35話

 朝が来ていたことにさえ、気が付かなかった。

 

 部屋の外から事あるごとに聞こえてきた、明菜の騒がしい叫び声が完全に沈黙してから、もうどれくらいの時間が経っただろうか。

 

 俺はベッドから起き上がり、そのまま腰を掛ける。あれだけ長いこと雨に打たれたにもかかわらず、体調は健康そのものみたいだ。

 

 いっそ本当に風邪でもひいていれば、合法的に休めたというのに。

 

 あの後、家に帰った俺は心配する明菜を尻目に部屋に閉じこもってしまった。無視を決め込むことになってしまった事は申し訳なく思うが、今は誰にも会いたくなかったのだ。

 

 無意識に無垢な少女を傷つけていた男のことなど、放っておいてくれればいいのに。まぁ、明菜も母さんも事情を知らないんだから、しょうがないけども。

 

「喉、乾いたな」


 どんなに心が悲鳴を上げていても、生理現象から逃れることは出来ない。

 

 ちょうど、お腹も鳴ってしまう、そんな自分が情けなくて、また、泣いた。

 

 ぐちゃぐちゃの視界で時計を確認すれば、もう11時に差し掛かろうとしている。

 

 もう明菜も母さんもとっくに家を出たのだろう、なら丁度いい、今のうちに喉の渇きを癒してしまおう。

 

 結局俺は、自分に甘い。鉛のように重い足に喝を入れ、鍵を開け、部屋のドアを開く。

 

「やっと出てきやがったなぁ! クソアニキィィィ!!」

「!?」


 ドアを開けた俺の目に飛び込んできたのは、仁王立ちし、鬼のような形相と、真っ赤にした目でこちらを睨みつける明菜の姿であった。

 

 てっきり学校に行ったものだと思っていたが、息を潜めてずっと待っていたようだ。

 

 急いで扉を閉めようとしたが、明らかに俺より強い力で外側のノブを掴み、それを許してくれない明菜。

 

「逃げてんじゃねぇぞぉ! ちゃんと何があったか説明しろぉぉぉ!」

「放してくれ明菜! 俺のことはもう死んだとでも思ってくれ!」

「ふざけんな! お兄ちゃんが元にも戻ってくれないと、美味しいご飯食べらんないんだよぉ!」

「こんな時に! 飯の心配かよ!」

「それが建前ってことくらい! 気づけよこんのバカァ!」


 ついに力負けして、扉が全開に開かれてしまう。その反動で部屋に放り出され、尻もちを着いた俺の上に、明菜が馬乗りになった。

 

「……お兄ちゃん」

「な、なんだよ」

「っ! 歯ぁ食いしばれぇ!!」


 明菜の拳が俺の顔面に迫る。虚を突かれ、歯を食いしばる間もなく、俺の頬に拳が突き刺さった――

 

 

 

 

 

 

 

「お兄ちゃん、落ち着いた?」

おひふひはひは落ち着きました


 明菜の強烈な一撃を受け、しばらく身動きできなかった俺だが、明菜に首根っこを掴まれ引き釣られるようにリビングまでやってきていた。

 

 口の中めっちゃ血の味するし、とりあえず口濯ぎたい。暴力反対。

 

「明菜お前少しは手加減しろよな……」

「お兄ちゃんが最初から全て説明してくれればこんなことにはなりませんでしたっ!」


 もう少し文句を言いたいが、非は全面的に俺にある為言い訳はできない。

 

「それで、結局何があったの? 奈留さんと別れることにでもなったのかと思ったけど、それとも違うみたいだし」

「その方が、むしろ良かったかもしれないな……」


 それなら、俺が傷つくだけで済んだんだから。

 

「とにかく全部話して、そうじゃないともう心配でしょうがないから」

「……どうしても話したくないって言ったら?」

「私の拳は、まだ2回くらいなら耐えられそうだけど?」

「全て話させていただきます……」


 もう1度でも喰らえば多分顔の形変わっちゃう。


 こうして俺は事のあらましを洗いざらい明菜に説明することになった。最初の内は真剣に耳を傾けてくれていた明菜だが、話し終えた今では呆れ顔さえ浮かべている。

 

「それじゃあお兄ちゃんが勝手に勘違いしてたってこと? 私、情けなくて涙が出そうなんだけど」

「お前まで泣かないでくれよ……それにそんなこと言ったって仕方ないだろ、まさか俺に告白してくる奇特な人間がいるなんて思いもよらなかったんだから」

「まぁ奈留さんの趣味が少々特殊だったのは間違いないけど、それを加味したってお兄ちゃんは自分を卑下し過ぎだと思うよ」

「そこは家族の情で否定欲しかったよ」


 明菜と話していてようやく心も落ち着いてきた。

 

 ただそれだけのことで、状況は一向に好転していないんだが。

 

「というか、お兄ちゃんが何を悩んでるのかよくわかんないんだけど」

「はぁ? お前何言って――」

「だって奈留さんは何も知らないんだから、お兄ちゃんが黙って奈留さんと付き合い続ければ万事解決じゃん」

「そ、そんな失礼な事出来るわけないだろ! ふざけるのもいい加減に――」

「ふざけてるのはお兄ちゃんの方でしょ!!」

「っ!」

「お兄ちゃん自分が悪いとか傷つけたとか言ってるけど、結局被害者面して悲劇に酔ってるだけで、自分のことしか考えてなくて、奈留さんの気持ちをちっとも考えてない!」

「違う! 奈留の好意を踏みにじった俺にはもう、奈留と付き合う資格なんてないんだ!」

「それを決めるのは! お兄ちゃんじゃなくて奈留さんでしょ!」

「そ、れは――」

「お兄ちゃんがどうしても奈留さんと付き合うのが嫌なら仕方ないかもしれないけど、でも、そうだとしても、どの道1度は奈留さんと話し合わなきゃダメだよ、ずっと逃げてちゃ、ダメだよ」

「……」

「私、奈留さんのことが好き。奈留さんのことが好きなお兄ちゃんも好き。だから、別れてほしくないっ! 別れちゃ、やだよぉ」


 ついに我慢できなくなったのか、明菜の瞳から大粒の涙が零れる。

 

 泣いている明菜を見ているのが、胸を掻きむしりたくなるくらい辛くて、思わず抱きしめてしまう。

 

 気づけば俺も、泣いていた。傍から見れば声を上げ、抱き合って泣く兄妹は滑稽に映ることだろう。

 

 それでも今の俺には、どうしても明菜を手放すことが出来なくて。

 

「……お兄ちゃん、おなかすいた」

「お前、もう中学生だろ、自分で用意しようとは思わないのか?」

「だって――」

「俺が作ったほうが、美味しいからか?」

「……うん」


 何も解決していないことは、わかっているのだけど。


 俺はなんだかちょっとだけ、救われたような気がしたんだ――

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