猫とずっと一緒にいる

 ムラサキさんから電話があったのは、冬になったばかりの、早い雪のほとほとと降る夜だった。かすみちゃん、と言った声がきびしい声だったから、わたしは立ち上がって、はい、と返事をした。

 眠ってはいなかった。雨がいなくなってから、少しずつ、少しずつ、わたしは眠らなくなっていった。鏡で見る顔はいつもひどい顔色だったから、会社に勤めていたとき買ったファンデーションをまた出してきて、つけるようにした。あじさい堂ではつけていなかった、ファンデーション。ムラサキさんはたぶん気付いていたけれど、何も言わなかった。ことさらに励ますようなことも、言わずにいてくれた。


 「いまからお店に来られるかしら……雨くんが、見つかったから、」

 「はい」


 電話を切るときその向こうで、ムラサキさんがふっと息を吸った気配がした。あ、なにか言いかけたのかもしれないと思ったときもう画面は黒く、そこを見つめるわたしの顔を映すばかりだった。

 暗闇をどんなに見つめても、わたしの目は雨の眼のようには光らない。ただ、子どものころから暗い部屋でこっそり本を読んだりばかりしていたわりに、そういえば視力だけはずっといいんだなと思った。それは、きっと、わたしが父や母にもらった、大切なものだろう。


 黒のセーターを着て、黒のコートを着た。覚悟を決めなければならないと思った。雪なんて降ると思っていなかったからダウンジャケットをまだ出していなくて、トレンチコートを着た。後ろのリボンを縛るのに何年もずっと、必ずもたついてしまっていたのに、そういえばわたしはすんなりと、背中でそれを蝶結びにすることができるようになっている。

 手袋をする前に一度、頬に触れた。涙は流れていない。遅い時間だから、大きな音が鳴らないようにそっと扉を閉めて、鍵をかけた。しばらくぶりに、鍵をかけた。



 商店街のアーケードの中ももう暗く、けれどそれぞれのお店の二階や脇には、そこのお店の人たちが暮らしているあかりがぽつぽつと灯っている。その中でぽっかりと明るいあじさい堂の入り口を見たとき、わたしは一度立ち止まった。

 思えば、幼稚園も、学校も、会社でも、わたしは門の前で必ず一度立ち止まってしまっていた。後ろから来る人たちに、子どものころは、早く行けよと言われることもあったし、言われないこともあった。大人になってからは、みんな黙って追い抜いて行った。どうして立ち止まったのか、わかっているようで、わからない。なにか言葉にあらわせない大きくて重たいものに、押しつぶされてしまうような気がしたのだった。

 あじさい堂に来てから、わたしは商店街の入り口でも、お店の通用口も、立ち止まらずに入ることができていた。そして今、初めてわたしがここで立ち止まった理由は、自分でちゃんとわかっている。コートについた雪を払って、一歩踏み出した。


 あじさい堂の扉を開けると、カウンターの中にムラサキさんが座っていて、そして、

 カウンターの上に、雨がいた。雨が、いた。ムラサキさんは心なしかきびしい顔をしていて、雨はその隣で、ちょんと座って下を向いていた。そのしっぽが少し動いたのを見て、わたしは足の力が抜けてがくがく震えて、その場に座り込んでしまいそうになった。

 震える足でカウンターのほうへ歩くわたしの姿は滑稽だったと思う。だれひとり笑ったりはしなかった。雨、と呼ぶと、雨はゆっくりと顔をあげた。


 「雨」

 「……」

 「雨、」

 「……、」

 「雨、雨、ぶじだったの」

 「……、うん」


 やっとカウンターに辿り着いて、わたしは雨を抱きしめてわんわん泣いた。雨はおとなしく抱かれていた。なんだか小さくなってしまった気がした。少し震えていた。わたしが震えていたのかもしれない。しばらく泣いているうちに、ムラサキさんがそっとわたしの横に、湯気のたつマグカップを置いてくれた。わたしはムラサキさんにすすめられるがままに椅子に座り、手袋をしたままの手で涙を拭った。


 「きちんとお話なさいね」


 ムラサキさんは雨に向かって言った。静かな声だった。ウン、と、いたずらをしてひどく叱られた少年のように、雨は頷いた。ムラサキさんはわたしの背にぽんと一度、優しく触れてくれて、そして、二階の自宅へ上がって行った。

 わたしはまだぐずぐずと鼻をすすりながら、ムラサキさんが淹れてくれたミルクティを一口飲んだ。たとえばひとりだけ少し遅れて歩いてきたひとみたいにして、右目から涙が一粒ほろんと出た。

 どうしてか、兄のことをふと思った。歳の離れた、しっかり者の兄。兄はたとえばいたずらをして、父や母やあるいは祖父母に叱られて泣いたようなことが、あったのだろうかと、思った。どうしてか、姉のことを思った。今、もし姉が、今まだ生きていたら、わたしは姉のことを、もう少し愛することができたのだろうかと。なにが足りなくてわたしは彼女を愛せなかったのかを、そのなにかを、もしかしたら今は少しだけもっているだろうかと、思った。


 雨のきれいな毛は少し乱れて、汚れが固まっているところもあった。そこへわたしの涙がたくさん落ちて、濡れてしまった。濡れてしまっても、雨はそのままいた。そっと顔をこちらへ向けて、頬の涙をぺろんと舐めとってくれた。舌はざらりとして温かかった。

 あのな、と雨は言い、わたしの膝の上できゅっと身体に力を入れて、姿勢よく座った。コートのポケットに入れっぱなしになっていたハンカチ、これは、もしかしたらたぶんまえの冬に、入れたまま仕舞ってしまったハンカチを出して、もう一度涙を拭って、わたしも姿勢を正した。


 「俺は」

 「うん」

 「バケネコの家系なんだ」

 「え、……、うん」

 「化け猫は、」

 「……」

 「長生きする」

 「……うん」

 「ニンゲンは、……猫と暮らすことを望んだ人間は、な、まあ、いいカイヌシであればだが、俺たちと、ずっと一緒にいることを望む」

 「……、」

 「俺たちが長生きすることを、望んでくれる、はじめはな、……でも、猫の、……化け猫じゃない猫の、寿命を過ぎて、二十年経ち、三十年経っても、同じ姿でいたら、……猫と、ずっと一緒にいると言ってもな、だんだん、おかしいことに気付きはじめる」

 「……」

 「だから、だいたいの化け猫はずっと野良で暮らす」

 「……」

 「野良で暮らすか、何年か同じニンゲンと暮らしたら、そっと消える、……死ぬみたいにしてな」


 お店の中は暖かかった。ムラサキさんが暖房を点けてくれていたんだと思った。雨、と呼ぶとこちらを見た雨の眼はわたしの大好きな雨の色の眼だった。そこから水が盛り上がって、湿度の飽和した空から雨粒が落ちるように、涙が一粒だけほろんと落ちた。

 猫は、悲しみのためには泣かないはずだった。よろこびでも、涙はながさない。もしかしたら外にいる間に、なにか目の病気をもらってしまったのかもしれないと思ったら、心配になった。痛そうではないように見えたけれど、じっと見た。潤んだ雨の眼のなかでわたしの影がたゆたゆと揺れた。ばけねこになると、猫は涙を流すようになるのだろうか。長い、長い人生、じゃなくてネコ生か、ともかく、そのなかで。


 「雨、雨は、長生きするの」

 「……うむ、長生き……うん、まあ、そうだな」

 「雨は、何年ぐらい生きられるの」

 「うーん、それは、わからん、ふつうの猫と同じように、化け猫にも個体差があるからな、でも、ニンゲンが生まれて死ぬまでぐらいは、生きるんじゃないか、たぶんな」

 「……」

 「……、」

 「ねえ、雨、そしたら、わたし、……わたし、すっごくおばあちゃんになるまで、雨といられるの」

 「え、……まあ、うん、それは、」

 「雨、わたし、ずっと一緒にいる」

 「え、」

 「猫とずっと一緒にいる」

 「……」

 「わたし、がんばって長生きするし、雨が、おじいちゃんになってもいいように」

 「……、」

 「雨、だいじょうぶだったの」

 「え、……うん」

 「けがしてない」

 「うん」

 「病気じゃない」

 「うん」

 「雨、帰ってきたの」

 「うん」

 「ここにいるの」

 「うん」

 「よかった」

 「……、」

 「おかえり、雨、」

 「……、うん」


 雨は前足で顔をくしゅくしゅと擦った。雨が帰ってきたことが嬉しくて、わたしはまた雨をぎゅっと抱きしめて、えーんと声をあげて泣いた。なすがまま抱きしめられながら雨は、ごめんな、と、小さな小さな声で言った。



 雪はしんしんと降っていた。まだだれも踏んでいない道路の白に足跡をつけて、ときどき、つけた足跡を振り返りながら歩いた。今日はトートバッグは持っていないから、雨はわたしのトレンチコートの胸もとにすっぽり入った。そのおかげで、わたしも暖かい。雨が生きていて、ほんとうによかったと思った。


 アパートの前まで来ると、水上さんの部屋の電気がまだ点いていることに気が付いた。そっとチャイムを押すと、ほどなくしてはんてん姿の水上さんが、肩に新右衛門を載せて現れた。


 「雨、帰ってきました、ありがとうございました」


 言うと水上さんは優しい顔で、ウム、ウム、と頷いてくれた。新右衛門は一度大きく翼を広げ(水上さんの顔に当たらないように、片翼だけ)、小さい声で、ダイジョーブ、ネッ、と言って、ケレケレッと笑った。

 水上さんが部屋に入って行くのと同時に、反対側の隣の部屋と、上の階でカーテンが揺れ、電気が消える気配がした。わたしの部屋の、水上さんと反対側の隣には月見さんというご夫婦が、茶太郎という柴犬と一緒に暮らしている。上の階は、名前はわからないけどたぶん外国の人で、大きなふくろうと一緒に暮らしていて、ふくろうと新右衛門はときどき鳥の言葉で会話しているのを見かける。みんなふだんは静かに暮らしていて、会うと、あいさつする。

 たまたまかもしれないけど、もしかして、もしかしたら雨が帰ってきたのを見届けてくれたのかもしれないと思ったら、歩いてきて冷えた手の先がふうっと温かくなった。


 家に帰って、わたしはお風呂に行ってシャワーを浴びた。お湯で濡らしたタオルをぎゅっとしぼって、雨の身体をごしごし拭いた。そのあと、窓を少しだけ開けて、隙間から外を見た。雪はよくよく見ると、ほんの時折だけ、暗い空から落ちてくる。空気がつめたくて、鼻の奥がつんとした。

 窓を閉めて、鍵を閉めて、ベッドに入ってすっぽり毛布をかぶった。毛布の中で雨の顔がすぐ目の前にあって、真っ暗ななかでも雨の眼は、あの日や、あの昼や、あの夜、もしかしたら、これから生きていくたくさんの日のいつかに降る雨のような、透明で深い水の色にきらりと光って、わたしを見てくれた。雪はいつしか雨に変わり、ベランダの樋から時折ぼたぼたと落ちる水の音を聴きながら、雨と一緒にたくさん眠った。



 *



 この冬は何度か雪が降って、春は、ゆっくりと来るようだった。四月に入ったけれど、あじさい堂もまだ暖房をつけている。

 カウンターの中に座って、そっと絵の具をパレットに溶く。ここで働き始めるまえに買った、雨の眼の色の絵の具。お店は、午前中にタヌキさんが納品に来て、帰って行ってから、ずっと静かだった。てれれーてれー、てれってれー、いつの間にか直っていたスピーカーから、商店街の音楽がかすかに聴こえる。

 みのりちゃんはあじさい堂から新しい学校に通うことになった。入学式は来週。今日、電車に乗って、ひとりで学校まで行ってみるのだと言っていた。


 からんと扉が開き、お客さんが入ってきた。沿線の美術大学に新しく入学した学生さんなのか、カラフルな服装の女の子ふたり。壁一面に積み上がった画材が珍しいのか、わあ、と小さく歓声をあげて見上げている。

 画用紙にそっと筆を下ろした。雨の色の絵の具はいままで雨の眼にしか使っていないから、あまり減っていない。ムラサキさんから、あじさいの季節までにあじさいの絵を描いてほしいの、と頼まれたから、この色の花も描こうと思ったのだ。ムラサキさんの絵のほうがよほど上手だと思うのだけれど、季節が変わるときや、新しい絵の具や紙が入荷するとムラサキさんはかならず、ひとつはあなたが描いてね、と言ってくれる。


 「あの」


 遠慮がちに話しかけられて、顔を上げた。さっきの女の子がカウンターのすぐ前に立っている。いらっしゃいませ、と言って、わたしも立ち上がった。


 「気がつかなくてすみません、なにかお探しですか?」

 「あの、……あの絵の、猫ちゃんの眼の色なんですけど」


 桜色のカットソーを着た彼女が指さしたのは、わたしが描いた雨の絵だった。この色です、とちょうど手元にあった絵の具を見せると、ほんとだ、と声をあげる。


 「このあじさいも、この色ですか」

 「はい、そうです」

 「雨の色みたいですね」


 なにそれ、ともう一人の子が隣に来て覗き込む。シャツの襟もとに濃い青色の絵の具がほんの少しついて、色鮮やかに光っている。


 「ほんとだ、雨の色だ!」

 「ね、そうだよね?」



 商店街の寄り合いに行っていたムラサキさんが帰ってきて、わたしはお昼を食べに外に出た。いつもはお弁当を持ってきて店の奥の休憩スぺ―スで食べるけれど、今日は朝、起きたときにすごく天気がよかったから、パンを買って公園で食べようと思った。商店街を抜けたところに、日当たりのいい小さな公園があるのだ。雨も二階から降りてきて、一緒に外に出るようだった。

 ミートショップ小林でかぼちゃコロッケを買い、向かいのベーカリー高田で丸パンと野菜サンドを買った。アーケードを透かして、空が晴れている。多くも、少なくもない人たちが行き交う商店街の中を、雨と並んで歩いた。


 「雨」

 「うん」

 「いい天気だね」

 「うむ、猫の眼にはちょいとまぶしいがな」

 「雨」

 「なんだ」

 「丸パンはんぶんこね」


 言うと雨は雨の色の眼を細め、びろうどのような毛並みのしっぽをふわんと動かして、にゃあーん、と、猫のことばで返事をした。



〈了〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨の眼の猫 伴美砂都 @misatovan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ