死にたい竜と少女の物語_3

 眠ってしまった竜に、少女は触れなかった。竜が許していないと、わかっていたからだろう。

 だから竜は少しだけ、少女に気を許すことにした。それでもやはり、触れさせることはしなかったが。

 少女は毎日やってきた。

 竜が水にも食料にも手を付けていなくても、笑って新しい物に替えた。掃除もした。花も色んな種類を持ってきた。竜はきらきらしたものが好きよねと、魔法石を沢山持ってきて赤竜に見せたりもした。

「好きなものを見ると、元気が出るね」

 少女は笑って言ったが、竜にはよくわからない。偏見だと思った。

 ただ、少女がやって来る時間になると決まって、長い尻尾が、ひくひくと動いた。

 そして少女がくるくると動きまわっているのを見ると、ほんの少しだけ、痛みがやわらぐような気がした。気がまぎれるせいだろうか。

 ある日少女は、純白の花を持ってきた。とても珍しい花なのだそうだ。相変わらず聞いてもいないことをよく喋ったが、今日は少し気が高ぶっているようだった。

「これね、これ、止血の作用があるんですって!」

 そう言って、赤い竜からいまだ流れ続ける血を見つめた。

 血は地面を赤く染め、端の方は乾いて黒くなっている。慣れてしまっていたが、実際臭いはひどいものだろう。けれど少女は何も言わなかったし、表情にも出さなかった。ただ竜から離れた場所までた血だけを、綺麗に洗い流した。

「人間の魔力は受け取ってもらえないのよね? でもこれ、自然のものなの。動物たちだって、自然のものに頼ることがあるわ。私は近寄らないから、あなたこれを自分で傷口に塗って」

 少女は真剣だった。

 花を持つ手は、いつも白いのに、今日はとても汚れている。よく見れば、全身あちこち汚れていた。どこまで摘みに行ったのだろう。

「ね? いい子だから……」

 その真剣さで、赤竜は自身がだいぶ弱っていることを知った。

 傷口は腐り始めている。

 もうすぐ死ぬのだろう。

 生きてきた悠久の時を思えば、あっという間だ。待つ内にも入らない。

 けれど少女の瞳を見ると、何故か居心地が悪くなった。早くこの世からこの身が消えればいいと願うのに、この少女が視界に入ると、それが揺らぐ。

 人は残酷だ。

 千年前、闇の魔王の魔力にてられ暴れたのは、よく覚えていないが事実で。暴れた竜を、光の勇者が止めたことも、何もおかしいことではない。

 罪は重かったかもしれない。

 けれど、こんな残酷な罰があっていいものか。

 暗く冷たいこの場所に閉じ込め。やがてくる誰かに殺されよと。生きたしかばねになれなどと。

 少女も、やはり残酷だ。

 最後の仕上げとして、竜は自身をしょくざいとして死ななければならないのに。そしてそれがやっとかなうというのに。

 それなのに、生きろと言うなんて。

 泥だらけの手を見た。

 こんな少しの花。傷口にはまったく足りない。その花を受け取っても、死ぬことに変わりはないが、少女は喜ぶ。ならば受け取ってもいいのではないだろうか。

 いや、何故少女を喜ばせないといけない。

 赤竜は、本当に迷ってしまって、途方に暮れた。だから、

 ──独りにしてほしい。

 そう思って、少女を見た。

 動物魔法が得意な少女は、その想いを、しっかり感じ取ったらしい。

 そして、初めて会った時のように、顔をゆがめた。

「どうして独りがいいなんて言うの?」

 何日も見てきて、ようやくこの表情の正体を知る。

 泣きたいのを、こらえている。

 悲しいのだ。

 悲しくてたまらないのだ。悲しさを、怒りでなんとか抑え込んでいるのだ。

 ──なんで、悲しいんだ。

 思わず、そう伝えた。

 少女は、ルチアは、まるで胸に傷を受けた時のように悲痛な面持ちで、叫んだ。

「あなたがっ、悲しまないからよ!」

 花を握りしめる。幾枚かの白い花弁が、まるで涙みたいに手からこぼちた。

「ずっと独りで、こんな場所に閉じ込められて、戦いたくないのに戦って、怪我して、死んじゃうかもしれないのに……独りぼっちのまま、死んじゃうかもしれないのに……それなのに、あなたが平然としているから!」

 あれだけ相手を尊重して保っていた距離を、引いていた境界線を。

 一瞬で飛び越えて。

 少女は竜の胸の中に飛び込んだ。そして傷口に花を押し付ける。

「あなたが悲しまないから、私が悲しいのよ!」

 叫ぶ。

 竜は目を見開く。

 とっに牙をいた。視線は少女の首筋。

 それは千年も募らせた人間への不信のせいだった。条件反射といってよかった。

 少女のちっぽけな首など、ひとみでい千切れる。けれど、

 ──いやだ!

 千年の重さを。たった数日の己が否定した。

 竜の呼吸を、牙の鋭さを、少女はその肌に感じただろう。それでも首は飛ばなかった。

 すんでのところで、竜は自らの牙を止めたのだ。

 少女は目をきつく閉じたまま、しかし竜の傷口から決して手を離さなかった。手が、花が、竜の傷口から出た鮮血で、赤く染まっていく。

 少女の背中には、ちょうの羽のような赤い紋章が二枚、生えていた。赤眼の魔女が少女に施した結界が、発動しかかったのだ。

 恐らく竜の牙があともう少しだけ近かったら、その魔法で竜は死んでいただろう。

 赤竜は、そっと顔を上げた。

 何て自分は、愚かなのだろう。あと少しで死ねたのに。

 何て愚かな娘なのだろう。こんな死にぞこないの竜のために、命を賭けるなんて。

 そう思って、久しぶりに、本当に久しぶりに、竜はため息を吐いた。

 びくりと肩を震わせて、しかしそれで自身が生きていることを実感したようで。少女は恐る恐る顔を上げた。同時に赤の魔法が消え去る。

 少女は脈打つ傷口を見ながら、

「……ごめんなさい。嫌がっていたのに」

 謝った。

 今度はそっと、傷口に花が触れた。痛かった。勇者に斬られた時よりも。

 傷とは、こんなに痛いものだったろうか。

「私、あなたを独りで死なせたくなかったの。だけど一緒に死んであげることは出来なくて」

 鱗に額を押し付けて、

「だから、生きて」

 少女は願いを言葉にする。

 傷口から流れる血が、少し減った。

 それを見て、少女は歓声をあげる。

「ほら見て! 治まってきたわ。もう治癒魔法もだめって言わないわね? 待ってて、今手を洗ってくるから。あとであなたも綺麗にしてあげるからね」

 確かに指先がこんなに血で汚れてしまっては、魔法は正しく使えないだろう。少女はすっかりいつもの調子を取り戻し、元気よく外へ飛び出していく。

 傷口から、花がはらはらと剥がれ落ちた。また鮮血があふれてくる。赤い。

 赤竜は初めて自らの傷口をめた。

 温かな鉄の味が口内に広がる。まだ生きているのだなと思った。

 ──こんなことになるとは。

 まだ死への憧憬は存在する。

 生への執着も薄い。

 それでも、もう一度あの歌を聴きたかった。あの日以来、少女は一度も歌っていない。

 欲が出たことに、赤竜は驚いた。それではまるで生きたいと言っているようなものではないか。

 人間みたいに首を振って、竜は思考を追い払う。

 古跡の白壁を見上げた。

 部屋の中心、ちょうど入口の真上に、飛竜が描かれていた。少女が以前言っていた通りだ。

 あの竜は誰だろうか。

 長い尻尾と首、ずっしりとした手足と膜の張った巨大な翼。立派な角が二本生えている。

 自分によく似ているような気がした。いや、飛竜の姿などどれも似たようなものかもしれない。

 これらはいつ彫られたものだったか。

 そんなことを考えていた時。

「きゃあああああ!」

 少女の悲鳴が聞こえた。

 赤竜は立ち上がる。

 魔物の気配があった。

 何故?

 魔王のせいで、今まで古跡には近付かなかった魔物たちが、最近この辺りにまでうろついているのは感じていた。気配はあった。しかし竜がいるそばで争うようなことはしないはずだ。竜は静寂を望んでいて、《空間》はそれを受け入れていたのだから。

 そこまで魔王の影響力が強まっているというのか。

 ──いや違う。

 己の血のせいだ。少女にべったりと付着した強い血の臭いに釣られてやってきたのだ。

 強者つわものの血肉を、弱者は欲しがる。人が竜の鱗や角を欲しがったのと同じように。

 赤竜はあせった。

 少女に施されていた赤の魔法は、先ほどの発動で消えてしまった。

 このままでは少女が殺されてしまうかもしれない。助けにいかなければ。そう思う。しかし竜はこの部屋から出られなかった。

 封印されているのだから。千年もの間。

 光魔法が使役された。少女が戦っている。しかし魔物は凶暴化しているのだ。束になってかかられたら。

 少女は、ルチアは。

 血に染まった少女の姿が頭の中によぎった瞬間。

 赤竜は、古跡の正面をにらんだ。

 首を低くし、翼を広げ、そして。

 ──ルチア!

 思い切り、突っ込んだ。無情にも、竜の眼前に封印の紋章が浮かび上がる。

 それは黄金の紋様をしていて、光の勇者が施したものであることがよくわかる。一分の隙もない、完成された封印魔法。

 まるで赤子の手をひねるようにあっけなく、竜ははじばされた。すさまじい衝撃だった。反動で地面に叩きつけられる。けれど確かに、紋章が揺らぐ感覚があった。

 赤竜は無我夢中で、何度も何度も壁にぶつかる。狂ったように。しかしその度に弾き返された。鱗が砕け、中の肉に刺さる。

 何度目かの体当たりで、紋章に亀裂が走った。

 竜は、古跡中が震えるほどのほうこうを上げ、もう一度、挑みかかった。

 パリンッ!

 千年という時が味方したのだろうか。それとも、執念の結果か。とにかく、薄い硝子ガラスが割れる時のような音と共に、封印が粉々に砕けた。

 しかし赤竜は、封印が解けたことに感情が動かされたりはしなかった。何せ、ルチアのことしか頭になかったのだから。

 いろたいを、鮮血でさらに赤くしながら、竜は古跡の外に飛び出した。

 ルチアをすぐに見つけた。小川のそば。無数の魔物に囲まれている。木に背中を押し付けながらも、向かってきた魔物へ果敢に魔法を繰り出すが、どんどん距離を詰められていた。

 ──ルチア!

 竜は外に飛び出た勢いのまま、一体の魔物に噛みついた。そのまま振り回し、地面に叩きつける。向かってきた一体の魔物を足で踏みつぶし、噛みついて来たやつは首を振って引き剥がした。

 近くにいた魔物たちを、尻尾ではらい、そして、もう一度力の限り、吠えた。

 ビリビリと。

 森中が揺さぶられるような音だった。

 残された魔物たちはそこでようやく勝てる相手ではないことを理解したらしい。いっせいに竜に背を向け、逃亡を始めた。

 追いはしなかったが、その背に向かって、竜は最後にもう一度唸り声をあげる。これでもう古跡に近付いたりしないだろう。

「竜さん……」

 ルチアの声がした。

 竜は振り返る。近付こうとした、しかし。

「竜さん!」

 翼が思うように羽ばたかず、赤竜は地面に墜落した。すなぼこりが立つ。

 全身から命が溶け出すのを感じた。

 ルチアが走り寄って来た。竜の鼻先にすがりつく。

「ごめんね、ごめんね」

 涙を流しながら、指先に魔力を灯す。夕日みたいな優しい魔力に、赤竜は何故だか安心した。

 しかしもう、治癒魔法では追い付かないほど、命が流れ出していた。傷口が開きすぎていた。

 ──もう一度歌ってほしい。

 竜はお願いしてみた。

 泣きじゃくる少女には、酷なお願いだろうか。案の定、少女は首を横にふった。

「いやよ……歌ったら、あなた、心残りなく死のうとするでしょ」

 そう言って、必死に魔法をかけ続けた。

 何てひどいのだろう。さいのお願いも聞いてくれないなんて。

 けれどその手はやっぱり優しく。おまけに温かい。

 気付かないうちに、竜自身も、死にあらがっていた。何度も何度も、優しい光が竜の中に流れ込んでくる。その力に、たった一筋の光に、死なないように寄り添った。

 そんなぎわの応酬が続いていた時、

「ピューイ!」

 若葉色のせんこうが過った。

 その正体は、黄緑色の小鳥であった。ルチアを見つけると、竜を恐れた様子もなく、嬉しそうに近寄って来た。小枝みたいな足に小瓶がくくけられており、中にはすいいろの液体が揺らめいていた。

「ピート! お願い、今すぐ師匠を呼んで来て! 私だけじゃだめなのよ!」

 ルチアが小鳥に向かって叫ぶ。

「ピピッ!」

 しかし小鳥はそばを離れなかった。ルチアの髪を引っ張って、必死に何かを訴えている。

「事情を説明してる暇はな……え? どうしてそれを早く言わないのよ!」

 ルチアは治癒魔法を中断すると、ピートの足に括り付けられた紐を解き、小瓶を受け取った。そして一緒に付けられていた名札を確認する間もなく、足元に落ちていた手拭いに中身を浸すと、傷口に、勇者に斬られたもっとも深い傷にそっと布をあてた。

 しばらく、心臓の鼓動が聞こえそうなほどの静けさが訪れた。

 ふと、身体が軽くなった。

 不思議に思って、竜は首をもたげる。

 ルチアがそれに気づき、恐る恐る布を外すと、

「傷……」

 血は、もう流れていなかった。

「ふさがってる……」

 放心状態で、ルチアがつぶやいた。

 次の瞬間、少女はわっと泣き出した。

 竜の首に縋りつき、小さな子供のように泣きじゃくる。えつを漏らしながら、よかったと何度も口にした。

 竜も甘えたようにその小さな背中に顎を乗せる。

 触れた涙が熱くて、死ねなかった赤竜もまた、泣きそうになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る