ている。いつもは玄関からすぐの台所にあるテーブルの上に夕食が用意されていて、それを食べたら風呂に入って、寝るだけだ。
だけどこの日はいつもと様子が違った。台所に電気が点いていて母親の紀子がイスに座って祐介の帰りを待っていた。
「おかえり。祐介疲れているだろうけど、ちょっとそこに座りなさい」
祐介は靴を脱ぎながら母親の紀子の顔を見た。頬杖をついて髪が顔に下ろされてあまり確かに見えないが雰囲気は見てとれた。
「なに、どうしたの。オレ、腹がへって、もう疲れているんだけど」
「ちょっと母さんの話を聞きなさい」
紀子はやや大きな声で言ってテーブルを指で叩いた。
「わかりました、なんですか」
祐介が座って紀子と対峙する。
「わかりましたじゃないでしょう、あんた今後の将来どうする気なの。大学にも行かない、就職もしない。お母さん、いつまでもあんたの世話できないからね」
紀子は言うと湯のみに入っていた水を飲んで、湯のみをテーブルに叩きつけるように置いた。
頭上で蛍光灯が唸るような音をたてている。
祐介は黙って俯いた。返事ができない。なにも答えられない。
「黙っていたんじゃ、わからないでしょう。結局、なにも考えてないんでしょう。楽することばっかりで。そんなんで将来どうするのよ。一生このままじゃいられないっていうことぐらい、いくらアンタでもわかるでしょう。ただでさえ不景気で失業者が多いのに、どうするのよ、これから」
紀子はテーブルを平手で何度も叩く。振動で食器が落ちそうになる。
祐介はそれでも黙っていた。進学も就職も今はする気がまったくなかった。
祐介は黙ったままだった。紀子は祐介を睨んだまま目を離さない。
このままでは祐介は晩御飯がこのままでは食べさせてくれないと思い、口ごもったまま答えた。
「今、バイトしているスーパーがあるでしょう、そこでバイトもう高校一年からずっとやっているから店長から推薦もらって本社で本採用受けられるかもしれない」
俯いていた目をそっと上にあげる。膝に両手をのせていたが右手で左腕を掴む。
紀子は両手を組んだままだ。料理の乗った皿はまだ紀子の手前にある。
「それで」
「それでってなに」
「それで、すぐに受けるの、採用試験だか」
祐介は紀子を睨む。
「受けないよ」
「なんでよ」紀子は拳でテーブルを叩く。
祐介は頭を激しく掻いた。頭をかきむしった。
自分はアルバイトだからまだいい。だが社員をみるとどうだ。客のクレームに頭を下げて、店長や本社からの人間には頭を下げて、あげくに長年居座るパートのオバちゃんにまで頭を下げる。そのくせアルバイトには人生の先輩とばかりにいらぬ説教をして、威張り倒す。そんな大人が徘徊する会社。いつも軽蔑している社員に自分もなるというのか。祐介はアルバイトの中の出来事を思い出す。社員の中には結婚している人もいるが、それでどれだけの給料をもらっているのか。金額こそ聞いていないが、見ていてもレベルもたかが知れている。
祐介の視線は台所の蛇口の先端に。水滴がひとつ落ちるのが見えた。
紀子は無言でまたテーブルを叩く。祐介は紀子に向きなおす。
「ちょっと待ってくれ。あと一年待ってくれないか。オレまだ十代だし。二十歳になってから働いてもいいだろう」
祐介はテーブルの淵を掴んで立ち上がった。紀子の顔に祐介の影が被さる。
紀子の口元が少し緩む。
「座れば」
祐介の息が漏れる。イスが軋む。
紀子は料理を祐介の前に差し出す。
「お母さん、それじゃ納得できないから温めなおさないから、このまま食べなさい」
祐介は首を落とすように頷いた。
すっかり水の冷たさの味噌汁を一口。固まりだしているご飯をかき込む。ぼそぼその鰯を頬張る。
「一体、あと一年どうするの」紀子は頬杖をついて祐介の顔を覗き込む。
祐介は思わずのどに詰まらす。少しむせる。
祐介は箸を茶碗に乗せる。
「オレ、お、おぐ、うぐ、その」
祐介は一度咳払いをする。
「音楽やりたいんだ」
紀子は鼻で笑う。
「この狭いアパートの中にアコースティックギターに今、あなたがしょってるエレキギター、いやでも趣味でやっていることぐらいはわかるわ。でも、それをまさか職業にしようっていうの」
紀子は湯のみに水を注ぎ足す。
祐介は黙って食事を続けた。食べ終わると食器を重ねた。
「夏に大会がある。今、そこを目指して特訓している。そこでなにも結果を残せなかったら、すっぱり音楽の道を諦める。それで文句はないだろ」
紀子は口角をあげる。
「それだけの規模のものなの、それは」
祐介は立ち上がり、食器を流し台に持って行き、蛇口をひねり、食器に水を浸し、水を飲んだ。
飲み終わると紀子に顔を向ける。
「日本全国大会。決勝は野外会場で千人規模の客の前で演奏して、テレビ放映もされると思う。審査員はお母さんも知っている清原優陽。第一次予選は一ヶ月先」
祐介は流し台に手をついて寄りかかる。
紀子はイスを下げて足を組んだ。紀子の足は細く長い。スタイルに気遣っているわけではないが太らせたことはない。少し骨張った腕で髪をかきあげる。
「優勝の自信は」
祐介は玄関に立てかけてあったギターを背負う。紀子の前に来ると
「自信がなくて言えるかよ」
祐介は鼻をこする。
紀子は祐介の尻を叩いた。
「いってえな」祐介は歯をみせる。
「がんばれよ、青年」
お互い顔を見合わせて笑った。
部屋の片隅にギターを置く。光が漏れる部屋の向こうで紀子はまだ座っている。
祐介は窓を見ながら一息吹き出す笑いが漏れた。夢をあれだけ大っぴらに親に語ったのは初めてだった。祐介は痒くもない首筋を掻いた。
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