猫とは、たまにしゃべる
九月のなかばを過ぎても、暑い日が続いている。でも、朝と夜はもうだいぶ涼しい。
九月になってから、晴れた日は、毎朝、黒猫の雨と一緒に散歩をすることにした。もともと野良猫だった雨が運動不足なんじゃないかなと、勝手に思ったからだった。お散歩する?、とわたしが訊くと雨は、でんぐり返りしながらニャンと言った。
近所を三十分ぐらい、てくてくと歩く。アパートの近くは静かな住宅街で、大きな道のある方ではなくて反対側へ少し行くと、むかしからここにあったのだろうと思うような、小さくてやさしそうな家がたくさん建っている。小さな公園や、公民館や自動販売機もある。
そこから少し道を横に逸れると、ひろびろとした田んぼがあり、土手と、水門がある。その向こうに、運送会社のターミナルの、ぺったりと低い屋根が見える。
少しのあいだそこで立って、鉄塔と電線のあいだを雲が動くのや、ターミナルからトラックがゆっくりと出たり、入ってきたりするのを見る。その間、雨は隣に並んで、座ったり、毛づくろいをしたり、虫にちょっかいをかけたりしている。こんなすてきな場所があることを、わたしはずいぶん長いこと知らなかった。
帰って朝ごはんを食べて、アルバイトに行く準備をする。帰り道、雨がいつもちがう細い道にどんどん入って行くので、追いかけるわたしも、抜け道に少し詳しくなった。
あじさい堂のある商店街は、住宅街から田んぼのほうへ道を逸れずに少し行ったところにある。小さなスーパーが入り口にあり、その横からいろいろなお店が並んでいる。
いま、小さなお店は大きなスーパーやショッピングモールができて閉めてしまうところが多いときくけれど、ここは見る限り、そんなふうではないようだった。スーパーにもお豆腐は売っているけど、あじさい堂の隣のお豆腐屋さんもにぎわっているし、シャッターを閉めている建物も、あまりない。
商店街のアーケードには古いスピーカーがついていて、そんなに大きくない音で、聴いたことのない、いつも同じ音楽が流れている。てれれーてれー、てれってれー。歌は入っていないけど、商店街のテーマソングなのかもしれない。歩いていると、自然にその曲に歩調が合う。テンポの速い曲ではないので、歩くのが遅いわたしも、合わせられるリズム。
ふと気付くと近くを歩く人たちも、似たリズムで歩いているときがあって、そういうときはちょっとラッキーなような、うれしい気持ちになる。
あじさい堂は、もともと店主のムラサキさんの、亡くなった旦那さんのお店だったのだという。私は絵を描いていたんだけど、結局お店を継いだのよと話していた。
「画家を目指しても、一度も売れなかったけど、でも、このお店でずうっと絵を描いていたから」
そうですかと、わたしは頷いた。ムラサキさんが、絵を描くことも、旦那さんのことも、いまでもすごく好きなのだろうと思ったから、胸が詰まってしまってそれ以上なにも言えなかった。
上手に相槌を打てなかったなと思ってそちらを見たら、ムラサキさんははっとするほど優しい顔でこちらを見ていて、目が合うとにっこり笑って、そうなのよと言ってくれた。
ムラサキさんの描いた絵は、あじさい堂の壁にいくつも飾ってある。やさしい色の、すてきな絵ばかりだ。
あじさい堂は小さなお店で、大賑わいになるということはないけど、それでも毎日必ずだれかお客さんが訪れる。電車で数駅先にある、美術大学の学生さんも多い。近くではここにしか置いていない、めずらしい色や種類の絵の具もあるのだという。
たしかに、いっぽうの壁の上までぎっしりと詰まった画材は大きな虹のようなグラデーションを描いていて、そのあいだのどんな色だってここにはあるだろうと信じられる。きっちりと整頓されているので、少しずつだけどわたしも場所を覚えて、すぐ取り出せるようになってきた。
午後、ひとりで店番をしていると、ねえ、と近くで呼ばれた。お店の扉が開くときには、小さな音だがベルが鳴る。それも鳴らず、突然だったので驚いて振り返ると、そこにはミドリちゃんが立っていた。
ミドリちゃんが、本当にみどりという名前なのかは、わたしは知らない。夏に、緑色の食紅をくれたから、心の中で勝手にそう呼んでいるだけだった。
ミドリちゃんがお店の中に入ってくるのは、珍しい。ムラサキさんだけがいるときには、そういうこともあるのかもしれないけど、少なくともわたしがお店にいるときは、一度もなかった。
とはいえ、ムラサキさんの住居である二階から、外へ出るときには必ずお店の隅を通る。階段を降りて来て通用口のほうへ行く姿を、ときどき見掛けるだけだった。
「あんたも言いふらしてるんでしょう、あたしのこと、みんなに」
なにを言われたのか、すぐにわからなかった。お店の入り口のガラス戸の向こうが、ふっと暗くなった。雨が降っているのかもしれない。アーケードの屋根があるから、地面は濡れないけれど、かすかに音がする。
「ねえ、答えなよ、言ってるんでしょう、あそこの子は、学校にも行かないで、不良でって」
ミドリちゃんの顔は、八月に話したときより疲れているように見えた。九月になってから、外へ出て行く姿を、あまり見ていないような気がした。ガラガラと遠くで雷の音がした。
お店の前を、学校帰りなのだろう近所の子どもたちが走って過ぎて行った。わあっと笑い声が上がったとき、ミドリちゃんの目は、一瞬だけ、ほんとうに一瞬だけ、おびえるようにそちらを見た。
「……、わたし」
「……、」
「わたし、友達いないんだ」
「へ」
ミドリちゃんはまたこちらを見た。今日は、メイクはしていない。このまえ会ったときは濃いメイクをしていたから大人びて見えて、高校生なのかなと思った。でも、もしかしたら、彼女はまだ中学生ぐらいなのかもしれないなと、ふと思った。本当のことは、相変わらず、知らないまま。
「家族とも、そんな、仲良くないから、実家も、あんまり帰らない」
「……」
「だから、いないの、わたしには、「みんな」は」
「……、」
「家に、猫がいるから、猫とは、たまにしゃべる、けど」
言うとミドリちゃんは一度ぎゅっと目をつむり、たぶんだけど、泣くのを堪えるような顔をして、そして、バカじゃないの、と言って、ハッと声をあげて笑った。
「あんた、あたしのこと何も言わないんだね」
「……」
「なんで家にいるのとか、なんで金髪なのとか、……なんで、学校行かないのとか、……ばかみたい、みんな、ほんとに、ばかみたい」
「……うん、……あ」
「なに」
「このまえ、ありがとう」
「え」
「ショクベニ」
「え、……」
「クリームソーダにしたよ」
「……、」
ミドリちゃんはしばらく黙っていた。さっきまでグッと握りしめていた手が、今は開かれて、力が抜けている。
的外れなことを言ってしまったのだろうと思った。でも、ミドリちゃんは思いがけず、きゅっと鼻の頭に皺を寄せるようにして笑った。その顔はさっきよりもっと幼く見え、でも、すごくかわいいなと思った。
「あんた名前なんていうの」
「……わたし、かすみ、深山かすみ、……み、えっと、あなたは?」
「あたし、みのり」
「え」
「み、の、り、くだものの実に、野原の野、に、里」
「そっか」
すごい惜しかった、と思ったら、笑ってしまった。なに笑ってるの、とみのりちゃんは言い、でも、その顔はさっきみたいに怒ってはいなかった。
「あんたは、……かすみさんは、どういう字書くの」
「わたし、ひらがな、ひらがなで、かすみ」
「ふうん……いいね」
「……、え、どうして?」
「漢字めんどくさい」
もう一度、今度はいたずらっ子のような顔で笑うと、じゃあね、と言って、みのりちゃんは階段を上がって行った。
ベルが小さく鳴り、お客さんが入ってきたのを見て、いらっしゃいませと挨拶をする。入ってきたのは、隣のお肉屋さん、ミートショップ小林のおばさんだった。
「こんにちは」
「こんにちは、いつもどうもね、かすみちゃん、水彩絵の具の赤、あるかしら」
「はい、お待ちください」
「ありがとねえ、もう、明日図工なのに赤だけないって言い出して、困ったもんだわ」
「息子さんですか」
「そうそう、自分で買いに行けって言ったのにすっかり忘れて、どっか遊びに行っちゃって、ほんとにもう」
「元気ですねえ」
「それだけが取り柄なのよねえ」
そう言いながらも、小林さんの顔は笑っていた。そういえば、と言って、提げていたビニール袋をこちらへ差し出す。受け取ると、温かい。コロッケのようだった。甘い匂いがふわんとした。
「お店のみなさんでどうぞ、かすみちゃんも持って帰って」
「あ、え、ありがとうございます、すみません、」
「いいのよ、試作品だからね、……あのね、みのりちゃん、かぼちゃのコロッケ好きだって言ってたのよね、むかし……あのね、事情はおばさんわかんないけど、最近、ちょっとだけ、元気ないみたいだから、……よかったらね、みのりちゃんにも食べてもらって、ね、」
ごめんなさいね、赤ありがとね、と言って、小林さんはお店のエプロン姿のまま、さっとお店を出て行った。ビニール袋の中で、白い紙に包まれたコロッケが湯気を立てていた。
帰るころには、雨は止んでいた。お店を出たところにある紫陽花は、今はもう葉だけで、それでも元気そうな濃い緑色がまるく茂っている。たくさん花が咲いたのをムラサキさんがドライフラワーにして、それは、今でもお店のカウンターに飾ってある。
あしたは水曜日で、お店は休みだ。もっと持って行けばいいのにとムラサキさんは言ってくれたけど、かぼちゃコロッケはふたつだけもらうことにした。小さなビニール袋に入れてくれたのを自転車のハンドルに提げて、ゆっくり歩いた。アーケードを出ると、通り雨の名残の水たまりに夕方の日差しが反射して、まぶしかった。
家に帰ると、雨はめずらしく起きていて、窓のところに座って外を眺めていた。なにかおもしろいものが見えるのかもしれない。
「ただいま」
「にゃ」
「なにかいた?」
「んにゃ、見てただけだにゃ」
「ねえ、雨」
「うん?」
「あのね、夕方だけど、お散歩行かない?」
やぶさかではないニャ、とキリッとした顔で言って、雨はぴょこんと立ち上がった。
雨と、朝も歩いた道をゆっくりと歩いた。わたしは道を、雨は、塀の上を。住宅街を抜けて、田んぼの中を歩く。あぜ道はぬかるんでいたので、雨はわたしの持って来たトートバッグの中にすっぽりと入り、頭だけ出した。
「せまくない?」
「んにゃ、いい感じのフィット感だな」
土手の上にあがると、ちょうど夕陽が沈んでいくところだった。鉄塔も、電線も、水門も、川面もぜんぶオレンジ色に染まってキラキラと光っている。トラックターミナルの屋根に反射して、残像が残った。
涼しい風が、サーッと吹いた。空の、上のほうはもう群青に染まりかけていて、そこから地平線に沈むオレンジ色までグラデーションになっている。あじさい堂の壁の中のどこかに、この色もあるだろうか。
川へ降りて行くところの石の階段を、降りずに、そこに座った。そこは、もう乾いていた。トートバッグにまだ半分入ったまま隣に座った雨の、雨の色の眼は今日の、雨上がりの夕陽の色をそのまま映して、まぶしいのか、ひとみが糸のように細くなっていた。
暗くならないうちに、家に帰った。ごはんをチンして、わたしはかぼちゃコロッケ、雨は、猫のごはんを食べた。網戸にすると、風が涼しい。リリリ、と虫の声がして、雨の耳がぱたぱた動いた。
かぼちゃコロッケは、ほっこりして甘くて美味しかった。ごはんを食べ終わると、雨は満足そうな顔をしてコロンと寝転んだ。てれってれー、と商店街の歌をつい口ずさむと、ちらりとこちらを見て、ふふんと鼻息を出して笑い、そして、また目を閉じた。
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