第19話 物部大臣(前編)

 皇極天皇2(643)年、蘇我氏の3代目 蝦夷は 独断で 紫冠を子の入鹿に授け、大臣の位に擬した。また、その弟を"物部大臣"と呼んだという。

 この物部大臣を、私は 大化の改新の功労者 中臣鎌足の正体だと疑っているが、かの人物は 歴史の表舞台には ほぼ登場しない。ただ、その祖母が物部弓削大連守屋の妹であり、その財によって 権勢を振ったとの記述があるのみである。

 ちなみに、この物部守屋の妹の名は 正史に記されていない。一説には、物部尾輿の娘 太媛ふとひめと見るものもあるが、物部系の史書『先代旧事本紀』には 蘇我氏の2代目 馬子の妻は 物部大刀自(守屋の姪)と記載されていた。かの書物は、『日本書紀』より後の平安時代 成立と考えられているが、ひょっとすると、そこには何らかの含むところがあったのかもしれない。


物部尾輿——守屋

     ∟ ◯ 

      ||——蝦夷——入鹿

蘇我稲目——馬子    ∟物部大臣


 大化の改新の功労者 中臣鎌足の正体が 蘇我入鹿の弟 物部大臣だったとすれば、いろいろと腑に落ちることがある。

 まず、乙巳の変の際、蘇我氏の傍流 倉山田石川麻呂に渡りをつけられたのは勿論だが、変で徒党タッグを組んだ鎌足と中大兄皇子の出会いの場面シーンにおける違和感も払拭される。彼ら2人が出会ったとされるのは 法興寺の打毱においてであり、この場面シーンはほぼ間違いなく虚構フィクションだが、法興寺とは飛鳥寺のこと。又、固辞したとは言え、鎌足は 神祇伯を輩出するような家の出であるはずだった。中臣氏は、実に 物部氏とともに排仏を主張していた。

 そういえば、鎌足は 白雉4(653)年、当時唯一の男子である真人(定慧)を出家させているが、これらは神道物部氏仏教蘇我氏の双方に伝手があったからこそ可能であり、採用うっかりされたのかもしれない

 中臣連鎌足の名称の中に"臣"と"連"が重なっていることも 少々気になるところだ。他に このような例がなかった訳ではないが、これが珍しい事例であることは間違いない。疑いの目で見れば、これも蘇我と物部,双方と接点を持っていることを示すための作為であったのやもしれない。

 鎌足は はじめ"中臣鎌子"という名で 歴史の表舞台に登場する。その名は 崇仏排仏争論の際、物部尾輿とともに排仏論を唱えた人物の名と重なるが、中臣鎌足の素姓が隠されているとすれば、その名は借り物であった可能性もある。もし それが事実だったとすれば、何の故を以って その名が選択されたのか? おそらく、それは物部氏とのつながり故であっただろう。

 鎌足の父親の名前は "御食子"というが、その名は農業政策を得意とする一族と近しい名であった。私が 鎌足の正体と想定する人物物部大臣の父親の名は 大方蔑称であるから、あるいは かの人物の本当の名は御食子であったのかもしれない。

 余聞だが、中臣御食子とは 中臣氏第一門の祖であり、日本史上初の女帝 推古天皇(第33代)の崩御後、、次の天皇として田村皇子(後の舒明天皇)を推した人物である。

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