死にたい竜と少女の物語_4

 千年ぶりに空を飛んだ。

 封印を破る時に受けたあちこちの傷はまだ痛んだが、どうしても今飛びたかった。

 久しぶりに飛んだ空はきらきらしていて、光はまぶしくて、風はひんやりしていて、全ては心地よかった。

「お願い、もうちょっとだけ低く飛んでくれないかな。私、空を飛ぶのって初めてなの。落ちたらやっぱり死んじゃうわよね、これ」

 背中に乗ったルチアが言った。

 お礼のつもりで乗せたはいいが、平常この娘は臆病であったのをすっかり忘れていた。それでも厚意を断るということは頭になかったようだから、とことん甘い娘である。

 本当は雲の上までぐんぐんと飛んで行きたかったが、ルチアが怯えるため、竜は出来る限り低空で安全飛行を心がけた。

 しかし慣れてくると、少女の中にある、従来の好奇心が顔を出したようで。

「……慣れれば飛ぶのって、結構気持ちがいいのね。鳥になったみたい。いつも見ている森も、こう見ると小さくてわいいわ……あ、待って、よく見えるように身体を斜めにしてくれるのはありがたいんだけど、身体は水平にしててね、お願い、絶対」

 赤竜は言われた通り、身体を地上と平行に戻した。

「ピピッ!」

 命の恩人となった小鳥のピートは、ルチアの親友だという。魔力を持った珍しい鳥だ。

 どこか遠くまで出かけていたのが、久しぶりに戻って来たところらしく、小鳥はルチアの肩にとまって近況報告をしているようだ。

「そう……じゃあさっきの万能薬は、お守りのお礼にくれたのね。今度会ったらウォレスにお礼を言わないと……ピートもありがとう。本当に助かったわ。なにより、無事でよかった」

 白妙の森はそう広い《空間》ではないため、地上の景色はやがて緑の草原に変わる。遠くには山脈も望めた。地上には鹿のような角を生やした魔物が、群れになって草をんでいる。

 世界は魔王におびやかされてはいたが、いまだその姿は美しかった。

 町の上空を飛ぶのはあえて避けた。怯えられてまた勇者など呼ばれたら、目も当てられないからだ。

 竜は世界の青々とした姿が眩しくて目を閉じる。

 このまま海まで飛びたい。

 そこから、どこまでも、どこまでも。

 ふいに背中を撫でられた。

「前に言ったかしら。秘密の友達がいるって」

 赤竜は飛びながら思い出す。

 聞いた。たしか、紅茶にジャムを入れるのが好きだと言っていた。

 自分と少し似ているとも。

「その友達はね、ここから遠い遠い、世界の果てに住んでいるんだけど。彼がね、あなたのことを心配して、ピートにあの薬を持たせてくれたの。すごい秘薬で、どんな傷でも治してしまうそうよ」

 それはもう身をもって知った。

「……私だけじゃなかったね」

 その声は幸せに満ちていた。

 けれど赤竜には、それだけでは何のことかわからない。

「私だけじゃないのよ。あなたのことを想っていたのは。その友達も、ピートも、それに師匠だって、あれで案外、心配しているのよ。あんな言い方していたけど、毎日あなたの様子を聞いてくるもの」

 独りぼっちじゃないのよ、と。

 ルチアが言う。

 ──海に浮かぶ夕日が見たい。

 何故そう思ったのかわからなかったが、ルチアにそう伝えると、見に行きましょうと言われた。あなたなら、すぐに行けるわと。

 気付けば、もうすぐ日暮れだった。

 飛んで、飛んで、飛んだ先に、海が見えた。水平線に、太陽が触れている。これからその巨大なは、海にどんどん溶けていく。

 世界は黄昏たそがれに染まる。ルチアの魔法と同じ色だ。

 竜は赤く。ルチアの髪も赤く、世界も赤い。

 燃えるように鮮やかな世界はけれど、今の自分たちに、どこまでも優しかった。

「……きれい」

 ルチアがぽつりと呟いた。

 輝く瞳で、同じ景色を見ているのだ。

 ──うん。世界は綺麗だ。

 なつかしいとも思う。

 昔誰かと見たような気がする。遥か遠い昔に。顔は思い出せなかった。つながった記憶も細い糸のように頼りない。だから切れないようにそっと、その糸を手繰りよせた。

 竜は孤高の存在で。長い時を独りで過ごす。

 人間とはおろか、竜同士でさえ群れたりはしない。

 けれど、ずっと独りというわけでもなかったらしい。よく考えれば当たり前だ。生きているのだから。そうでなければ命は繋がらない。

 そうだ、誰かと夕日を見るのは、初めてではない。

 竜はそう確信して、そして満足した。

 満足して、あとはただ夕日を眺めた。


 あまり遅くなってはいけないと、夕日が沈みきる前に帰路についた。

 それでも遅くなってしまった。風は夜のものに変わった。

 古跡まで戻ると、驚いたことに赤眼の魔女が待ち構えていた。腕を組み、仁王立ちで。

「げ、師匠……」

「自分の師匠を見て、げ、とはなんだ貴様」

「ひ……」

「いい御身分じゃないか。普段お世話になっている大事な大事な師匠の夕食の準備もしないで、竜と遊んでいるなんて。おかげで人間様の言葉も忘れてしまったらしいね」

 夕日はとっくに沈んでしまったのに、魔女の背後だけ何故か赤い。

「ここここ、これには深い事情がありましてですね。決して空を飛ぶのが楽しくて、夕飯の準備をすっかり忘れていたなんてことは、なく……ひぃ」

 竜の足元に隠れたルチアが、必死に弁解する。

「さっさと帰る!」

 魔女が怒鳴った。

「はい!」

「駆け足!」

「はいぃ!」

 横を走り抜けようとする弟子の頭を、師匠がぽんと叩く。それは、怒っているというより、どちらかというといたわっているような手つきだった。まるで、巣の外に初めて飛び出した我が子を褒める、親鳥のような。

 ルチアが思わず足を止め、振り向く。彼女には、師匠の背中しか見えていない。

「夕飯は私が代わりに作ってある」

「…………師匠のご飯、まずいじゃないですか」

「ほう?」

「いえ、何でもございません! ありがとうございます!」

 再度走り出した弟子はしかし、最後にもう一度だけ振り返り、竜に向かって、

「また明日ね!」

 手を振って、今度こそ本当に帰って行った。

 その背中を見送っていると、

「……私があの娘にかけた結界が消えているね」

 魔女がそれとない視線を竜に向けた。

 後を追うのかと思ったら、どうやらまだ帰る気はないらしい。

「まあ詳しい話はあの娘から聞くとしよう。私はルチアみたいにお前さんの言葉を理解出来ないしね。お前さんは私の言っていることが、よくわかっているだろうけど」

 本当に底の知れない魔女だ。ルチアの師匠であるのだから、悪い魔女ではないのだろうけれど。

「とりあえず、おめでとうと言っておこうか。いや、死ねなくて残念だったなと言うべきか。とにかく、お前さんは自由になった」

 そうだった。傷が癒え、封印が解けた今、赤竜は自由であった。

 どこへでも行ける。

 選択が出来る。

 本来当たり前のことが、とても不思議だった。

 その時、魔女が奇妙な笑みを浮かべた。その笑みはあまりにも多くのものが混ざり過ぎていて、真意を読み取ることは不可能だった。

「ここからはただの昔話だからね。話の途中でねぐらに帰ってもらっても、私は全く、一向に構わないが……」

 そう前置きをして、魔女は話し始める。

「私は今回の勇者のことは、接点もないし、よく知らないんだがね。光の勇者のことは少しだけ知っている。何せ本人に会ったことがあるんだ。お前さんと一緒で」

 驚いた。この魔女は純粋な人間ではなかったし、何より時を操る魔女だ。長く生きているだろうとは思っていたが、まさか、光の勇者と会ったことがあると言い出すなんて。

「そいつから、一匹の竜の話を聞いたことがある。その竜はお前さんみたいに独りでめそめそしているやつなんかじゃなくてね、人間ともたまに話をしたりしていたらしいんだ。仲がよかったかは知らないが。とにかく共存していた」

 しゃがれた声で、魔女は話す。

「けれどある時、闇の魔王の魔力に中てられて、その竜は暴れ出した。森を破壊した。里まで下りてきて、人間を殺すのも時間の問題だ。そこに駆け付けたのが光の勇者だ。あいつはそういう存在だからねえ。竜を一頭始末するなんて、奴にとって造作もなかった。実際、殺そうとした」

 赤い竜の境遇と、よく似ていた。

 魔女は続ける。

「ただそこに、待ったをかける馬鹿がいた。それは他でもない、共存していた人間たちだった。愚かなことに彼らは、この竜は自分たちの友達だから、竜が死んだら悲しいと言ったんだよ。私が光の勇者の立場だったら、一喝してさっさと竜を始末しただろうけどね。だけどそこは光の勇者さまだ。奴はどうしたと思う?」

 いきなり話を振られて、赤竜は戸惑った。だがありがたいことに、魔女は答えを求めていなかった。

「殺さなかったんだよ。だがいつまた暴れ出すかわからない。魔王が死んでも、魔力に中てられたそいつが正気に戻る保証もない。光の勇者は彼らほどその竜のことを知らなかったしね。だから近くの森に封印した。《空間》は竜を置く意義を強く求めたから、〝次の勇者が現れた時に強くなれるように〟ともっともらしい理由を付けた。そういう話だったよ」

 赤竜は、ぱちぱちとまばたきした。

 いくら人間の真意をるのが苦手だとは言っても、わかった。わかってしまった。

 これは、赤竜の物語だった。

 罰ではなかったのだ。たとえ結果的に罰になったとしても。

 始まりは、違った。

 愛されていたかはわからない。

 けれど想われてはいた。

 誰もが自分勝手ではあった。

 けれど独りではなかった。

「そしてここからは、このテオドラ様の、図書館ほどもある豊富な知識からなる昔話なのだがな……」

 話はまだ終わっていなかったらしい。

 夜のとばりは下りきっていて、魔女が持つ角灯だけがぼんやりと辺りを照らしていた。魔物の気配が一切しないのは、竜が追い払ったせいか、この魔女が持つ魔力を恐れてか。はたまた両方か。

「竜が封印された場所は、ただ白いだけの、何もない場所だったらしい。それを人間たちは、それでは寂しかろうと思ったんだな、多分。まあ何だ、責任のようなものを感じたのだろう。だから彼らは、壁に装飾を施した。ふと竜が目を覚ました時、寂しくないようにと」

 魔女は笑う。

「私は気まぐれにこの土地に来ただけだけどね、竜の話は覚えていたよ。竜が封印されている白い森。観光の価値はあるだろ? 飛んでいるところが見られるなら、なお悪くない。けどねえ、そいつは死にたがりだったんだよ。起こして、ほら飛んでみろと言う気にもなりゃしない。だって、起きれば死んでしまうだろうからね」

 ルチアが言っていた。あれで師匠も案外心配しているのよと。

 本当に? これで?

 けれど、魔女の瞳の中には、ずっと赤竜が映り続けている。赤い目に赤い竜だから、もう真っ赤だ。

「まあ、だけど、そいつが、自らが意志を持って封印を破れば、どうだろうね」

 魔女は、これで昔話はおしまいだと言った。

 笑いながら。

 どこまでが本当の話だったのか。

 あの白い壁いっぱいに描かれた物語は。

 中心に描かれた、竜の意味は。

「さ、そろそろ戻らないとルチアが心配しだすから、帰るとするかね。このテオドラ様を心配するなんて馬鹿な弟子だよ。そんな暇があるなら、まずは自分の心配をしてもらいたいもんさ」

 あの弟子にしてこの師匠ありというのか、よく喋る魔女である。いや、逆だろうか。

 魔女は袖からパイプを取り出し、魔法で火をけた。深く吸って、大きく吐き出した。途端に、竜にとって不快な臭いが辺りに漂う。

 竜は鼻に皺を寄せた。

 魔女はいつでもねぐらに戻ってもいいと言ったのだから、竜は帰ることにした。

 傷だって癒えきっていない。沢山寝て、ルチアが置いていった食べ物をもらって、早いところ回復しなければ。

 飛ぶのはまた今度にしよう。

 背中を向けた赤竜に、帰らなければと言った魔女はまだひとり話を続けている。

「でもまあ、誰もが持ちつ持たれつだよ。お前は飛竜だ。遠くまで飛ぶのだろうね。いつかルチアがお前さんに助けを求めることも、あるかもしれん。何せあの子はむこうみずだから。その時は、手を貸してやっておくれ」

 その言葉を聞きながら、竜は古跡に戻った。自分を閉じ込めていた場所に戻るのは、別にいやではなかった。

 中心にそっと身体を横たえ、尻尾を身体に巻き付ける。その身体は、久々に飛んだ疲労感に包まれていた。

 明日もルチアは訪ねて来るだろうか。

 来たら、歌ってほしいと頼んでみよう。

 今度はきっと、喜んで歌ってくれるだろうから。


 *


 赤眼の魔女が言った通り、ルチアが竜に助けを求め、世界の果てまで飛ぶことになったのは、また別のお話。

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