猫は死期を悟るとどこかへ行ってしまう

 雨が突然いなくなってしまったのは、秋が深まってぐっと冷え込むようになった、ある日のことだった。

 その日は、朝からざあざあと雨が降っていた。雨の日は、雨はわたしと一緒にアルバイトには行かずに、家でお留守番することになっていた。

 天気のせいか、あじさい堂は一日ずっと静かだった。ムラサキさんが用事で出掛けていたので、ひとりで店番をしていた。アーケードを打つ雨の音がしていて、いつもの音楽はお店の外に出ても聞こえなかった。そういえば、スピーカーがいくつか壊れてしまったのだと、商工会の会長さんがこのまえ言っていたっけ。そのせいなのか、商店街全体が今日は静かなように感じられた。

 家に帰るころには、外はずいぶん暗くなっていた。もう夏至より、冬至のほうが近いんだな、と思う。玄関の扉を開けたとき、ふっと足もとにさむい風が吹いた気がした。


 部屋の中に、雨はいなかった。窓が少し開いていて、でも、今日は風はなくて雨はまっすぐ降っていたからか、降り込んではいない。雨は、自分で窓の鍵を開けることができると思う。でも、きっと、自分では開けない。今日、鍵をかけるのを忘れて出掛けただろうか。閉めた気がする。閉めたからねと、雨と話した気がする。

 部屋の電気をぜんぶ点けて、雨、雨、と何度も呼んだ。隅々まで探しても、雨はいなかった。わたしはスマホのライトを点けて外へ出た。ベランダの向こうの生垣、いつも散歩する道、表の道と裏の道、土手の上、川沿い、思いつくところはぜんぶ、名を呼びながら歩いた。なにかになっているのかもしれないと思って、道端に落ちているこわれた傘、公園の遊具、通りに面した家の玄関に置かれた人形、ぜんぶに、雨、雨と呼んで歩いた。けれど、雨はいなかった。


 猫は死期を悟るとどこかへ行ってしまうのだと聞いたことがある。雨は野良だったから、年齢はわからない。でも獣医さんに虫くだしをもらいに行ったとき、歯や毛並みを見てもらって、たぶん、まだすごく若いということがわかった。雨は、元気そうに見えた。きのうまでも、今日の朝も。

 でも、ねえ、雨、雨は、病気だったんだろうか。雨、苦しいのを、隠していたのだろうか。そう思うと胸から喉もとまでぐっと苦しくなって息が詰まった。雨は、本当にいなくなってしまったんだろうか。

 


 あじさい堂のあかりがポツンと点いているのを見たとき、わたしの目からはじめて涙がだくだくと流れた。あじさい堂のお店の中にはムラサキさんと、タヌキさんがいた。びしょぬれのわたしが入って行くと、ふたりともすごくびっくりした顔をした。


 「雨、雨が、……雨が、」


 途切れ途切れのわたしの言葉を聞いてタヌキさんはすっくと立ち上がり、探してきましょう、と言った。


 「けもののほうが、いくぶん鼻がききますから」


 そうしてタヌキさんはフッとたぬきの姿になり、あじさい堂の自動ドアの横の、雨が通るようにムラサキさんが設えてくれた猫用のドアから、風のように滑り出て行った。気がつくとわたしはムラサキさんのやさしい腕に抱きしめられてわんわん泣いていた。騒ぎを聞きつけたのか、みのりちゃんも二階の部屋から降りて来て、いつの間にか傍に座っていてくれた。



 夜更けまで皆で探したけれど、雨は見つからなかった。ムラサキさんとみのりちゃんは、うちに泊まって行けばと言ってくれたけれど、雨がもし、帰ってきたときのことを思うと家にいたかった。わたしはムラサキさんが貸してくれた傘を差して、アパートに帰った。

 アパートの前に、大きなインコを肩に載せた水上みずかみさんが立っていた。大きな茶色の傘をさしている。水上さんは隣の部屋に住むおじいさんで、合気道の先生だ。インコは、新右衛門しんえもんという。ときどき夜、新右衛門を肩に載せて、散歩したり練習している。

 おお、大丈夫だったかね、と水上さんが言うのを聞いて、そういえば私はこの雨の中、窓を全開にして出掛けていたのだと気付いた。玄関のほうへ回ると、あわてて外へ出たとき引っかけたのかスニーカーの片方がドアストッパーのように扉に挟まっていて、もしかしたら水上さんは心配して、何度も様子を見に出てきてくれていたのかもしれない。


 「雨、……雨を、見ませんでしたか」


 言うと水上さんは、ああ、そうか、と、今日わたしが慌てて出て行った理由を、たぶん、ぜんぶわかってくれた目をした。水上さんも、雨の姿は見ていないといった。水上さんの肩の上で、新右衛門が羽をひろげて、言った。


 「ダイジョーブ!ダイジョーウブ!」


 これ、と水上さんが小さく言う。


 「軽々しく大丈夫なんて言うもんじゃない、よけい心配になるだろう」

 「エー!ゴメン!デモ!ダイジョウーブ!」

 

 わたしは、少しだけ笑った。ありがとうございます、と言うと、水上さんも、厳しい顔をしながら、少し笑った。わたしはその顔を見て、水上さんももしかしたら、まえに、大切なひとがどこかへ行ってしまうようなことがあったのかもしれない、と思った。



 部屋の電気を点けて、窓を全開に開けたまま眠った。つめたい空気が入るから、防虫剤と埃の匂いが残ったままの毛布を引っ張り出してきてかぶった。窓を開けっぱなしで眠るのはあぶないかもしれないけど、でも雨が帰ってくるのならば、どんな目にあってもいいと思った。

 部屋の中で、わたしはひとりだった。思えば、わたしはずっとひとりだった。学校の休み時間のふとしたとき、教室の隅で。障がいのあった姉が発作を起こした夜、両親ふたりがかりで病院へ連れて行ったあとの家の中で。たくさんのひとが同じ部屋で働いていたはずの、会社の自分の席で。いつも、いつでも、どこでも。雨、わたしは、ひとりに戻るんだろうか。ねえ、雨、わたしは、またひとりぼっちになってしまうんだろうか。

 朝方、少しだけ眠り、いろいろな夢を見た。会社のこと、姉のこと、兄のこと、父と母、あじさい堂の、ムラサキさんとみのりちゃんのこと、タヌキになって走り出すタヌキさん、そして、雨、雨の夢。

 たくさんの夢を見て、目を開けた。つめたい雨はとぷとぷとまだ降っており、部屋は、水の匂いに満たされていた。雨は、まだ、どこにもいなかった。

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