第10話 蘇我天皇
古代の有力豪族 蘇我氏は、天皇家に一族の女性を嫁がせ、用明(第31代)、崇峻(第32代)、推古(第33代)と3代の天皇を誕生させている。このことも、蘇我氏が権勢を得た所以の1つと考えてよいだろう。
だが、日本史上初の女帝 推古天皇の次代である舒明天皇(第34代)は 他田天皇こと第30代 敏達天皇の流れであり、蘇我氏の血統を色濃く受け継いではいなかった。対して、その対抗馬であった山背大兄王は 蘇我氏の血をひく聖徳太子の子とされている。血統の上では後者の方が蘇我氏にとって都合が良いはずだった。
まぁ、舒明天皇の即位前に蘇我氏の女性が彼に嫁いでいて 古人大兄皇子が生まれているから、舒明と蘇我氏が全く関係がないわけではない。また、聖徳太子は 一般に反蘇我だったと認識されていた。このことから、その故をもって太子の血が忌避されたと考えられなくもない。
しかし、私は 古代史の聖人 聖徳太子は蘇我氏の男系の血をひく人物で、推古天皇期 彼は即位していたのではないかと愚察している。この時期、崇峻天皇が暗殺され、異例の女性天皇が誕生し、更に 太子と馬子の手によって歴史書が編纂されていた。聖徳太子の
思うに、推古女帝崩御後、かの一族は 蘇我氏の男系血族の皇位継承を諦め、女系による支配に回帰する方向へと舵を切ったのではないだろうか?
その理由は いくつか考えられるが、まず、その最たるものは 聖徳太子が後継を残さずに亡くなったことだろう。山背大兄王は 聖徳太子の子だとされているが、正史『日本書紀』には彼らの親子関係を裏付ける記述は存在しなかった。
この時代、子孫の祭祀を受けられずに王朝断絶した帝王の祟りが最も恐ろしいと考えられていたという。聖徳太子は一説には怨霊となったとする見解があり、一皇太子に過ぎなかったにもかかわらず、"聖徳"という史上稀なる立派な諡が贈られていた。
そして、恐らくは 蘇我氏の男系の血をひく上宮王家 山背大兄王の即位が見送られた直接のキッカケは推古女帝の崩御の間際に起きた"日食"だ。太陽が欠ける日食は この時代、天の啓示と考えられていて、これが蘇我氏の簒奪に対する警告として受け取られたのではないだろうか?
ちなみに、この日食は 太陽神 天照大神の「天岩戸」神話に投影されているものと私は憶測している。
飛鳥の一族 蘇我氏は 大方、その全盛時代、大いに羽ばたき 至尊の座に就いていたものと私は目算している。けれども、その事実は 天皇家にとって都合が悪かったことから、後世 隠蔽されたと私は睨んでいる。
蘇我氏の時代は 第35代 皇極女帝の御代に起きた乙巳の変(645年)によって終わりを告げたと見受けられているが、大化の改新やその後 登極した天智天皇(中大兄皇子:第38代)の政権においても、蘇我氏の関係者が多く用いられていた。かの一族の息吹は、その時点では未だ消えてはいなかった…
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