生きていてもそうでなくても、黒猫は話せる
玄関のドアを閉めるのと同時に、外でガラガラと大きな雷の音がした。間髪いれずに、ざああと強く雨の降る音。梅雨明けは、でも、もうそろそろだろうか。七月の半ばをすぎて、湿気のある暑い日が続いている。
部屋の中はひんやりとしていた。雨と暮らすようになってから、出掛けるときはエアコンをつけたまま行く。電気代は思ったほど高くならなかった。黒猫の雨はワンルームの壁際に置いたベッドの上で、ながーく伸びてすやすや眠っていた。
ただいま、と小さい声で言って、部屋の隅に荷物を置く。ひさしぶりに黒いワンピースを着た背中が、じっとりと汗で湿っていた。
ふいに小さなめまいを感じて、わたしはフローリングの床に敷いた、ホームセンターで九百八十円だったござの上に一度座った。そのまま、仰向けに寝転ぶ。ミラーカーテンの向こう、空が暗い。
目を閉じるのと同時に、身体の上をヒュンと何かが飛ぶ気配がして、わたしの身体の横に音もなく着地した雨が、くわぁぁと大きなあくびをした。肘のあたりに、ふわふわした毛の感触。
「おい、かすみ、オソロだな、今日は」
雨が人間の言葉をしゃべるのは、ちょっとだけ久しぶりな気がした。わざと話しかけないようにしていたわけではないけど、ここしばらく、雨は猫の言葉で、わたしは人間の言葉で、なんとなくそれで話していた。目を開けて横を見ると、雨はなんだか得意そうな顔をしている。
「おぼえたの、おそろ」
「そのとおりだ、今日言っていたぞ、ラジオが」
わたしの部屋には小さなラジカセがあり、地域のFM局に周波数を合わせてある。雨はたぶん、ときどき自分でスイッチを入れてラジオを聴いている。オンとオフのスイッチは、雨の手のひらでも押せる。
起き上がるとまだ少しめまいがした。立ち上がって流しのところへ行って、コップに水を入れる。雨のお皿の水も、新しく入れた。ひとりと一匹で、しばらく黙ってお水を飲んだ。
「黒い服は、暑いね」
「おれはいつもこの色だからにゃ」
「着替えるね」
「ウム、くるしゅうない」
相変わらず時代劇ブームが続行中のようだ。青いワンピースを取り出してきて着替えた。
「おい、かすみ、エンブンをとったほうがいいんじゃあないか」
「塩分」
「そうだ、これもラジオが言っていたぞ、ナツはエンブンをとらねばならない」
「うん」
「ビョウキの顔をしているぞ、かすみ」
洗面所に行って鏡を見てみると、服の色のせいかもしれないけど、たしかに少し青ざめた顔をしていた。暑い中を水分もとらずに歩いてきたから、熱中症になりかけていたのかもしれない。
少し考えて、ツナサンドを作ることにした。まだ夕方だけど、夜ごはんにしてしまおう。
ツナサンドとサラダを作って食べた。雨のお皿には、カリカリの横になにもかけないツナ。わたしのサンドイッチに入れるぶんには、気持ち多めに入れた塩こしょうと、マヨネーズ、からしを少し。
ぱっと外が光る。雷はまだ近くで鳴っている。雨のひげがぷるると震えた。
「ぴりぴりくるな」
「ひげがぴりぴりするの」
「うむ、アンテナみたいなものだからな、ひげは」
「そうかあ」
サンドイッチが身体に染みわたるようだった。そういえばわたしは今日、お昼ごはんもほとんど食べていない。
「ニンゲンは服を着ねばならないから大変だな」
「雨も、いつも黒いから夏は大変だね」
「まあ、猫は涼しい場所を見つけるのが得意だからな」
「そうなの」
「そうだ、それに、今はかすみが涼しい場所をつくってくれるからな」
そう言って雨は満足そうに毛づくろいをした。ひげは相変わらず、ちょっとだけ変な方を向いている。
「おれが言うのもなんだがな、暑い日は黒はやめたほうがいいぞ」
「うん、そうだね、……あのね、今日は、特別、姉の、命日だったから」
「メイニチ」
「亡くなった日、その日は、みんな黒い服を着るの」
「ふうん……ニンゲンは、死んだ人に会うために、黒い服を着るのか」
「うーん、……うん、たぶん、そう」
「そうか」
わたしは今日、姉に会えたのだったろうか、と思う。考えても、わからなかった。会っていないような気がした。外はもう、雨ではなく夜の暗さ。窓はミラーカーテンのままで、カーテンを閉めに立たなければいけない。ぱっとまた光り、しばらくの間があった。雷は、遠ざかっている。
「黒はそういう色なのだろうな」
「……」
「猫の中では、黒猫は死んだ人に会いやすいと言われる」
「そうなの」
「そうだ、まあ、噂の域を出んがな」
「そっか」
「オソロだな、かすみ」
それっておそろって言うのかなあ、とわたしは笑った。そうしたら突然、涙がほろほろこぼれた。
実家へ帰ったのは久しぶりだった。家に、わたしの痕跡はもうなかった。姉が亡くなってから、歳の離れた兄が結婚して実家に戻って来、わたしの部屋だったところは、今は兄夫婦に生まれた子の部屋になっている。
わたしは、もしかしたらもう死んでいるのかもしれない。死んだことに気付かずに、ひとりでさまよっているのかもしれない。突然にそう思った。今日、だれか、わたしの名前を呼んだだろうか。わたしは、生きているだろうか。雨は何も言わずにこちらを見ていた。
「……、雨、ね、もし、わたしが死んでいたとしても、嫌じゃなかったら、ときどき、わたしと話してね」
言うと雨はこちらを向いたまま、ぱちぱちとまばたきした。ひげはもとの角度に戻っている。雨はこうやってよくわたしのことを見てくれる。ニンゲンはよく泣くなあ、と思っているかもしれない。
雨の、雨の色の眼からなみだがこぼれるところは、まだ見たことがない。雨に、悲しいことがないといいなと思った。
「おれの見立てでは、かすみは生きていると思うがニャア」
「……」
「まあ、でも、うん、やぶさかではないぞ、生きていてもそうでなくても、黒猫は話せるだろう、きっとな」
ありがとう、と言うと雨は返事のかわりにふんと鼻息を出し、わたしの膝に顎を乗せて、にゅーんと伸びた。わたしは涙を拭って、サンドイッチの最後の一口を食べた。ぱらりと落ちたパンの耳のかけらは、雨がしっかり舌で受け止めた。
雨の音がいつのまにか止んでいた。立って、お皿を片付けて、窓のところへ行った。エアコンを一度消して、網戸にする。水と植物と土の匂いがした。
しばらく、そこに立っていた。道路とアパートを隔てる背の低い樹の茂みに、両隣の部屋の灯りも映っているのが見えて、みんな雨が止んだことに気付いて外を見たのかなと思ったら、それは少し嬉しいような気がした。
わたしが使っているテーブルは折り畳み式の小さなもので、使うときだけ部屋の真ん中に出す。折り畳んでしまう前に、今日、帰りに買ってきた履歴書の用紙をひろげた。
「それはニャンだ」
「あのね、りれきしょ、新しく仕事をしようと思って」
「シゴトをするときにそれがいるのか」
「うん、アルバイト、受かるかどうかわからないけど」
派遣のアルバイトはまだ辞めたわけではなかった。身分が不安定ということを除けば、なにか不自由しているわけでもなかった。決まった場所でまた働くのは、怖いような気もした。でも、六月に絵の具を買いに行った画材屋さんにアルバイト募集の貼紙が出ているのをついこの前、見つけて、やってみようかな、と思ったのだった。
画材屋さんの名前は、あじさい堂。名前もすてきだし、そこで買った雨の眼の色の絵の具も、とてもすてきだった。電話をして、面接してもらえることになったのが、昨日のこと。面接は明後日の予定だった。
慎重に下書きをして、ほとんどぜんぶの欄を埋めた。「特技」の欄だけ、なにも書くことができなかった。そのまま持って行こうと思って、ペンでなぞる。絶対に失敗すると思って五枚入りの袋を買ってきていたけど、なんと一枚で成功することができた。書いている間、雨は静かで、書き終えて見ると、くうくうと寝ていた。
もう一度窓のところへ行く。首筋にじんわりと汗をかいていて、きっと、わたしは生きているのだろうと思った。リリリ、リリリリ、と虫の声がした。草木と雨の匂いを何度か吸って吐いて、それから窓を閉めた。
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