鏡の向こうの最果て図書館/第3弾『蒼空はるかな最果て図書館』3月10日発売!

冬月いろり/電撃文庫/電撃文庫・電撃の新文芸

鏡の向こうの最果て図書館 ――小さなお伽噺たち

死にたい竜と少女の物語_1

 冷えた《空間》だった。

 しろたえの森の中心に、剣山みたいに鋭くて、固まった樹液のように白く濁った古跡がある。中は空洞で、壁一面に彫り込まれた大量の画だけが、かつて人が触れたことを示していた。

 元ははるか昔、巨大な生物が脱ぎ捨てた皮であったとか。

 長い時を生きる赤き竜でさえも、古い物語として認識しているのだから、本当に途方もなく昔の話だ。

 当時はさぞ立派だったであろう。

 けれど今は薄汚れ。おまけに冷たい。

 少なからずその経過を見てきた竜に言わせれば、栄光などたいしたものではなかった。目の前の人間たちは、それを知っているだろうか。

 赤竜は息を吐き出した。その息もまた、ひどく冷たい。おまけに愚かだ。

「すまないね」

 少年はそうびた。

 この少年が、今度の勇者らしい。その三歩後ろにいる、水を操る少女は、仲間のどうか。

 とても強かった。竜はかろうじて外れた急所から流れる己の赤い血を眺めながら、しみじみと思った。急所ではないが、傷は深い。

「けど、僕たちは強くならないといけないんだ」

 息荒く、少年が言う。

 魔王が現れたのは知っていた。赤竜の住む白妙の森が、ある時から灰色に陰り、魔物たちは落ち着きがなくなった。赤竜がいるこの古跡まではさすがにやっては来なかったが、それでもすさんだ気配は時々感じる。

 勇者が現れたのは知らなかった。だが、魔王が現れれば、当然勇者も現れるだろう。

 勇者が現れれば、自分を、白妙の森に封印されしこの赤き竜を倒しに来ることもまた、必然と言えた。

 眼前の少年が言う通りなのだ。勇者が魔王を倒すためには強くならなければならず、強くなるためには、強き者と戦わなくてはならない。

 そしてそのために、自分はここにいる。

 竜は自身の存在意義をよく理解していた。けれど己が強いかはよくわからなかった。少なくとも、町に住むたぐいの人間よりは、強いのだろうけれど。

「行こう、アリア」

 気付けば、少年少女は古跡を後にしようとしていた。出来ればとどめを刺していってほしいものだが、負けた立場からすればそれはぜいたくというものだろう。殺す、というのは、結構疲れるものだ。とりわけ感情を多く持つ人間という生き物には、なおさらそうかもしれない。

 どうせ放っておけばそのうち死ぬ。手に余るほどの生命力も、流れ出てしまえば終わりだ。

 竜とは気高き生き物。赤竜もそうだった。神に命乞いなどするはずもなく。

 残り短い時間を穏やかに過ごそうと、静かに目を閉じた。


 *


 勇者たちが去って、あまり時間を置かず、またもや古跡に人間がやってきた。

 赤竜は死を受け入れたのだから、警戒はしない。けれど、いらちはした。

 新たに来た人間たちが、騒がしかったからだ。まだ赤竜の視界に入っていないにもかかわらず、その声は洞の中にこだまして、よく響いた。

 どうやらまた、二人組だ。

「ししょー、もう帰りましょうよー。白妙の森は危険だから入っちゃいけないって、師匠が言ったんですよ。他でもない、師匠が!」

 情けない声が聞こえた。その声に返すのは、しゃがれた、しかし威厳のある声。

「うるさい娘だねまったく! 私がいるんだから危ないもくそもあるもんか」

「ひぃっ、今なんか怖い音がした気がします!」

「腹の虫でも鳴いたんだろう」

「私のおなかはもっと謙虚に鳴りますー!」

「いいから早く来な!」

 警戒心のない応酬が続く。

 古跡のちょうど中心にうずくまっていた竜は、入って来たひとりの人間と目が合った。

 赤眼の魔女だ。

 竜は女を観察した。白い髪、派手なローブと、薔薇ばらをあしらった三角帽子。人間以外の血も混じっている。魔法の色は真紅。魔法の正体は、恐らく時だ。見た目以上に生きているだろう。

 同時に相手も、こちらをよく観察しているようだった。ひんとはいえ、竜を目の前にして笑っていられるのだから、中々肝が据わった魔女だ。

「ルチア、良いものがあるよ。早くおいで」

「はーい…………って、え?」

 後に続いて入って来たのは、少女だった。

 赤い髪と、またたく黄金の瞳。こちらも魔女のようだが、ずいぶん弱い。二人の会話からして、おそらく赤眼の魔女の弟子だろう。魔法の色に、赤が混じっていることからもそれがわかる。魔法の正体は、光か。しかし容赦なく照る日中の光ではなく、どこか寂しい、去り際の夕日みたいな色だ。

 赤竜を見て、少女は完全に固まってしまっている。無理もない。竜は大きくて、少女は小さいのだから。

 次の瞬間、ルチアと呼ばれた少女は悲鳴を上げて、自身が信ずるもっとも安全な場所、つまり師匠の後ろに隠れた。

「ししししししししょう!」

「落ち着け、馬鹿者」

「こここここのお方は、あのっ、白妙の森に封印されているという、あのっ、りゅりゅりゅ竜でしょうか……!?」

「そうだろうねえ」

 少女から感じられるのは純粋な恐怖だった。

 ひとつうなり声でも上げればおびえて去ってはくれないだろうか。いや、師匠が許さないだろう。

 竜は、人間たちの様子をぼんやりと見守り続けた。

 すると、恐怖に何も出来ないと思っていた少女が、ふとんだ。

 どうしたのだろう。

「師匠、この子、してますよ」

 そう言って、恐々と師匠の背中から出てきて、竜に近付いた。

 人間に触れられたくない。竜は威嚇の意を込めて、鼻口部にしわを寄せ、牙を見せた。

 少女は目を見開いて、それ以上近付かなかったが、師匠の背中に戻りもしなかった。

 何を考えているのだろう。

「たしか勇者たちが、この町に来ていたね。魔法船に乗って」

 魔女が言った。

「はい。昨日、店に顔を出してくれましたよ」

「この竜のうわさをどこかで聞いて来たようだ」

「うわさ……」

「赤き竜は悪さをした。光の勇者と戦い、敗れ、そして封印された。彼は役目を与えられた。いずれ現れる英雄たちが戦いを挑んだら、戦わなくてはならないという役目を。お前さんもはじまりの町に住んでいるんだから、話くらいは知っているだろう?」

 そう、たったそれだけのために、赤き竜は存在した。だからこれまで悠遠の時を眠って過ごした。

 こうして時の流れを身に感じたのはずいぶん久しぶりだ。

「えっ、じゃあこの傷って……」

「勇者にやられたんだろう」

 その時少女は、竜には理解出来ない表情をした。したまぶたがひくつき、眉間が狭くなる。口を引き結び、音が出るのを我慢しているようだった。そして何より、瞳が揺らいだ。

 本当に、何を考えているのだろう。

 言葉は理解したし、まとっている魔力の正体を見ることは出来た。しかし、人間の表情の変化は、赤竜には難しかった。

 竜は孤高の生き物だ。人間とはおろか、竜同士でさえ群れたりしない。もっとも、群れるほど竜が現存しているかは知らないが。

 少女の心がわからないのは、そのせいかもしれない。特に残念とも思わなかった。

「こいつは放っておいてもいずれ死ぬ。竜のうろこは高く売れるし、角はいいつえの材料になる。肉はー……古いから、食べない方がいいかね」

 魔女の声が楽しそうにはずむ。こっちの方がずいぶんわかりやすかった。少なくとも、彼女が話す内容は赤竜にもよく理解出来た。

「え、ちょっと、師匠、何してるんですか」

「何って、決まっているだろう。多少臭うが、角は血が通っている内に折らないと……」

 赤竜はとがめた。死んでからなら好きなようにすればいいが、生きている内にそんな無礼を許したくはない。

 しかしこの魔女は恐らく相当強い。瀕死の竜が抵抗したところで、痛くもかゆくもないだろう。

 それでも、と。竜は顔を上げた。

 そこに、

「だ、だめです!」

 少女が割って入った。

 竜をかばうように、自らの師匠に向かって両手を広げる。

「だめなことがあるものか。人が殺したんだ。だったら人が最後まで責任を持つべきだ」

「殺してません!」

「ほう?」

「だって、まだ死んでませんから!」

 魔女はため息をいた。腹を立てた様子はない。

「ルチア、よく見な。確かに竜の生命力は人間とは桁違いだ。こんな傷を負っていても、まだ生きているさ。だけど、これから死ぬことに変わりはない。そういうことは、むしろお前さんのほうがよくわかっているんじゃないのかい?」

「死にません! 私が、死なせません!」

 赤竜は驚いた。振り向いた少女が、怒っているように見えたからだ。

 何故なぜ怒っているのだろう。

 何に対して怒っているのだろう。

「私たちに何が出来る? 私たちが治癒魔法をかけたところで、その竜は治りきらないし、そもそも魔法を受け入れないだろう。竜は人間の施しは受け取らない」

「だけど……」

「それに万が一治っても、その竜はまたここで眠り、いずれ誰かと戦わなくてはならない。時には死が救いになることもある」

 少女がえた。

「それでも! ここで死んだ方がいいなんて思いません! 私は、見捨てません!」

 赤竜を見てぐ。そう言い放った。

 傷口の鈍い痛みも忘れて、竜はぜんとした。この少女が言ったことがすぐに理解出来なかった。

 見捨てない?

 会って間もない、恐怖の対象である竜を?

 何て、何て自分勝手なんだろう。

 赤竜は怒りに震えようとした。少女を傲慢だと思おうとした。

 人間は全て自分勝手だ。他者の命が、すべからく自分の手中にあると思うだなんて。死ぬことを恐れていないものを、勝手にあわれむなんて。

 牙は少女に届いたはずだ。魔女に邪魔されて死ぬことになっても、怖くはない。

 けれど、出来なかった。

 少女の瞳があまりにも真っ直ぐだったからだ。真っ直ぐに、自分を見ていたからだ。まるで視線だけで対象を石に変えてしまうという怪物みたいに、竜は動けなくなってしまった。

 すると、魔女は高笑いした。

「いいだろうルチア。この竜はお前さんにあげよう。好きにするといい」

「師匠……」

「ただし、ころされても文句は言うな。あと、こいつが死んでも私に泣きつくんじゃあないよ」

 いいね?

 魔女が念を押す。

 さすがに竜が聞いても、あんまりだと思った。ひどい言い様だ。しかし、

「ししょー、ありがとうございます!」

 少女はうれしそうに魔女の首に抱きついた。

 魔女は少女の好きにさせながら、赤き竜に視線を向けた。

 そして、にんまりと笑った。

 赤竜はもうわけがわからなかった。本当に人間とはよくわからない。

 ただこう思った。

 ──静かに死ぬことも出来ないなんて!

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