黒い絵の具は黒猫のためにある

 梅雨の晴れ間に、掃除をすることにした。朝、早く起きて窓を開けると、まぶしい光が入った。玄関の扉をほんの少しだけ開けてドアストッパーを立てると、さーっと涼しい風が通った。

 今日と明日は、仕事は休みだった。仕事といっても派遣のアルバイトで、まえ勤めていた会社を年度末に辞めてから四月のおわりまでずっと、わたしは部屋にこもってじっとしていた。そのあと立ち上がって、派遣会社に登録をし、五月からはいろいろな仕事をした。スーパーの試食コーナーのマネキンさんもやったし、一日中パソコンに向かってデータ入力もやったし、チラシのポスティングも、ティッシュ配りもした。

 きのうまで一週間行っていた仕事は、通販のピッキングの仕事だった。広い倉庫を行ったり来たりして、紙に書かれた商品をピックアップして運んだり、ベルトコンベアに乗せたりする。一日目は足が痛くなったけど、二日目からは平気だった。


 最終日、帰り道に、雨が降ってきた。わたしは、傘を持っていなかった。去年の秋に傘をなくしてから、わたしはずっと百円ショップで買った透明の傘を使っていた。それがつい昨日壊れてしまって、今、わたしは一本も傘を持っていない。

 コンビニに入りかけて、思い直して、駅ビルの中の雑貨店で傘を買った。大きめの、縁に小さなフリルのついた、真っ黒な傘。

 傘と夕飯の買い物を抱えてアパートに帰ると、一緒に暮らしている黒猫の雨が窓際の小さなクッションの上で、みゅーんと伸びてはみ出しながら、にゃあと言って迎えてくれた。


 「ただいま、雨」

 「にゃ」

 「あのね、お給料もらったから、いいごはん買ってきたよ、あと、傘」


 缶詰の猫のごはんと、まえに傘をなくしたときに雨がなってくれたみたいな傘を見せると、雨はぴんっと耳を立てた。


 「かすみ」

 「うん」

 「おぬし、意外とたくましいな」


 武士か、と思わずつっこむと、雨はすました顔をした。武士を知っていそうな顔だった。わたしはたくましいのか、そうじゃないのか、それはわからない。おなかは空いていた。わたしはホカ弁の焼き肉弁当(肉ちょっと増し)、雨は缶詰の猫のごはんを、モリモリ食べた。



 洗濯機を回して、ほうきで床を掃いた。掃除機は持っていないので、ほうきとクイックルワイパーをして、そのあと雑巾がけをした。

 わたしは本も洋服もそのほかのものもそうたくさんは持っていないから、部屋の隅に置きっぱなしにしてしまったり、立った拍子に置き忘れてしまったものなんかを片付けると、さっぱりとした。

 ワンルームのアパートは古くて、収納はウォークインクローゼットと押し入れのちょうど中間みたいな小さいスペースがひとつだけある。その中に上着をしまおうとしたとき、実家から持ってきた段ボール箱がひとつ、開けずに忘れられていたことに気付いた。テープは粘着力が弱くなったのか、部屋の真ん中に持ってきてはがすとペリペリといってすぐ開いた。

 中には、実家のわたしの部屋にあった、いろいろな小さなものたちが入っていた。くまの人形の形のオルゴール、富士山のキーホルダー、ミッキーマウスのシャープペンシル。魚の形の栞、どこの景色かわからない絵はがき。

 いちばん下に、濃いピンク色のかばんが入っていた。かばんというのか、ケースというのか、固いざらざらしたビニールのような素材でできた、長四角の袋。小学校のころ、図画工作のある日に持って行っていた「絵の具セット」だと、すぐにわかった。

 絵の具セットの袋は、青と黒、ピンクの三色あった。わたしが子どものころには、もう、女の子がピンクで男の子が青とかではなかった。わたしは、ピンクを選んだわけではない。小学校へ上がるときたくさんのものを買わなければいけなくて、忙しかった母がサッと○をつけたのが、ピンクだったのだ。なにも疑問をもたずに、使っていた。

 プラスチックの収納ケースがひとつ余っていたので、こまごましたものたちは、そこへ入れた。洗濯機がピーッと鳴ったので、洗濯物を取りに行って、ベランダとお風呂場に分けて干した。それから、わたしは部屋の真ん中に戻って、絵の具セットのファスナーをそっと開けた。


 絵の具セットの中には、長四角のバケツのような筆洗いがぴったりと入っている。いつも取り出すたび、ちょうど同じ形ですごいなと思っていた。そういうふうに、作られたものなのだろうに。そのなかに水彩絵の具と書かれた箱と、白いパレット、何本かの筆。筆洗いにもパレットにも落ちきらなかった絵の具の色が残っていた。雨は隣からめずらしそうに中を覗き込んだ。


 「これは、なにをするものだ」

 「絵を描くんだよ」

 「ふうん、へんなにおいだな」


 扇風機がゆるゆると回っていた。今日は、エアコンをするほど暑くはない。夏至はすぎて、陽はまだ長い。

 水彩絵の具の箱を、そっと取り出して開けてみた。開ける前から中身はわかっていた。でも、わざとゆっくりと、つるつるした紙の蓋を外した。中には、黒い絵の具が一本だけ入っていた。


 「それだけか?」

 「うん」

 「ほかの色は、使ってしまったんだな」

 「うん、……ううん、ほかの色は、姉にあげたの」

 「ふうん」


 雨は絵の具セットの袋の隣に、仰向けにころんと転がってあくびをし、しっぽでぱたぱたとわたしの膝をたたいた。しっぽはやわらかい。

 空が曇ってきたのが見えて、わたしは立ち上がって、ベランダにあるぶんの洗濯物を取り込んだ。さわってみると、もう乾いている。お風呂場に干したぶんと一緒に畳もうと思って、部屋の隅にそっと置いた。


 絵を描くのは好きだった。中学ではもう使わないのだと言われたけれど、小学校を卒業しても、わたしは絵の具セットを大事に持っていた。

 春休みだった。大きな紙を広げて、絵を描こうとしていた。その紙は、図工室の最後の掃除当番だったとき先生が、もう捨てるものだからとわたしにくれたものだった。うれしくて、くるくる巻いて持って帰って、大切に置いていた。

 わたしは絵を描くのも好きだし、絵の具も好きだった。絵の具セットの中から水彩絵の具のチューブをぜんぶ出して、グラデーションに並べた。十二色のうち黒だけは、並べなかったのだ。グラデーションにしたとき、青の横に置いても、茶色の横に置いても、濃すぎるような気がしてしまったから。

 姉がすぐそばまで来ていることに気付いたのは、そのときだった。姉は床の上を、ゆっくり転がってきていて、わたしが気付いたときには、わたしが並べた絵の具のチューブのうえに、ばたんと倒れるところだった。絵の具はぜんぶチューブからあふれ、姉は、混ざり合ったたくさんの色を手のひらにつけて、わたしが出していた紙の上に広げ、キャキャと笑った。


 「ねえ、雨」

 「うん」

 「雨は、だれとでも話せるの」

 「んにゃ、うーん、そうでもない、ときどき、話せる人、というのがいる」

 「……」

 「話せる、というか、聞ける、というか……、まあ、かすみは、そういうニンゲンだったということだな」

 「……、」


 姉は紙だけではなく畳まで絵の具だらけにしたが、怒られることはなかった。わたしは怒られるかと思ったが、わたしも、怒られなかった。母は姉がいっぱいに絵の具を付けた大きな紙を、大事に拾い上げて壁に貼った。

 先天的な障がいをもって生まれた姉は、家族の中心でありすべてだった。父も、母も、遠くに住んでいてときどき遊びに来る祖父母も、姉が笑ったといっては喜び、なにか喋ったといっては盛り上がった。パニックを起こして泣けば慌て、体調を崩せば真っ青になって病院へ連れて行った。父や母には、姉の言いたいことが、なんとなくわかるのだといった。傍目には会話をしているように見えなくとも、心で会話しているのだと。

 わたしは姉と話せなかった。姉の言いたいことを、聞きとることもできなかった。姉が何か言えば、いつも、それでもわたしがなにかするより早く、家族のだれかが、姉の言うことを聞けるだれかがやって来た。

 父がわたしの目をまっすぐ見て、俺たちがいなくなったあと、お姉ちゃんをたのむぞ、と言ったとき、わたしは頷いた。頷きながら、心の中には恐怖しかなかった。そのことを、誰にも言ってはいけないと思った。母がベッドの柵の中でよだれを垂らす姉を見ながら、この子はきっとうちを選んで生まれてきてくれたのね、と言ったとき、わたしは同じ部屋で、できるだけ静かにじっとしていた。そうよねと言われたとき、きちんと頷くことができますようにと思いながら。そのことも、誰にも言ってはいけないと思った。


 「雨」

 「うん」

 「猫にも、生まれつき、障がいのある子はいるの」

 「なんだ、ショウガイというのは」

 「……身体が、うまく動かなかったり、話が、うまくできなかったり」

 「む、うん、まあ、ときどきはいるな、でも、すぐに死ぬ」

 「……、」

 「野良ならとくにな」

 「そっか」

 「そういう個体を、とりわけ守ろうとするのがニンゲンのトクセイじゃないか」

 「……」


 姉の医療費は福祉制度である程度賄われていたのだろうと思う。でも、お金はかかった。日に何度も痰の吸引をするため、母は働きに出ることはできなかった。わたしの家には金銭的な余裕はなかった。新しい絵の具を買ってほしいとは、言えなかった。


 ピイッとにわかに鋭く風の音がした。振り返るとベランダは濡れていて、閉めたと思っていた窓が少し、ほんの少し開いていた。力を入れて、閉める。静かになった。

 わたしは姉と話せなかった。父や母が姉と話せるというのは、嘘だと思っていた。心で話せるなんて、うそっぱちだと。でも、本当だったのかもしれない。わたしだけが話せなくて、わたしだけが、聞けなかったのかもしれない。ついぞわたしと話すことのないまま、姉は死んだ。


 「かすみ」

 「うん」

 「絵を描くのが好きだったのか?」

 「……、わかんない」

 「そうか」


 わたしの描いた絵は決して上手ではなかった。下描きまではうまく描けるのだ。細かく描きこむのに、清書して絵の具で色をつけるときに、いつも失敗してしまう。

 たった一度だけ、コンクールに入賞したことがある。小学校五年生のとき。市民ホールで表彰されることになり、わたしはいつも着ないブレザーとプリーツスカートを、レンタルして着せてもらった。とてもうれしかった。表彰式は土曜で、父と母は姉がデイサービスに行っている間に見に来てくれることになっていた。姉が熱を出してふたりとも病院へついて行ったということを、わたしは表彰式の、もう舞台に上がる直前に、付き添いの図工の先生から聞いた。

 そのときの写真は捨ててしまった。先生とふたり並んでホールの入り口に立つわたしは、ぼんやりと微笑んでいた。子どものころのどの写真も、わたしは同じ顔をしていたなと思った。それも、これも、ぜんぶ捨てた。今も、同じ顔だろうか。写真は、ずっと撮っていない。

 姉がいなくなって空っぽになった家に、わたしはなかなか帰ることができない。もう、何年も経つ。お正月やお盆には、少し帰る。皆、姉の話をして少し泣き、そして、おせち料理を食べたり、お酒を酌み交わしたりする。お墓参りには、あざやかな色の花束を買う。わたしは、ぼんやりとした顔で笑う。あのときのような、ぼんやりとした顔で。笑っていますようにと、思う。

 障がいのある猫は、すぐ死ぬかもしれない。障がいのある猫を、猫は守らないかもしれない。でも、少なくともわたしみたいに、あの日の、あの日々のわたしみたいに、お姉ちゃんさえいなければ、とは思わない。


 「わたしは、話せる人でも聞ける人でもないと思う」

 「うーん、まあ、おれと話せるヒトが、ほかの猫とも話せるとは、限らんし、ま、かすみは、たまたま、おれと話せるニンゲンだったってことだな」

 「……、そっか」

 「うむ、なあ、かすみ」

 「……、」

 「おれの絵を描いたらいいと思うぞ」

 「え」

 

 雨は偉そうなそぶりで胸を逸らしてフンッと息を吐いた。


 「黒い絵の具は黒猫のためにあると言っても過言ではニャーイのだ」


 猫かっ、と思わずつっこむと、猫だ、と返される。


 「忘れてもらっちゃあ困るな、おれは天下の黒猫様よ」

 「……、やっぱり、武士かも」

 「昨日、かすみが仕事の間、お隣のご老人の家でずっと見ていたのだ、ジダイゲキを」

 「……」

 「窓のカギを開けっぱなしにして行っただろう、ブッソウなヨノナカだから、気を付けねば駄目だぞ」

 「えー……」


 笑ってしまった。雨はわたしと話せるけれど、わたしの心の中までは見えないと思う。でも、きっと、雨はわたしを元気づけようとしてくれたのだろうと思った。

 隣にひとりで住んでいるおじいさんは、たしか大きなインコを飼っている。猫と鳥は同じ部屋で時代劇を見られるのか、というか、おじいさんに入れてもらったのかな、部屋。まさか、勝手に忍び込んだりはしてないだろうけど、今度顔を見たら、お礼を言おう。

 雨はふああとあくびをして、ぐーんと伸びをし、その姿勢のまま、くうくうと眠ってしまった。深く息を吸って吐いた。胸の奥が少し痛かった。きっと、ずっと痛いだろう。


 「明日、描くね」


 黒の絵の具は、なかなか減らなかった。少し使うだけでぜんぶ黒になってしまうから、失敗するのがこわくて、あまり使わないようにしていた。窓のほうを見ると夕方の色の空から雨が落ちてきていて、ああ、やっぱり雨の眼の色だなと思う。明日、画材屋さんに行って、雨の眼に似た色の絵の具だけ探そう。そして、雨の絵を描こうと思った。

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