鏡の向こうの最果て図書館/第3弾『蒼空はるかな最果て図書館』3月10日発売!
冬月いろり/電撃文庫/電撃文庫・電撃の新文芸
鏡の向こうの最果て図書館 ――小さなお伽噺たち
死にたい竜と少女の物語_1
冷えた《空間》だった。
元は
長い時を生きる赤き竜でさえも、古い物語として認識しているのだから、本当に途方もなく昔の話だ。
当時はさぞ立派だったであろう。
けれど今は薄汚れ。おまけに冷たい。
少なからずその経過を見てきた竜に言わせれば、栄光などたいしたものではなかった。目の前の人間たちは、それを知っているだろうか。
赤竜は息を吐き出した。その息もまた、ひどく冷たい。おまけに愚かだ。
「すまないね」
少年はそう
この少年が、今度の勇者らしい。その三歩後ろにいる、水を操る少女は、仲間の
とても強かった。竜はかろうじて外れた急所から流れる己の赤い血を眺めながら、しみじみと思った。急所ではないが、傷は深い。
「けど、僕たちは強くならないといけないんだ」
息荒く、少年が言う。
魔王が現れたのは知っていた。赤竜の住む白妙の森が、ある時から灰色に陰り、魔物たちは落ち着きがなくなった。赤竜がいるこの古跡まではさすがにやっては来なかったが、それでも
勇者が現れたのは知らなかった。だが、魔王が現れれば、当然勇者も現れるだろう。
勇者が現れれば、自分を、白妙の森に封印されしこの赤き竜を倒しに来ることもまた、必然と言えた。
眼前の少年が言う通りなのだ。勇者が魔王を倒すためには強くならなければならず、強くなるためには、強き者と戦わなくてはならない。
そしてそのために、自分はここにいる。
竜は自身の存在意義をよく理解していた。けれど己が強いかはよくわからなかった。少なくとも、町に住む
「行こう、アリア」
気付けば、少年少女は古跡を後にしようとしていた。出来ればとどめを刺していってほしいものだが、負けた立場からすればそれは
どうせ放っておけばそのうち死ぬ。手に余るほどの生命力も、流れ出てしまえば終わりだ。
竜とは気高き生き物。赤竜もそうだった。神に命乞いなどするはずもなく。
残り短い時間を穏やかに過ごそうと、静かに目を閉じた。
*
勇者たちが去って、あまり時間を置かず、またもや古跡に人間がやってきた。
赤竜は死を受け入れたのだから、警戒はしない。けれど、
新たに来た人間たちが、騒がしかったからだ。まだ赤竜の視界に入っていないにもかかわらず、その声は洞の中にこだまして、よく響いた。
どうやらまた、二人組だ。
「ししょー、もう帰りましょうよー。白妙の森は危険だから入っちゃいけないって、師匠が言ったんですよ。他でもない、師匠が!」
情けない声が聞こえた。その声に返すのは、しゃがれた、しかし威厳のある声。
「うるさい娘だねまったく! 私がいるんだから危ないもくそもあるもんか」
「ひぃっ、今なんか怖い音がした気がします!」
「腹の虫でも鳴いたんだろう」
「私のお
「いいから早く来な!」
警戒心のない応酬が続く。
古跡のちょうど中心にうずくまっていた竜は、入って来たひとりの人間と目が合った。
赤眼の魔女だ。
竜は女を観察した。白い髪、派手なローブと、
同時に相手も、こちらをよく観察しているようだった。
「ルチア、良いものがあるよ。早くおいで」
「はーい…………って、え?」
後に続いて入って来たのは、少女だった。
赤い髪と、
赤竜を見て、少女は完全に固まってしまっている。無理もない。竜は大きくて、少女は小さいのだから。
次の瞬間、ルチアと呼ばれた少女は悲鳴を上げて、自身が信ずるもっとも安全な場所、つまり師匠の後ろに隠れた。
「ししししししししょう!」
「落ち着け、馬鹿者」
「こここここのお方は、あのっ、白妙の森に封印されているという、あのっ、りゅりゅりゅ竜でしょうか……!?」
「そうだろうねえ」
少女から感じられるのは純粋な恐怖だった。
ひとつ
竜は、人間たちの様子をぼんやりと見守り続けた。
すると、恐怖に何も出来ないと思っていた少女が、ふと
どうしたのだろう。
「師匠、この子、
そう言って、恐々と師匠の背中から出てきて、竜に近付いた。
人間に触れられたくない。竜は威嚇の意を込めて、鼻口部に
少女は目を見開いて、それ以上近付かなかったが、師匠の背中に戻りもしなかった。
何を考えているのだろう。
「たしか勇者たちが、この町に来ていたね。魔法船に乗って」
魔女が言った。
「はい。昨日、店に顔を出してくれましたよ」
「この竜の
「うわさ……」
「赤き竜は悪さをした。光の勇者と戦い、敗れ、そして封印された。彼は役目を与えられた。いずれ現れる英雄たちが戦いを挑んだら、戦わなくてはならないという役目を。お前さんもはじまりの町に住んでいるんだから、話くらいは知っているだろう?」
そう、たったそれだけのために、赤き竜は存在した。だからこれまで悠遠の時を眠って過ごした。
こうして時の流れを身に感じたのはずいぶん久しぶりだ。
「えっ、じゃあこの傷って……」
「勇者にやられたんだろう」
その時少女は、竜には理解出来ない表情をした。
本当に、何を考えているのだろう。
言葉は理解したし、
竜は孤高の生き物だ。人間とはおろか、竜同士でさえ群れたりしない。もっとも、群れるほど竜が現存しているかは知らないが。
少女の心がわからないのは、そのせいかもしれない。特に残念とも思わなかった。
「こいつは放っておいてもいずれ死ぬ。竜の
魔女の声が楽しそうにはずむ。こっちの方がずいぶんわかりやすかった。少なくとも、彼女が話す内容は赤竜にもよく理解出来た。
「え、ちょっと、師匠、何してるんですか」
「何って、決まっているだろう。多少臭うが、角は血が通っている内に折らないと……」
赤竜は
しかしこの魔女は恐らく相当強い。瀕死の竜が抵抗したところで、痛くもかゆくもないだろう。
それでも、と。竜は顔を上げた。
そこに、
「だ、だめです!」
少女が割って入った。
竜を
「だめなことがあるものか。人が殺したんだ。だったら人が最後まで責任を持つべきだ」
「殺してません!」
「ほう?」
「だって、まだ死んでませんから!」
魔女はため息を
「ルチア、よく見な。確かに竜の生命力は人間とは桁違いだ。こんな傷を負っていても、まだ生きているさ。だけど、これから死ぬことに変わりはない。そういうことは、むしろお前さんのほうがよくわかっているんじゃないのかい?」
「死にません! 私が、死なせません!」
赤竜は驚いた。振り向いた少女が、怒っているように見えたからだ。
何に対して怒っているのだろう。
「私たちに何が出来る? 私たちが治癒魔法をかけたところで、その竜は治りきらないし、そもそも魔法を受け入れないだろう。竜は人間の施しは受け取らない」
「だけど……」
「それに万が一治っても、その竜はまたここで眠り、いずれ誰かと戦わなくてはならない。時には死が救いになることもある」
少女が
「それでも! ここで死んだ方がいいなんて思いません! 私は、見捨てません!」
赤竜を見て
傷口の鈍い痛みも忘れて、竜は
見捨てない?
会って間もない、恐怖の対象である竜を?
何て、何て自分勝手なんだろう。
赤竜は怒りに震えようとした。少女を傲慢だと思おうとした。
人間は全て自分勝手だ。他者の命が、すべからく自分の手中にあると思うだなんて。死ぬことを恐れていないものを、勝手に
牙は少女に届いたはずだ。魔女に邪魔されて死ぬことになっても、怖くはない。
けれど、出来なかった。
少女の瞳があまりにも真っ直ぐだったからだ。真っ直ぐに、自分を見ていたからだ。まるで視線だけで対象を石に変えてしまうという怪物みたいに、竜は動けなくなってしまった。
すると、魔女は高笑いした。
「いいだろうルチア。この竜はお前さんにあげよう。好きにするといい」
「師匠……」
「ただし、
いいね?
魔女が念を押す。
さすがに竜が聞いても、あんまりだと思った。ひどい言い様だ。しかし、
「ししょー、ありがとうございます!」
少女は
魔女は少女の好きにさせながら、赤き竜に視線を向けた。
そして、にんまりと笑った。
赤竜はもうわけがわからなかった。本当に人間とはよくわからない。
ただこう思った。
──静かに死ぬことも出来ないなんて!
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