猫とタヌキは、あまり出会わない
秋晴れの日が続いている。朝、雨と一緒に散歩をするとき、ずいぶん空気がひんやりするようになった。田んぼは緑色だったのがあっという間に黄金色の稲が頭を垂れ、そして、今はもう刈り取りもおわっている。近くを歩くと、落穂のお米をついばんでいたすずめたちが、わっと飛び立ち、そして、すぐ戻ってくる。
あじさい堂にいるとき、わたしはときどき絵を描くようになった。絵の具の色味のサンプル代わりにするからと、店主のムラサキさんが言ってくれたからだった。わたしが描くより、ムラサキさんの絵のほうが素敵だと思ったけど、でも、絵を描くことができるのはうれしかった。
ムラサキさんが渡してくれた紙は、少し厚手で、すべすべしていてやさしい手ざわりだった。接客や事務仕事の合間に手が空いたときに、カウンターの隅で、少しずつ少しずつ描いた。薄い青から紺色のグラデーションで空を描いて、乾くのを待っている。オレンジ色で夕陽を描いて、それから、町を描こうと思っていた。
小さくベルが鳴って、お店の扉が開いた。いらっしゃいませ、と言って顔を上げると、季節外れの半袖に汗をふきふき、タヌキさんが立っていた。
「こんにちは、……すみません、今日、ムラサキさんは不在で」
言うと、あ、いいんです、いいんです、とタヌキさんはニコニコする。
「絵の具のサンプル、いくつか持ってきただけなので、お渡しいただくか、よかったら使ってみていただければ、どうぞ」
タヌキさんは画材メーカーの営業さんで、タヌキさんというのはニックネームではなく、
ムラサキさんはふだんは自分で画材の仕入れに行くけど、新しい商品の紹介や、たくさん注文があったものを届けてくれるときは、タヌキさんがときどきお店にやって来る。いつもムラサキさんがいるときに訪ねてくるから、わたしはふたりで話すのは、初めてかもしれない。
店の奥の冷蔵庫から冷たい紅茶をコップに注いで渡すと、ああ、すみません、とタヌキさんはにこにこして一息に飲んだ。営業の仕事はわたしはしたことがないけど、まえ勤めていた会社には、営業部もあった。朝、出掛けて、夕方に戻ってくる営業部の男の人たちは、皆、厳しい顔をしていて、わたしは営業部に書類を持って行ったりするのは、少しだけ苦手だった。タヌキさんは、そんな怖い顔はしていない。会社に戻ったら厳しい顔になるのかなと想像してみたけど、うまくできなかった。
店先の小さな椅子に腰かけたタヌキさんが、ふー、と大きく息を吐いた。外は晴れていて、アーケードの天井越しでも、あかるい。
「稲刈りももうおわりましたねえ」
タヌキさんがそう言ったので、わたしはほっとした。よく知らない大人の人と世間話のようなことをするのは、わたしも年齢でいえばもう大人といってもいい歳なのに、いつまで経っても苦手だった。稲刈りのおわった田んぼなら、わたしも今日の朝、見た。
「そうですね、田んぼに、すずめが」
「コロコロ太ってますよねえ、まあ、僕も人のこと言えないんですけどねえ」
頭をがしがし掻いて、へへっと笑う。つられて、わたしも笑ってしまった。
「これから、またどこか行かれるんですか」
「今日はね、これで終わりですよ、社にもどります」
おかわり飲みますか、と訊くと、タヌキさんはちょっとだけいたずらっ子のような顔をして、あっ、じゃあ、ぜひ、と言ってまた笑う。冷蔵庫から水出し紅茶のボトルを出していると、後ろから、ふわあ、とあくびをするのが聞こえた。
タヌキさんとムラサキさんはずいぶん長い付き合いのようだから、あじさい堂は一生懸命汗をかきながら仕事をしているタヌキさんの、少し気を抜ける場所なのかもしれないなと思った。新入りのわたしがいても同じようにそう思ってもらえたのだとしたら、ちょっと嬉しいような気がした。
紅茶にガムシロップもつけよう、と棚を探っていると、足もとを雨がするんと抜けて、お店の脇の階段のほうへ行くのが見えた。外から戻ってきて、二階へ行くのだろう。
黒猫の雨を、お店に連れて来たらと言ったのはムラサキさんだった。
「もちろん、彼次第だけど……もし、よかったら」
わたしがアルバイトに行っている間、雨はいつもひとりで部屋で待っていた。朝、一緒にお散歩に行って、夕方には窓を開けて外に出られるようにするから、本人(本猫かも)いわく運動不足にはなっていないということだったけれど、自由に外に出られないのは、嫌なんじゃないかなと心配になることもあった。でも、家の鍵を開けたまま出掛けるのは気が引けたし、ずっと外にいるまま家に入れないのも、やっぱり心配だった。
あじさい堂に雨を連れて来れば、雨は好きなときに外に出ることができる。雨はわたしの言葉がわかるし、たぶんわざわざ言わなくても、商品にいたずらしたり、入っちゃいけないところに入り込むとか、そういうこともないだろうと思った。でも、と口ごもるわたしに、ムラサキさんは遠慮がちに言った。
「あのね、
ムラサキさんのお孫さんのみのりちゃんは、もっと大人びていると思っていたけど、中学一年生だった。ほんとうは隣町の中学生だけど、五年生のときから学校へ行けなくなってしまって、今は自分の家から少し離れて、あじさい堂の二階に住んでいる。そのことを、わたしはみのりちゃんからこのまえ聞いた。
昼間、みのりちゃんはあじさい堂の二階で、ずっとひとりでいる。お店が暇なときはわたしと少し話すこともあるけど、基本的にはほとんど降りて来ないし、ひとりで出掛けることも、たぶんほとんどない。
一緒に出勤する?、と雨に言うと、雨はふーんと言って、ちょっと考えるような素振りをした。
「俺はまねき猫の能力はないから、役には立たんがな」
「それは、全然、いいと思うけど」
「じゃあ、どこでもいいよ、俺は、かすみのこの部屋は、ラジオもいるし、たいそう居心地もいいけどな、たしかに昼間散歩したいときに、散歩できるのは魅力的だニャ」
そんなわけで、晴れた日、雨はわたしと一緒にあじさい堂へ行くようになった。お店にはいろんな人が来るから、雨は店頭には出ないで、お店の二階で過ごすことにした。二階の窓から屋根を伝って外に出ることもできるし、階段を降りてきて裏口から出ることもできる。いつも、家でひとりでどうしているかなとふと思ったりしていたから、わたしにとっても、雨と一緒に仕事に来られる日は、うれしかった。
みのりちゃんも、雨とすぐ仲良くなったようだった。仲良く、というか、つかず離れずの関係、というか。みのりちゃんも雨と話せたらおもしろいなと思ったけど、今のところ、話してはいないみたい。ムラサキさんも同じだけど、わたしはムラサキさんは、雨の言葉が本当は聞こえる人なんじゃないかな、と思うときもある。
ムラサキさんとみのりちゃんは、今日、フリースクールの見学に行っている。わたしも、学校は苦手だった。でも、みのりちゃんのように、学校に行けなかったことはない。
みのりちゃんがこのまえ、わたしに学校の話をしてくれたとき、みのりちゃんは、負けちゃった、と言っていた。先生とかトモダチとかイジメとか、そういう、学校のぜんぶに、負けてしまったのだと。わたしは、なにも言えなかった。ただ、みのりちゃんが、自分が行きたいと思う学校に、また行けたらいいなと思う。
ふっと振り返ると、タヌキさんは小さい椅子からずり落ちそうになりながら居眠りしていて、椅子からはみ出したお尻から、大きなしっぽがぽよんと出ていた。階段の上がり口で振り返った雨が、うずうずした顔でそっちを見ている。タヌキさんのしっぽが、ふよふよと動いているからだろう。飛びついたら大惨事、かもしれない。雨、と口の形だけで言うと、雨は雨の色の眼をぱちぱちとさせて、ニャンと言った。
「うわっ」
飛び起きたタヌキさんは雨のほうを見ると、わあ、びっくりしたあ、ごめんごめん、と、人間に言うようにして謝った。にゃーんとよそゆきの声で返事をして、階段下に置かせてもらったマットできれいに足を拭いた雨は、音もなく階段を上がって行った。
「いやあ、すみません、なんか気持ちよくって、寝ちゃって」
そう言ったタヌキさんのお尻には、もうしっぽはなかった。おかわりの紅茶を飲み干すと、さっきまでしっぽがあったところのズボンをちょいちょいと撫でてから、じゃあ、また、失礼します、と言って、タヌキさんは帰って行った。
アルバイトが終わって帰る道も、ずいぶん太陽の光が薄く、低くなった。影も長く伸びるようになってきた道を、雨と並んで歩く。雨がわたしの自転車のかごに入って、わたしは自転車を漕ぐ日もあるけど、今日は商店街で買ったものをかごに入れていたから、わたしは自転車を引き、雨は隣の、塀の上を歩きながらついて来た。
「タヌキさんだったね」
わたしが言うと、雨はちょっといたずらっ子の顔になって、ウム、と頷いた。
「猫とタヌキは、仲良くなるの?」
「うーん、猫とタヌキは、あまり出会わないからなあ、タヌキはわりと山のほうで暮らすから、生活圏が違うというかな、まあ、でも、会えば、仲良くならんこともないと思うぞ」
「そっか」
歩いていると身体がぽかぽかとしてきて、わたしは巻いていた薄手のマフラーを外した。中学生のときから持っている、チェック柄のマフラー。雨の目の前でふよふよと振ってみると、雨はニャッと言ってジャンプして、それをつかまえるようなふりをした。
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