雨の眼の猫

伴美砂都

猫はしゃべるし傘にもなる

 雨という名前の猫に出会ったのは雨のたくさん降る日で、わたしは会社の通用口から出ようとしたら、傘立てに今朝、入れたはずの傘がなかったので途方に暮れているところだった。

 通用口の庇は小さくて大粒の雨が跳ねる日は長く立っていると少し濡れてしまう。傘立てにほかの傘はもう少なかった。ほかの部署にはまだ残っている人もいたけれど、わたしのいる部署は、わたしが最後だった。

 秋のおわりの、夜八時を過ぎたところで、当たり前のようにもう辺りは暗い。一応、扉の陰や傘立ての後ろ側も覗いてみたけれど、当たり前のようにやっぱり傘はなくて、ああ、またか、とわたしは思った。

 傘がなくなるのは今年に入ってもう四回目だった。最初は、だれか間違えて持って行ってしまったんだろうと思って、新しい傘を買った。それもなくなり、次の傘は透明のビニール傘に、みやま、と自分の苗字を書いたテープを貼ってみた。深山みやまの深という字をマジックでうまく書けないと思ったから、ひらがなにした。

 そのビニール傘もなくなり、剥がされたテープが駐車場の隅の土の上に捨てられていたのを見てから、ずっと折りたたみ傘を使っていたのに、つい先週、風が強かった日に、高校生のときから使っていた折りたたみ傘はこわれてしまった。

 新しく買った傘は、薄い水色に、虹のような色の縁どりがしてあった。派手ではないけど開いてみたときすごくきれいな色だったからうれしくて、つい会社に持ってきてしまった。せめて、盗まれても大丈夫な透明の、安い傘にすればよかったのだ。でも、傘立てにずっとある誰のものかわからない古い赤い傘、ずっとあるのに盗まれない傘もあるということに、甘えるような気持ちになってしまった。きっとこれは「盗もうと思われない人の傘」なんだろうということに、だれも知らないと思うけど、わたしはちゃんと気づいている。


 寒かった。ふいに鼻がむずむずとして、堪える間もなく、ぐずんっ、と大きなくしゃみをしてしまった。本当は昨日の夜ぐらいから、風邪をひいたかもしれないと思っていた。だから今日は早く帰ろうと思って必死で仕事をこなしたのに、定時になる少し前、先輩の阪野さんが、ちょっと深山さん、と言った声はすごく怒っていた。


 「この表のデータずれてるんだけど、どういうこと?」


 データは、間違えないように慎重に入力したつもりだった。何度も確認したはずだった。そして、共有のフォルダにデータを保存して、阪野さんに、終わりましたと報告した。でも、もし万が一、入力した行がずれていたなら、それでもコピーペーストで直すことができると思ったのに、開いたファイルは細かいところがたくさん違っていて、直すのに何時間も掛かってしまった。

 データを直しながら、絶対にここは間違えずに入れたはずなのに、と何度も思った。でも、わからない。わたしは間抜けだから、本当に間違えていたのかもしれない。こんなことが、ときどきある。しょっちゅうではない。慎重に、すごく気を付けて作って何度も確認したはずだけれど、でも、もしかしたら本当に間違えてしまったのかもしれないと思うほどには、ほんのときどき。

 ぐしゅん、ともう一度くしゃみが出た。風邪をひくとくしゃみと鼻がひどくなってしまうのはむかしからで、今日、席で何度もくしゃみをしてしまうたびに、背後からさざ波のように忍び笑いの声が聞こえたことを思う。データが違っていたことをわたしに言った阪野さんの声は、怒っていたと思う。決して、笑ってはいなかったと、たぶん思う。周りの人たちは、どうだったろうか。今日は金曜日で、幸い、明日と明後日は仕事は休みだ。でも、月曜日になったらまた、ここに来なければならない。そう思うと、熱はないはずなのに、鼻と目と頭がずしんと重くなり、ぐず、とわたしは鼻をすすった。


 もう一度、傘立ての後ろのつつじの茂みのところを覗くと、そこに猫がいた。真っ黒な猫だ。真っ黒だから、夜の闇にとけていて、さっきは見えなかったのだろう。それか、今来たか、どちらか。ちょっと驚いた。猫は驚かなかったようだった。こちらを見た猫の目は、なくなってしまったわたしの傘の、少しくすんでいるのに透明に近いような水色に、よく似た色をしていた。

 雨の色だなと、わたしは思った。雑貨店の片隅で一本残っていたあの傘を開いてみたときと、同じように。あの傘が、大好きだったなと思った。一度しか差さないまま、どこかへ持ち去られてしまった傘。雨の色の、傘。


 「ネコアレルギーなのか?」


 猫が言った。さっき、わたしがくしゃみをしたからだろう。


 「ちがうよ、風邪ひいてるだけ」


 猫は今度は少し驚いたような顔をして、おまえ驚かないんだな、しゃべっても、と言った。


 「風邪うつるから、近寄らないほうがいいよ」

 「ニンゲンの風邪は猫にうつらないんだよ」

 「そっか」


 猫は傘立ての影から、通用口の蛍光灯の下に出てきた。きりっとした猫だ。毛並みがきれいで、首輪はしていない。少し濡れているように見える。寒そうだなと思った。


 「野良なの」

 「野良だね」

 「うちくる?……うちの、アパート、動物いいの」

 「ふうん、そりゃ、ありがたいね」

 「ひとのことばがしゃべれるんだね」

 

 言うと、猫は本当にひとのように、今更かいッ、と言い、ニャンと、たぶん笑った。わたしは猫を抱き上げた。猫は少し濡れていた。


 「飼うなら名前をつけておくれ」

 「雨」


 雨は雨の色の目でこちらを見た。アパートまでは十五分ぐらいかかる。傘がないから走るね、と言うと、雨はわたしの腕の中で傘になった。真っ黒の傘だった。


 「猫は傘になるの」

 「猫はしゃべるし傘にもなるよ、どっちもふだんしないだけさ」


 わたしは傘になった雨を胸の前でぎゅっと抱き込んで外へ走り出た。ちょっとまて、とわたしに抱えられたまま、もぎゅもぎゅとした声で雨は言った。


 「なんのために傘になったと思ってんだ」


 だって、濡れるよ、と言うと雨はそれ以上なにも言わなかった。呆れられたかなと思った。でも、通勤路に一軒だけあるコンビニの前を通るとき、なあコンビニ行こうぜ、と雨が言ったから、わたしはびしょぬれのまま、傘になった雨を腕に提げて一緒にコンビニに入った。


 「猫のごはん買うね」

 「パンと牛乳でもいいけどな」

 「ツナ缶でもいい?」

 「おおご馳走だね、風邪ひいてんならなんかあったかいもん買っときな」

 「うん」

 「雨はやみそうだね」

 

 腕に提げた傘の柄は少し柔らかく感じた。そこが尻尾だったのかもしれない。コンビニの店内をうろうろしているうちに本当に雨はやんでいた。傘になった雨はそのままのかたちでわたしの家まで来るつもりのようだった。


 「おまえの名前はなんていうんだ」

 「深山かすみ」

 「かすみか、言いにくいな、かすみ」

 「うん」


 だれかに下の名前で呼んでもらったことが、とても久しぶりのような気がした。玄関を入ると雨は猫のかたちに戻った。


 「はやく風呂に入ったほうがいいぞ」

 「猫もお風呂に入るの」

 「猫は乾いたタオルがいいな」

 「わかった」


 アパートはとても古くてお風呂も古びてしまっているので、いつものようにシャワーだけ、でも、熱くして浴びた。ドライヤーもして、出てくると雨はタオルの上でごろごろ転がっていた。真っ黒の毛はびろうどのようにつやつやとしていてきれいだ。


 「ひとのことばを話すのは、猫には大変なの」


 コンビニで買った猫のごはんは、缶のふちが痛かったら嫌だなと思って、お皿に開けた。少しこぼしてしまって、あっ、と思う。でもわたしが立ち上がるより前に、雨の舌がぺろりと舐めとった。


 「猫によるけど、おれはそんな大変じゃないな、まあ、でも、猫語のほうが楽っちゃー、楽だ」

 「そうなの、……じゃあ、むりにしゃべらなくて、いいからね、……あと、しゃべってくれてありがとう」


 雨はごはんを食べる口を止めて顔を上げて、雨の色の目でまたこちらを見、じっと、しばらく見た。そして、口の横についたごはんをピンクの舌でぺろんと舐めて、目を細め、にゃあーん、と、猫のことばで返事をした。


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