猫は布団には原則ならない

 雨が降っている音がしていた。日曜日の深夜だった。まえまでならもう眠っている時間だった。わたしはゆっくりと起き上がった。ずいぶん長いこと寝ていたので、起きるときいんと耳鳴りがした。

 雨、とちいさな声で呼ぶと、思いがけないほど早く、思いがけない近くから、にゃーんとはっきり返事をする声が聞こえて、雨はお布団のわたしの足もとのあたりから、するんと這い出して来てくれた。

 部屋の電気をぜんぶ消しているので、黒猫の雨はカーテンの隙間から漏れる街灯のあかりに照らされても、うっすらとしか見えない。雨の色の目だけが、きらんと光って居場所を知らせた。

 

 「雨」

 「にゃあ」

 「わたし」

 「……」

 「会社、辞めてきちゃった」

 「にゃ」

 「次の、仕事、すぐ探すけど、……雨のごはん、しばらく、食パンかカリカリになっちゃうかもしれないけど、ごめんね」


 ばたた、ばたたた、とベランダに水が落ちる音が聞こえた。アパートの部屋は一階だけれど小さなベランダがついている。コンクリートなのでふだんは大きな音はしない、樋がこわれているのか時折だけ大きな音を立てるのだ。

 目が慣れてきて雨の輪郭ははっきりと見えた。雨はきれいな宝石のような目をぱしぱしと瞬かせた。わたしは宝石というものは持ったことがないけど、世界のどこかに、雨の眼の色の宝石があるだろう。雨は胸のあたりの毛をもふっと逆立てるようにして、そして言った。


 「よくやった」


 それを聞いてびっくりして、そして涙がぼろぼろこぼれて落ちた。雨が人のことばを話したのが、ひさしぶりかもしれないなと思った。


 「かすみ」

 「ん、」

 「おれに食パンかカリカリをくれるというのか」

 「……、うん」

 「あのな、野良猫はなんでも食えるように修行を積んでいるというが、あれは嘘だ」

 「……、」

 「本当は、食っちゃダメなもんを食わないように、そして、食えるもんを発見できるように修行を積んでいる、だから、まあ、どっちにしても大丈夫だ」

 「……」

 「食パンも、カリカリも、猫にとってはご馳走だ、安全で、かすみがそれをおれにくれるというなら、じゅうぶんすぎるぐらいだ」

 

 雨は誇らしそうに言って、ふんっと鼻息を出した。ふわんとあたたかい空気が手に触れ、わたしはお布団の上に座り込んだまま、えんえん泣いた。雨はわたしの正面に黙って座っていた。

 やがて泣き疲れ、わたしはぱたんと枕の上に頭を載せた。枕はうっすらと湿っていた。お布団からも湿ったにおいがする。わたしは悲しくなって、横になったまま、また泣いた。


 「雨」

 「なんだよ」

 「お布団が、くさいよう」

 「おれに言われてもどうにもならないにゃん」

 「、う、……」


 会社を辞めたのは、阪田さんたちにいじめられたからではなかった。グドンちゃんとよばれていたことを知ってしまったときには、会社に行きたくなくなりすぎて、日曜の夜は吐いた。でも、月曜の朝には立ち上がって出勤していた。でもある日、矛先がわたしから、これまで阪田さんたちと仲がよかった三ツ井さんに変わったことを知り、わたしはその日のうちに、会社を辞めることを決めてしまった。

 ちょうど年度末だったからか、それともわたしが本当にグドンで、何の役にも立っていなかったからか、一応えらい人に叱られはしたけれど退職はすぐできた。わたしが辞めて、もし三ツ井さんも辞めたとしても、新しいグドンちゃんが生まれていくだけなのだろうと思った。四月になっても今年はさむい雨ばかりだった。雨の日のことを、ずっと嫌いではなかった。子どものころから、ずっと。雨に出会ってからは、とくに。でも、この春のおわりの雨は、これまで出会ったどの雨より、つめたく、重かった。

 会社を辞めてからわたしはほとんどの時間を眠って過ごすことしかできなかった。いつも、こわい夢を見て、起きたときは、なにもつけない食パンを雨とはんぶんこして食べた。雨は一度も文句を言わなかった。わたしは買い物に行くことも掃除をすることも、もちろん、布団を干すこともできなかった。晴れていた日も、あったのに。グドンとフトンは少し似ているかもしれないと思った。くさいタオルケットに涙がずぶすぶと吸われていった。


「かすみ」

「……」

「次の仕事は、すぐしないといけないのか」

「……、うん、わたし、お金、あんまりないし、親には、たよりたくないし」

「オヤの家に帰ることはできないのか」

「……、できなくはない、かもしれない、けど、」

「ニンゲンは、カロウシとかストレスというなまえのやまいで死ぬというじゃないか」

「……、」

「ガンバリスギルヒトがなるときいたぞ、……かすみ、そんなさよならは、いやだぞ、おれは」


 タオルケットから目だけ出すと、寝転んだ雨の顔がすぐ隣にあった。雨は泣いたりはしていなかった。雨の色の目は、でも少し曇りの日のような色に見えた。空は曇りのあと雨になるのに、不思議なことだ。


「雨」


 言ったわたしの声はひどい鼻声だった。鼻水もタオルケットで拭いてしまった。これだけ汚かったら、もう変わらないと思った。


「実家に帰るとしたら、ここ出ないといけないもん」

「……」

「うち、父親がネコアレルギーなの」

「……、」

「雨とはなればなれになっちゃうよ、そんなさよならは、わたしはいやだよ、雨」


 雨は、むふーん、ともう一度息を吐いた。それは、溜息なのかもしれなかった。でも、わたしが仕事のことを説明しようとしたときの阪野さんの溜息とも、わたしが突然仕事を辞めると言ってきかなかったときの部長の溜息とも、ぜんぜんちがう溜息だということはちゃんとわかった。


 「あのな、いいか、かすみ」

 「うん」

 「猫は布団には原則ならない、なぜって、布団で寝るのが好きだからな」

 「うん」

 「だから、今日は特別だ」


 雨はそう言うとわたしの腕の中でももももっと伸びて、大きな毛布のようなお布団になった。お布団になった雨は、雨という名なのに、お日さまによく干していたあとの匂いがした。

 お布団になった雨にくるまれてわたしは目を閉じ、もう泣かずに、眠った。目覚めて晴れていたら、タオルケットを洗濯して、今度こそお布団を干せるような気がした。

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