第13話' 歴史書と時の権力者の作為(中編)

 正史『日本書紀』は 天武天皇(第40代)が壬申の乱(672年)という古代史上最大の大乱を起こし 、その後ろ暗さを隠す目的で、編纂が開始されたと一説には見受けられている。

 正史において、壬申の乱で争ったされるのは先帝 天智天皇の弟 大海人皇子(天武天皇)と天智天皇の皇子 大友皇子の2だったとされているが、これには古くから異論が出されており、明治になって大友皇子はその即位が認められていた。このことから、天武天皇に真実を隠蔽する意思があったことが壁越推量される。

 この見解を 私は完全に否定するつもりはないが、ただ 私はこの時この国ではなかったとされている王朝交代が起きていたんじゃないかなと愚察している。日本は その地理的関係から中華帝国の歴史観を色濃く受けて継いでいることが予想されるが、この時節 かの国のそれを導入する素地が多分にあったのではないかと私は胸算していた。


 9世紀末の遣唐使廃止前、この国は中華帝国の強い影響の下に晒されていた。特に6世紀末になってからは隋帝国の誕生と高句麗侵攻もあって、仮想敵国である隋の敵情視察も兼ね遣隋使が派遣され、かの国の先進的な施策がこの国に紹介されている。

 それらは大化の改新以降 結実したとされ、律令制の導入や租庸調制、条坊制を布いた都の建設が行われた。そして恐らくは 歴史書についても、かの国の歴史観を基盤ベースとした正史が作成。伝存する日本初の正史『日本書紀』は 実に漢文体で記録されていた。

 中華帝国においては 司馬遷の『史記』の後、王朝ごとに時代を区切った所謂"断代史"の体裁が流行した。それらは前代の王朝について書き連ねたものであったが、自然 前代の王朝末期の悪行を挙げ列ね、徳のある天子が易姓革命を行ったと現王朝の正当性を主張するものと相成っていた。

 支那では"中華思想"というものがあって 民族ではなく その思想の体現者を求めているところがあったから、中華帝国は その歴史観を受け継ぎ、異なる民族が王朝を形成していた時期が何度もあるにもかかわらず、その正史の大まかな内容は似たような形となってしまっていた。

 なお、唐王朝以降は 正史編纂は国家事業となったが、それより前は個人の撰である。


 日本では万世一系であり 王朝交代等なかったとされているが、正史『日本書紀』の編纂を命じたのは 壬申の乱という大乱を起こした天武天皇であり、かの天皇は その素姓に疑いを持たれていた。

 また、六国史の第2『続日本紀』は天武朝が断絶し 復活した天智系の 桓武天皇の代で終了。六国史の第4『続日本後紀』は仁明天皇 一代を記しているが、この天皇の母は橘氏の女性(橘嘉智子:檀林皇后)であり、仁明天皇は 和風諡号に"豊"の一字を有していた。

 その仁明天皇の御代に 承和の変(842年)という政変が起こって 再び藤原氏を母に持つ天皇(文徳天皇)が誕生するが、その系統は第57代 陽成天皇の不行跡によって皇統の主流から廃絶。爾後、仁明天皇の皇子である光孝天皇が55歳で即位した。そして、六国史の第6 『日本三代実録』は この天皇のところで終わっていた。

 ちなみに、"光"の諡は 傍流から嫡流となった人物に主として贈られている。

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