猫はクリームソーダは飲まない
兄に会ったのは八月のおわりだった。あじさい堂でのアルバイトが終わってから、わたしは電車に乗って、待ち合わせの駅に行った。兄の働いている場所まで、各駅停車でたったの四駅。こんなに近いということを、わたしは知らなかった。
あじさい堂で働き始めてから、もうすぐひと月になる。あじさい堂は商店街の小さな画材屋さんで、お豆腐屋さんとお肉屋さんの間にある。一階がお店と事務所で、二階が店長さんの住居になっている。
お店を営んでいるのは白髪のおばあさん、といっても、おばあさんと呼んでは申し訳ないぐらい背筋のピンと伸びた若々しいおばあさんで、夏休みだからなのか、孫らしい女の子がときどき、お店の横の階段から二階に出入りする姿が見えた。
店長さんは、ムラサキさんという。紫という字を書いて、ムラサキ。面接に行ったとき、お店の前には小さな紫色の紫陽花が、まるい花を咲かせていた。ムラサキさんはわたしの履歴書をまじまじと見て、このまえ来たね、と言った。
「あの絵の具で何を描いたの」
猫の眼を描きました、とわたしが答えるとムラサキさんは、そう、じゃあ、明日からよろしくね、と言って、にっこりと笑った。
駅を出て、指定された喫茶店を探すのにずいぶん時間がかかってしまった。チェーン店だしすぐわかるよと、兄は電話で言っていたのに。なぜ、今日、兄がわたしを誘ったのか、わからなかった。アスファルトの道は暑く、つくつくぼうしの鳴く声が聞こえていた。
お店に入ると兄はもう来ていた。仕事が終わったのではなく、これからまた会社に戻るのかもしれない。スーツ姿の兄に先月も会ったのに、ずいぶん久しぶりなような気がした。兄の前にはすでに、汗をかいたアイスコーヒーのグラスがあった。
「ジュースかなんかでいいか?」
うん、とわたしが言うと兄は手を挙げて、店員さんにオレンジジュースをたのんだ。兄がコーヒーを飲み干し、わたしもオレンジジュースを半分ほど飲んでも、兄は黙っていた。いらっしゃいませ、という声。ありがとうございました、という声。
「あのな、かすみ」
「……、うん」
「会社、辞めたんだって?」
「え」
会社のことを、わたしはもうすっかり忘れていた。兄が言う会社というのは、たぶん、わたしが三月に辞めた会社のことだろう。それから、もう五ヶ月も経つのに。
「母さんから、聞いてさ」
母にも、会社を辞めたことをわたしは言ったのだったろうか。忘れていた、というのは、たぶん半分ぐらい本当で、半分は嘘だ。いまでも、ときどき夢に見る。でも、もうむかしのことだ。こわい夢のひとつとして、ときどき見るだけ。
「次の仕事とか、何か考えてるのか、今」
オレンジジュースは氷がすっかり溶けて二層になってしまっていた。下のほうはまだオレンジの味がするだろう。そう思うと勿体無いような気もしたけど、そう思ったときにはもう、わたしは立ち上がっていた。
「かすみ」
「お兄ちゃん、」
「え、……うん」
兄は一瞬戸惑ったような顔をした。兄のことを、わたしは何と呼んでいたのだったろうか。同じ学校に通うことがなかったほど、歳の離れたきょうだいだった。兄の子どもは女の子だ。その子は、オレンジジュースが好きなのだろうか。
「なんで辞めたのって、訊かないの」
兄が何か言うまえにわたしはお店を出てしまった。ありがとうございました、という声。冷房の効いた店内から出ると、すぐ肌がじんわりと熱くなり汗が滲んだ。西日がまぶしくて、目を細めた。
顔を上げると駅へ続く地下通路の入り口が、すぐ目の前にあった。ここから出れば、すぐだったのだ。通り過ぎて、道を渡った。
スーパーで缶の飲み物が置いてある棚のところへ来たとき、ワンピースのポケットの中に入れていたものが、ふと脚にぽこんと当たった。早く雨に会いたいな、と思った。サイダーの小さい缶をひとつかごに入れて、レジに向かった。
家に帰ると、黒猫の雨はいつもどおりベッドの上ですやすや寝ていた。近づくとぱっと目を開けて、また閉じる。
「ただいま」
「むにゃ」
ポケットの中から取り出したプラスチックの小さな小さな容器は、歩いて汗をかいたせいか少し湿ってしまっていた。容器のわりに大きな緑色の字で、緑、と印刷されている。
これをわたしにくれたのは、あじさい堂の女の子だった。ムラサキさんのお孫さんなのか、それとも別の関係性なのか、本当のところは知らない。お店にはほとんど顔を出さないからわたしは話したことはなかった。今日、事務室で帰り支度をしていたら、突然話しかけられたのだ。
「ねえ、ほんとにここで働くの?」
茶色に染められた長い髪の、気の強そうな女の子だと思っていた。けれど近くで見ると、遠くで見掛けるよりずっと、優しそうな顔をしていると思った。アイメイクが濃いせいで、強そうに見えるのかも。きれいで、ムラサキさんにやっぱり少し似ていると思った。襟ぐりの開いた黒のTシャツに、デニム地のショートパンツを履いていた。
「うん、働くよ」
言うと彼女は、ふうん、モノズキだね、と言って、そしてこの容器をわたしのほうへ差し出した。
「あげる、これ」
「なに、これ」
「ショクベニ」
食べる絵の具、と言って彼女は去って行った。香水の匂いがふわっと香った。
食紅は、わたしも見たことがある。むかし小学校の図書室で、料理の本を借りたとき。かわいらしいクッキーの上の飾りに、溶かしたチョコレートに食紅を少し入れます、と書いてあった。それに少しだけ憧れて、けれど、それだけだった。
なぜ、彼女がわたしに突然、食紅を渡したのかわからない。緑色の食紅は容器にまだ半分ほど残っていた。あまりたくさん入れると、色が濃くなりすぎますから、注意。あの本にも、たしかそう書いてあった。なりすぎますから、が敬語で、注意、が体言どめ(当時はそんな言葉は知らなかったけど)なのがおもしろくて、いまでもはっきりおぼえている。
お気に入りだったその本はいつしかなくなってしまった。勇気を出して図書室の先生に尋ねたとき、その本は壊れてしまったみたいね、と言われたことをおぼえている。古い本だから、もう買えないの、ごめんね。
ぱたぱたとまた脚になにかが当たった。そちらを見ると雨がもう起きていて、わたしの隣に来て太ももをしっぽでぱたぱた叩いていた。くすぐったくて、わたしは笑った。
「ごはんにしようか」
「うむ、くるしゅうニャイ」
わたしは冷やし中華、雨は、猫のごはんを食べた。そのあと窓を開けて、雨は外に出て食後の運動を始めた。わたしは網戸越しに、しばらくそれを見ていた。街灯の下から外れると、雨も景色も黒くて、なにも見えない。雨の眼だけがときどき、宙返りの気配とともにきらっと光った。少しだけ湿った草の匂いがする。
お風呂あがりにガラスのコップにサイダーを注いで氷を入れ、あじさい堂の女の子にもらった、緑色の食紅をちょっとだけ入れた。ちょっとだけで驚くほど色鮮やかな緑色になる。このまえ買って冷凍庫に入れていたスーパーカップのバニラアイスを出して、スプーンでまるくすくって載せた。
自分で作ったクリームソーダを、ゆっくり飲んだ。ストローはなかったから、アイスの隙間からそっと、緑色にしたサイダーを飲む。
本当はアイスの下はメロンソーダだから、メロン味のシロップを使ったりするんだろう。色もお店で見るのとは少し違うような気もしたけど、でも、しっかりと緑だった。目を閉じると、昼間、わたしが飲み残してしまったオレンジジュースのことが浮かんだ。あのお店に、クリームソーダはあっただろうか。
「かすみ、寝てるのか」
雨が言った。雨のお皿にもひとつ置いていた氷は、もうほとんど溶けていた。ピンク色の舌で、それをぺろんとなめる。
「ううん、起きてる、……あのね、クリームソーダが飲みたかったんだなと思って」
「ふうん……その、いま飲んでるそれは、何というものなのだ、かすみ」
「これがクリームソーダ」
「ふうむ、じゃあ、飲めてよかったじゃないか、ネンガンカナッタというやつだな」
うん、と言うと雨は満足そうにあくびをして、ニョーンと伸びた。猫は暑いと伸び、寒いと丸くなるのだそうだ。扇風機の風に、雨のひげが小さく揺れた。網戸越しの風と扇風機で、夏の盛りよりは夜はだいぶん涼しくなった。
「うまくいかないね」
「ん?」
「ううん、いいの」
ふうん、と言って雨は、わたしのひざにぽてんと頭を載せた。膝頭がふわふわして、少し汗ばんだ。
「猫はクリームソーダは飲まないが、氷はなかなか、ひんやりでよかったぞ」
「うん、そっか」
あじさい堂の女の子の名前は、もしかしたらミドリちゃんなのかもしれない。でも、違うかも。もし、今度会うことがあったら、聞いてみようと思った。
アイスクリームをスプーンですくって口に入れると、氷に当たって緑色になっていたところがシャリリと舌に当たって、すぐ溶けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます