37話

 さっきまで曇っていたはずなのに、何の悪戯か、急に太陽が雲間から顔を出した。

 

 夕暮れの煌めきに照らされた奈留の黒い髪が映える。その光景は、1ヵ月前の『告白』の時を想起させた。

 

 ただ、あの時と違うのは、俺がカジュアルすぎる私服姿で。

 

 奈留は頬を染めるでも、目尻を濡らしているわけでもなく、思わず後退りしてしまいそうなほど妖しげな笑顔を浮かべている事。

 

 そして――

 

「奈留、その、前髪……」

「うん、幸也くんがこっち・・・の方が可愛いって言ってくれたから、思い切って、ね」


 眉の辺りで短くも綺麗に切り揃えられた前髪が、奈留の笑顔を一層素敵に輝かせていた。

 

 きっと今日、教室の男子たちの視線を釘付けにしたことだろう。

 

 もし部屋に籠らずいつものように学校に行けば、どの生徒よりも先に奈留の姿を見れたと考えると。

 

 あまりにも、悔しい。

 

 俺が気持ちの悪い独占欲に身を焦がしていると、奈留がムスッとしながら口を開く。

 

「……彼氏としての感想は、もらえないのかな?」

「え、あ、その――世界で一番、可愛い、です」


 大げさでなく本心からの言葉だが、ありきたり過ぎてきちんと伝わっているか心配だった。

 

 しかし奈留の笑顔が少し柔らかくなった気がして、ちょっとだけホッとする。

 

 とはいえ今の俺は安堵してる場合では無い、今こそ奈留が『勘違い』していることを訂正しなければならないのだから。

 

「奈留、その、彼氏のことなんだが……」

「幸也くんが私の告白、罰ゲームだと思ってたって話?」

「――! も、もう知ってたのか?」

「花ちゃん達から聞いたの、むしろここまで来るまでに、そのこと花ちゃん達から聞かなかったの?」


 もしかしたら言ってたのかもしれないけど、死と隣り合わせの恐怖でそれどころではなかった。

 

 でもそれなら、話は簡単だ。

 

「ならわかってくれるよな? 俺は、奈留の彼氏に相応しい男じゃないんだ、だから――」

「ダメです」

「え」

その程度・・・・のことで私と別れようなんて、絶対許しません」


 せっかく柔らかくなった奈留の笑顔がまた強張り出した気がする。こわい。

 

「でも、俺は奈留の好意を踏み躙って、傷つけたんだ、許されるはずないだろう?」

「まぁあの告白を幸也くんが真剣に捉えてくれなかったことはちょっと悲しいけど……でも、それだけのことでしょ?」

「それだけって――」


 どうして奈留は、それこそ些事だとでも言わんとばかりに、俺の覚悟を切り捨てていくのだろう。

 

「正直ちょっぴり傷ついたし……嘘、すごく落ち込んだけど、でもね――」


 そう言うと奈留は、俺に背を向け少しづつ離れていく、何やら考え込んでいるようだ。

 

 しかし10歩ほど歩いたところで、振り返る。

 

「幸也くんが、私のこと好きなら、それで良いかなって、思うんだ」


 先ほどまでとは違う、何かを吹っ切ったような、爽やかな笑顔で、奈留が呟いた。

 

「幸也くん、私の事、嫌い?」

「……そんなわけ、ないだろ、俺は、奈留のことが――」


 しまった、つい本音が口を出そうになってしまう。

 

 ここは心を鬼にしてでも、奈留に嫌われるように振舞うべき場面のはずだ。

 

 それが、奈留の為だ。

 

 1歩づつこちらに戻ってくる奈留に、心を押し殺して想いを伝えていく。

 

「俺は――奈留の隣を歩く資格なんてないんだ、根暗で、陰キャで――」

「私、幸也くんの物静かで、他の男の子みたいに賑やか過ぎないところを、好きになったんだよ?」

「っ! お、俺とこれ以上付き合ったって楽しくないと思うぞ? 俺は、気の利いたことの1つも言えない――」

「お喋りなんてしなくても、手を繋いで、時々目が合った時に笑って、そんなところも楽しかったよ」

「な、奈留がせっかく作ってくれたお弁当、不味いとか言うような男だぞ?」

「あれは実際美味しくなかったし、私が全面的に悪いし……というか、早く忘れてください」


 いえ、申し訳ないけど10年は無理です。

 

「そ、そうだ! 試験勉強中、俺ずっと奈留の脚チラチラ見てたし! 俺にはそういう、下心があって――」

「知ってる、幸也くんが思いの外スケベで、ちょっと面食らったけど、でも、男の子なら普通の事でしょ?」


 バレてたのかよ、やばい、顔から火が出そう。

 

「そ、それ以外にも! 奈留がまだ知らない、俺の醜いところはたくさんあるんだ! だから――」

「……ねぇ、幸也くん」


 奈留が一瞬歩みを止めたが、困ったように目を伏せ、また1歩こちらに足を踏み出した。

 

「幸也くん、私にすっごい頭の良い、優秀な兄さんが居ること、知ってる?」

「――は?」


 何の、話だ?

 

「今は東京の大学に通ってるんから家に居ないんだけどね、私、それがすごいコンプレックスで……まぁそれだけが原因じゃないんだけど、中学生の時の私、結構悪い子・・・だったの」

「な、奈留が悪い子?」


 この、清楚が服を着て歩いているような女の子が、悪い子? 何の冗談だというのだ。

 

「そのせいでお母さんは過保護になっちゃうし、高校に上がっても最初の内は友達も出来ないしで大変だったんだよ?」

「さ、流石に冗談だよな? だってゲームセンターすら行った事無いって言ってたじゃないか」

「別に夜遊びに更け込んでたわけじゃないし、興味はあったけど、1人で行くの、寂しそうだったし」


 そう言うと、奈留は一層視線を下げてしまう。

 

 この口ぶりからして、どうやら本当のことみたいだ、

 

「あ~あ、幸也くんは知らないみたいだったから、ずっと黙っていようと思ってたのに……まぁそんなわけで、私は幸也くんが思うほどお淑やかな女の子ではないわけなんだけど――今の話で、私の事、嫌いになった?」

「い、いや、少し驚きはしたけど、別にそれくらいのことで……あっ」

「ね? それくらい・・・・・のことなの」


 そう言って朗らかに笑う奈留が眩しくて、少し、胸の鼓動が強まった気がした。

 

「幸也くんの言う醜いところが何かは知らないけど、多分きっと、『それくらい』で済んじゃう事だと思うの」

「……」

「もちろんお互いにまだ知らないことがたくさんあるわけだから、断言はできないけど、けど、だからね、これからもっとお互いの事を知りたいって、そう思うの」


 俺はもう、何も言うことが出来なかった。

 

 気づけば、奈留はもう俺の目の前、少し手を出すだけで届いてしまう距離にまで戻ってきていた。

 

「それに私に嫌われたいなら、もっと徹底的にやらないとダメだよ?」

「な――」

「でも、そういうところを、私は優しいって言ったの」

「……俺はただ、優柔不断なだけだよ」

「私を傷つけないように、必死に言葉を選んでたのに?」


 そんなに、分かりやすいのだろうか、俺は。

 

「だからね、幸也くん――」





 奈留が何か言いかけたその時、校庭の方で何かが爆ぜる音がした。

 

 そして、屋上よりもちょっと高い場所でそれ・・らが煌めきだす。

 

 ――打ち上げ花火だった。

 

 祭の時に見た花火よりはずっとずっと小さい、けれど、夜と呼ぶにはまだ早すぎる夕日に咲く姿が本当に綺麗で。

 

 俺の心のわだかまりが溶けていくような、そんな気がした。

 

「あ~! 花ちゃん達、フライングだ……」

「え、これ、田中達の仕業なのか?」

「そう! 幸也くんが横から見てみたいって言ってたから、皆で急いで買ってきたの……まぁ、ちょっと高かったけど、いろんな意味で」

「俺の、ために――」


 どうして奈留が、そして田中達がそこまでしてくれたのか、理由はわからなかったけど。

 

 でも、素直に嬉しくて、思わず口を手で覆ってしまう。

 

 そうこう言っているうちに2発目、3発目と次々打ち上がっていく。種類が違うのだろうか、菊や牡丹をあしらったものから、枝垂れと呼ばれるものまで様々に空をカラフルに彩っていく。

 

 そして、10発目が打ち上げられると――先ほどまでの賑やかさが嘘のように、沈黙した。

 

「……え、終わり?」

「はい、終わりです……本当はもっと欲しかったんだけど……」

「けど?」

「予算不足、ってやつだね」


 隣で見ていた奈留と目が合う、まるで悪戯が見つかった子供のような、曖昧な苦笑いを浮かべている。それを見て、遂に俺が耐えられなくなった。

 

「ぷ、くくっ、ははは! なんだよそれ!」

「ああ! 幸也くん笑うなんて酷い! あれ結構大変だったんだよ!」

「いや、だって、こんな一瞬のために、わざわざ花火買ってきて、俺の事簀巻きでグルグル巻きにして、これが、笑わずに、いられるかよっ」


 その事実が、面白くて、愉快で、だから。

 

 涙があふれて、止まらなかった。

 

 必死に手の甲で拭うが、拭いても拭いても収まることは無くて。

 

 そんな俺を見かねたのか、いつの間にか膝を折っていた俺の頭を優しく抱きしめてくれた。

 

「……幸也くん、いつも泣いてる気がする」

「奈留と付き合うまでは、そんなに泣くこと無かったんだけどな、それに、奈留だってよく泣いてるじゃないか」

「私は元々繊細な女の子だからいいの! ……それと、幸也くん――私たちまだ、付き合ってない・・・・・・・んだけど?」

「っ! ……ああ」


 そうだ、そうだった、奈留に腕から解放してもらうと立ち上がり、奈留と対面する。

 

 もう、逃げるのはやめよう。

 

 真摯に、自分の想いを伝えよう。

 

「……佐伯、奈留さん」

「ふふっ、なんですか?」

「――好きです、俺と、付き合ってください!」


 頭を下げ、喉から空気を引き裂くような声を絞り出す。自分からこんな声が出るなんて、思いもしなかった。


 ああ、でも、言えた。

 

 ただ想いを伝えるだけなのに、随分遠回りをしてしまった気がする。

 

 それに対し、彼女の答えは――

 

「――幸也くん、目を閉じてください」

「え、なんで」

「いいから! あと少ししゃがんでください!」


 ……っ! これは、まさか、アレか!? アレなのか!?

 

 待て、落ち着け、そうと決まったわけじゃない、油断してはダメだ……

 

 だが、何にせよ愛しの彼女(仮)のご要望だ、応えないわけにはいかない。

 

「こ、こんな感じでいいかな」


 言われた通り、腰を屈めて目を瞑る。少し唇を尖らせた方が良いのかなんて無体なことを考えてしまった。

 

 視界が真っ黒に染まると、奈留の吐息を近くに感じる、俺は彼女の行動に身を任せる覚悟を決めた。

 

 そして――

 

「……ていっ!」

「――痛ってぇ!! ちょ、マジで痛いって!」


 奈留の渾身のデコピンが、俺のおでこに突き刺さった。

 

 めちゃんこ痛い、先の明菜パンチに比べれば微々たるものだが、それでもあの細い指からどうしてこの威力が出るのか不思議でならない。

 

「あははっ! 幸也くん、今キスされるって勘違いしたでしょ」

「そ、そんなことは――」


 ありまくりだった。とても期待しました。

 

「ふふ、ごめんね、でも私も1度告白を流されたから、それの罰ってことで!」

「ま、まぁそれで奈留の気が済むならいいけど」


 俺渾身の告白も虚空に消えてしまうことになったが、まぁいいか……いいのかな?

 

「あと幸也くん、ほっぺになんか汚れみたいの付いてるよ?」

「え、何処?」

「左側の、耳に近い方って言うのかな」

「ここら辺?」


 奈留に言われた通り指でなぞる・・・が、何かを取れたような感じはしない。

 

「ああ~そっちじゃなくて……もう、私が取ってあげるからもう1回しゃがんで」

「なんかごめん……」


 言われた通り、先ほどと同様腰を屈める。

 

 そして、奈留が右手を俺の頬に添えて――

 

「んっ――」

 

 瞬間、触れる、唇と唇。

 

 一瞬の、風が吹いたような、それこそ何かの幻だったのではないかと錯覚しそうなそれは、紛れもない現実で。

 

 奈留の潤んだ瞳が、その確信を一層強めてくれた。

 

 震える唇で、奈留が言葉を紡ぐ。

 

「告白の、答えは――これで、いい、かな?」


 十分すぎる回答に、俺の心臓は狂ったように早鐘を打つ。

 

 何か、何か話さなければ、そう思うのに、胸が詰まったように喉奥から息が抜けていくだけで。

 

 それでも何かを伝えなきゃならないと焦燥感に駆られた、そのとき――

 

「コラァ! 田中ァァァ! 服部ィィァ! 待ちやがれお前るぁぁぁ!!」


 校庭の方から、こんなところまで届く担任の怒鳴り声が響く。

 

 まさかと思っていたが、学校の敷地内で花火を打ち上げたのだろうか……したんだろうな、多分。

 

「あちゃあ、花ちゃん達大変そうだねぇ」

「あちゃあって、これやばいんじゃないか? 俺たちも逃げた方が良いんじゃ……」

「そうは言うけど屋上の出入り口、花ちゃん達が何かで塞いでおくって言ってたから、多分出られないと思うよ」

「は……? え、あ、マジだ! びくともしねぇ!?」


 試しに扉を開けようと力を籠めるが、何をどうしたのか、1ミリも扉が開く気配がない。

 

 スマホで助けを呼ぼうにも家のリビングに置いてきてしまったしどうしたものか……待てよ、奈留はスマホ持ってるだろうし、奈留に助けを呼んでもらえば良いか。

 

 そう思い奈留の方を振り返れば、いつの間にかベンチに座って手招きをしている。

 

「な、奈留? そんなにゆっくりしてて大丈夫なのか?」

「まぁまぁ、花ちゃん達が捕まったらきっと私たちのこと助けに来てくれると思うから、それに……」

「それに?」

「空がすっごく綺麗だから、星でも眺めて待ってようよ」


 奈留につられて空を見れば、いつの間にか日は沈み切り、満点のとは言えないけれど、鈍く光る星たちがポツポツと姿を見せ始めているところだった。

 

 さっきまで完全に曇り空だったのに、ぽっかりと穴の開いたような雲の合間から瞬く光は、花火とはまた違った趣で世界を照らしていて。

 

 俺たちの事を祝福してるように感じてしまうのは、あまりに都合が良すぎるだろうか。

 

 その神秘的な光景に何も言えず、黙って奈留の隣に腰を下ろす。

 

 校庭からはまだ騒々しい叫びが聞こえてくる、状況はわからないが、逃げ惑う服部君たちの姿が目に見えるようだ。全然笑えない状況なのに、不思議と口許は緩んでしまう。

 

 そんな仕様の無いことを考えていると、奈留が肩に寄りかかってきた。急だったからドキリとしたが、何故か心臓の鼓動は落ち着きを取り戻しつつあって。

 

 余裕が戻ってきた俺は奈留の左手を、そっと握る。それを待っていた・・・・・のか、横を見れば奈留と目が合い、お互いに吹き出してしまう。

 

 多分今は、何を言っても無粋になると思うから。

 

 俺たちは助けが来るまでの間、綺羅星を特等席でいつまでも、いつまでも、見つめ続けた――

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