第18話 中臣鎌足の正体(前編)

 大化の改新の功労者 中臣連鎌足は、後世、この国最大の一族となる藤原氏の祖として知られている。

 正史における その評は 魏の武王 曹操が いんの伝説的な政治家 伊尹いいんを褒め称えるかのようであり、その言は 後漢の"大樹将軍"馮異ふういと比されるほどだった。藤原氏の初期の歴史が記された伝記『藤氏家伝』には、鎌足について「偉雅、風姿特秀」と記録されている。

 余聞だが、乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿のまつりごとは 『藤氏家伝』の中で 三国志の悪役ヒール 董卓とうたくに擬えられている。

 なお、馮異の"大樹"という称号は、この国の中世 室町時代において 将軍の異称としても用いられていた。

 しかしながら、鎌足の人物像は 模糊としてハッキリしていない。正史などでは かの人物の前半生は明らかならず、そればかりか(大化の)改新後の壮年期 約10年ほどの足跡もよく分かっていないのだ。

 正史『日本書紀』完成期の最高実力者は 鎌足の次男である藤原不比等であったが、このことから、不比等による親への潤色があったのではないか,更には 藤原氏にとって都合の悪い真実は消されているではないかと 概して勘繰られていた。

 そうして、この流れの中で、鎌足の素姓にも疑いの目が向けられている。中臣氏は 鎌足の父親の代から三門に分かれているが、これも捉えようによっては そこに異なる一族の系譜を差し込んだようにも見て取れた。


 鎌足の素姓が現在 巷間に伝聞しているものとは別系統であったことが事実だったとして、その正体として しばしば取り上げられるのが、当時 この国に人質(?)として来ていた百済王子 余豊璋だ。かの人物は 鎌足と同じ織冠しょっかんを賜っており、また 正史において 2人は同時に登場しなかった。

 余豊璋は 白村江の戦い(663年)の後 その行方をくらませているが、鎌足は その後しばらくして歴史の表舞台に復帰。爾後 藤原氏は亡命百済人らの支持を得て政権を確立した。

 この見解を是とする場合、正史にて 鎌足の本当の素姓が隠された所以は 彼がだ。

 されども、鎌足が外国人であった場合、大化の改新の端緒 乙巳の変(645年)において 果たして蘇我倉山田石川麻呂の賛同を得られるかどうか疑問が残る。すなわち、石川麻呂が 他民族の人間の口車に乗って自民族を裏切るかということだ。そもそも、外国人が 政府要人とそう簡単に 接触コンタクト意思疎通コミュニケーションができ、なおかつ 怪しまれないのか?

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