第11話' 蘇我入鹿と天武天皇(後編)

 "天武天皇=漢皇子"説を採る場合、問題となってくるのが、 ということだ。高向王は 正史において 用明天皇のと記されているが、その父親は 誰かは分からず 本当はその系譜に差し込まれた存在で、皇族ではなかったのではないかとも囁かれていた。一説には 天武天皇が親新羅政策を採っていることから、新羅人だったのではないかとする見解も存在している。

 他にも、高向王を飛鳥時代の学者 高向玄理たかむこのくろまろや高向一族の誰かとする説、皇族であったとする場合は 用明天皇の子である当麻皇子たいまのみこの子にあてる説が唱えられている。

 ここで、私の見解を述べさせていただければ、私は 高向王は真実 用明天皇の孫だったのではないかと恐察している。ただし、高向王のの祖父が用明天皇だったのではないかと私は愚慮していた。用明天皇の娘に酢香手姫皇女すかてひめのひめみこ(聖徳太子の異母妹・当麻皇子の同母妹)という人物が存在するが、これは暗喩であり(酢香=蘇我?)、彼女が蘇我氏の人物に嫁いで生まれた子供が高向王であり、鹿だったのではないかと私は胸算していた。

 そして 実に、蘇我入鹿と宝皇女,後の皇極天皇の間には、密通の疑惑が持たれていた。蘇我氏の2代目 馬子にも推古女帝との間に同様の噂が囁かれており、3代目 蝦夷が皇族との間に子供をもうけていたとしても、それはあり得ない話ではなかった。この時期、蘇我氏の女性が皇室に多く嫁いでいて、血の交流が行われていた。それは 男女を換えても行われていたのかもしれない。

 余談だが、蘇我入鹿の母親は 不明。祖母は物部守屋の妹だとされていて、入鹿の弟である物部大臣は その財をもって権勢を振るったとされている。その祖母(馬子の妻)の名は『先代旧事本紀』によれば、物部鎌足姫大刀自と記されているが、『先代旧事本紀』とは 物部系の書物で、物部氏と尾張氏のことについて主に書かれていた。尾張氏というのは、壬申の乱において 天武に味方した有力豪族で、696年に尾張大隅が 位階功田を授けられた。『日本書紀』に続く正史『続日本紀』によれば、この恩賞授与は壬申の乱の功績によるものであったという。


物部鎌足大刀自?

 ‖——蝦夷——入鹿

蘇我馬子   ∟物部大臣


 高向王が 蘇我入鹿であったとすれば、天武天皇(=漢皇子)と蘇我入鹿との親子関係が疑われるが、果たして この仮説の裏付けとなるだろうか? 天武朝において 生前における最高冠位を得たのは、当麻豊浜たいまのとよはま。かの人物は 酢香手姫皇女の同母兄 当麻皇子の子であり、蘇我氏とつながりのある人物が冠する"豊"の字を有していた。

 なお、当麻皇子は別名 麻呂子親王とも言い鬼退治の主人公としても知覚されているが、あるいは この伝説も 天武天皇との関係からだったのやもしれない。一説には、桃太郎の鬼退治に付き従った猿鳥犬は 天武天皇の時代の故事に由来するとされていた。


用明天皇———聖徳太子

     |—当麻皇子—当麻豊浜

     |— 酢香手姫皇女

     ∟—?——高向王—漢皇子


 高向・漢という氏族が蘇我氏とつながりが深い氏族であることも 無視できない。加えて 8世紀半ば、天武天皇の孫 長屋王のタタリが恐れられたとされるが、その際 法隆寺を重視。かの寺院は、蘇我系皇族 聖徳太子が建てたものであった。

 こぼれ話ではあるが、"聖徳太子=蘇我入鹿"説もある。この説を私自身は採っていないが、2人の間には濃い関係があったと私は思料している。


 究竟、私は 天武天皇(=漢皇子)は 蘇我氏の4代目 入鹿の子,すなわち かの家で"皇子"と呼ばれていた人物であり、そうして その即位後、蘇我氏の全盛時代を神格化したのではないかと探究している。当時の天皇家の系譜と神話の系譜を見比べると、日本史上初の女帝 推古天皇には 最高神 天照大神が比定されているが、かの女帝の御代は 蘇我氏の全盛時代だった。

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