死にたい竜と少女の物語_2
「こんにちは、竜さん」
次の日、少女はやってきた。
「遅くなってごめんね。お店の方が忙しかったから。具合はどう? って、よくないよね。せめて血が止まればいいのだけど」
絶妙な距離を保ちつつ、一人で
それらを地面に下ろして、少女はすり足でゆっくりと竜に近付いた。
「傷が沢山あるのね。深い傷はその胸のところだけかしら。少しだけ、診せてくれないかな?」
近付いて来た少女に、竜は唸り声をあげて威嚇した。少女は止まった。
「私の治癒魔法ね、あんまり上手じゃないんだけど、でも何もないよりは少し楽になると思うの」
そう言って、指先に魔力を
人間の表情よりも、赤竜にとっては魔力の方がよほどわかりやすかった。少女は本気で治そうと思っているのだ。
しかし、そうする理由が、竜にはわからない。
「怖がらせてごめんなさい。けど、このままじゃ痛いままだわ」
少女には、彼女に危害を加えようとすると発動する、赤の魔法がかけられていた。赤眼の魔女は突き放すような言い方をしていたが、一応は弟子の身を案じているらしい。
だが少女は竜を恐れているようだから、きっとそんな魔法が自身にかかっていることは知らないのだろう。
少女はじりじりと赤竜の様子を
帰るのだろうか。
赤竜は長い首を、丸めた胴体の上に横たえた。
竜の生命力は強く、血が流れ出るそばから、
けれど勇者が装備した剣はひどく鋭利で、傷口はふさがる気配を見せない。硬い鱗も割れてしまった。恐らく、対大型の魔物用に作られた、特別な剣だったのだろう。赤竜はずっと寝ていたせいで食事もろくにしていなかったし、《空間》の生命力をもらうだけでは傷口をふさぐには足りない。
さらに、作られる血より、流れ出る血の方が、ほんの少しだけ多かった。
だからその内死ぬのだ。
竜は夢など見ないのだから、眠っているのも死んでいるのも、大して変わらない。
少女は帰らなかった。
何故か、三角にした布で口元を覆い、縄の付いた棒で、一心に地面を擦っている。どこから
赤竜が目を開けて、少女の動向を窺っていると、少女がこちらに気付いた。
布を細い指でずらし、口元の笑みを見せる。
「こんな薄暗くて汚れた場所で寝ているから気が
謎だった。
しかし少女はよく働いた。
飛んだ血を水で流し、届く範囲の壁も磨いていく。それは竜にとってはずいぶん低いものではあったけれど、
「今度みんなに手伝ってもらって、高い場所も磨こうかしら」
驚くほどに、壁は白い。
そう、ずっと昔は、こんな色をしていた。
「ここに彫られた画は、どんな物語なんでしょうね。あら見て、動物も沢山描かれているわ」
少女は楽しそうだった。
「そういえば名前は何ていうの? 竜さんって呼んでいていいのかしら。いいわよね。伝わるんだもの。でもちゃんと名前があるなら教えてほしいわ。私はね、ルチアっていうのよ。言ったかしら? 言ってないわよね。ごめんなさい。私ったら名乗りもしないで。これじゃ怪しい人だと思われても仕方ないわ。このそばの町に住んでいるの。魔法石屋で働いて……。まだ見習いなんだけど……」
お喋りは延々と続いた。
こうして赤竜は、少女が朝何時に起きるか、好きな食べ物は何か、彼女の師匠が怒らせるとどれだけ恐ろしいかなど、かなりどうでもいい情報を知るはめになった。
もちろん竜は
そうこうしているうちに、赤竜の周辺以外は、ぴかぴかになっていた。
「さ、綺麗になったわ。もっと風通しがいいといいのにね。あなたもそう思わない?」
とにかく一人で喋り続けながら、少女は籠の中から乾燥した肉や干した果実などを、まるで魔法のように次々と取り出してみせた。
「竜って何を食べるのかしら。友達に聞いてみても、みんな知らないっていうの。だから色々持ってきてみたわ。ここに置いておくから、好きなものを食べてね。あ、師匠には内緒よ? また勝手に持ち出してって、怒られるから」
次に淡い紫色をした花の束を取り出した。
「これ、人間には
花を竜の周りに
赤竜は少女の姿が見えなくなると、そっと花に鼻を近づけた。花の香りを嗅ぐなど、いつぶりだろう。
すっと鼻に溶け込むような、さわやかな甘い香りがした。
その時気配がして、慌てて顔を元の位置に戻す。
しかし少女が戻って来たわけではなかった。
何だろう。
目を細めて周囲を窺っている内に、本当に少女が戻って来る。
そして、満足気に笑う。
「それじゃあ、あんまり暗くなると師匠に怒られるから、今日は帰るね。今度はあなたの周りも、出来たらあなた自身も綺麗にさせてね」
次は何をするのかと見守っていたら、少女はあっさりと帰っていった。
赤竜は、
*
次の日、少女は数えきれないほどの鳥たちを連れてやって来た。これが彼女の言うところの、〝みんな〟ということらしい。
少女と同様にお喋りの鳥たちは、ぴーちくぱーちく好き勝手鳴いては、赤竜の眠りを妨げる。それはもう、祭りのような大騒ぎだった。
「おはよう、竜さん。今日はみんなに手伝ってもらって、この場所を全部綺麗にしようと思うの」
パンパン。少女が手を
その手に魔力が宿る。
「ほら、みんな、もう少し静かにしてちょうだい。
彼らはいっせいに動き出した。少女の頼んだ通りに。鳥が掃除を手伝う、まるでお
どうやらこの少女は、動物魔法が使えるらしい。文字通り動物を使役するこの魔法は、普通の魔法とは違い、相互関係の上に成り立つものである。
鳥とはよく喋る生き物だ。赤竜は話すことは出来ないが、人間の言葉を理解するのと同様に、鳥の言葉も理解した。
『ルチア、竜に近付くなんてあぶないよ』『石鹸が口に入った!』『でもルチア楽しそう』『ルチアはいつも楽しそうだよ』『ルチアが楽しいならわたしたちもうれしい』『ほこりが目に入った!』
彼らは楽しげに働いた。
時折ふざけて、少女の長い髪を
「にぎやかで、楽しいね」
少女はといえば、これもまた踊るようにくるくると働いている。動物を使役して自身は休む、という発想は頭にないらしい。
赤竜には不思議な光景だった。別世界と言っていい。しかし遥か昔、同じような光景を見たような気もする。どこで見たのだろうか。思い出せない。それとも本当に、そんな気がするだけだろうか。あまりにも長く生き過ぎて、頭がぼんやりしてしまったに違いない。
気付けば、古跡は綺麗になっていた。
ルチアは満足気に腰に手をあて、部屋を見わたす。
「みんなありがとう。こんなに綺麗になるなんて、あなたたちって本当に優秀だわ」
『そうでしょう!』
鳥たちがいっせいに答える。
「明日また店に来てね。お礼にとっておきの朝ご飯を用意しておくから」
『やったー』『ルチアありがとう』『約束ねルチア』
「気を付けて帰るのよ」
鳥たちは口々にさえずりながら、帰って行った。
少女は大きく伸びをして、磨かれた壁を見上げた。
しばらくそうして、
「あ、あそこにあなたが描かれているわ」
その言葉は、ほんの少し気にはなったが、少女の言う通りにするのは
確かに周囲は見違えるように清潔になったが、彼らが勝手にやったことだ。自分には関係ない。竜はそっぽを向いた。
「ねえあなた、砂糖菓子は好き?」
話題は目まぐるしく変わっていく。少女は
「甘いものは身体を元気にするのよ。私の秘密の友達がそう言っていたわ。彼はジャムを紅茶に入れるのが好きみたいだけど……」
そのひとつを自らの口に入れ、少女は笑う。
「竜さんも、おひとついかが?」
菓子を差し出そうとする少女を、無視する。少女は気を悪くした様子もなく、もうひとつ自身の口に入れた。
「そうだわ、あなた、彼にちょっと似てるわね」
彼とは一体誰だろうか。
何かを思い出したらしく、少女はひとりで笑っている。そしてこちらを見た。
「じゃあ、あなたも、きっと優しいんだわ。何でもない風をして、私の話、ずっと聞いてくれているものね」
思わず目を見開いてしまった。それを見て、少女はまた笑う。
ここは静かな場所なのだから、いやでも少女の声は耳に入ったし、見知らぬ人間の前で眠るほど鈍感ではない。
ただそれだけだ。
赤竜は知らず心中でそう言い訳をして、また目を細めた。
「彼は私が歌うのを好きだと言ったわ。あなたも気に入ってくれないかしら」
そう言うと、少女は目を閉じて歌い出した。ゆったりした旋律だった。そのせいか声が綺麗に伸びて、空洞に心地よく響く。忘れてしまった母の子守歌のような。
何より少女の声はハープの音色みたいにやわらかかった。鱗を何かが
死ぬ瞬間まで聴いていたい。
ふとそんな
いつしか赤竜は、瞼を落としていた。
だから、
「おやすみ」
少女がそう言ったのも、聞こえなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます