第9話 蘇我氏

 古代の有力豪族 蘇我氏は6世紀半ば、稲目いなめの代からその権勢を伸長している。稲目の息子 馬子うまこの時代に最盛期を迎え、さらに その直系である3代目 蝦夷えみし、4代目 入鹿いるかへとその権勢は受け継がれた。蝦夷・入鹿父子は自分たちの屋敷を"宮門みかど"と命名し、入鹿に至っては 自らの子を"皇子"と呼ばせたという。

 その蘇我氏は 一説には 百済からの渡来人ではないかとも囁かれている。稲目の曽祖父に蘇我満智そがのまちという人物が存在するが、その人物が応神天皇の時代に百済から渡来した木満致もくまちその人なのではないかと疑われているのだ。もっとも、この説は時代が合わないこと等もあり、現在は否定的に捉えられている。

 稲目より前の人物は その存在が 怪しまれているが、系譜上 蘇我氏には韓子からこ(稲目の祖父)や高麗こま(稲目の父)など、半島とのつながりを匂わせる名の人物が存在していた。


武内宿禰—蘇我石川宿禰—満智—韓子—高麗—稲目—馬子—蝦夷—入鹿


 蘇我氏が 4代約1世紀に渡り 権勢を得た所以として、私は 彼らの政策,とりわけ農業政策が支持されたのだと推測している。現在にも引き継がれる宮中祭祀の一つ"新嘗祭にいなめさい"は、実に、この頃 始まったと見受けられていた。新嘗祭とは収穫祭にあたり、その年の収穫を祝い 翌年の豊穣を祈願する祭儀だった。

 因みに、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を"大嘗祭"といい、2019年11月に行われた。ついでに言えば、新嘗祭を祝う祭日が戦後改められたものが"勤労感謝の日"である。

 また、蘇我氏の血をひく者には 名に"豊"の字を有する者が多く存在している(第31代 用明天皇、第33代 推古女帝など)。かの一族は重農主義、五穀豊穣をもって 富国を図ったのではないかと私は拝察していた。

 現代でもそうだが、人をいかに食わせるかが政治の至上命題だった。古代においては、現在よりも遥かに切実であったことだろう。蘇我氏は実際、屯倉みやけを整備し 治水工事も行っていた。

 更に、蘇我氏の実質的な初代の名は目。蘇我氏の血をひかない第30代 敏達天皇(用明・推古の異母兄)は 別名"他天皇"と言った。

 なお、馬子や蝦夷、入鹿という名は蔑称で別に本当の名前があったのではないかと私は胸算している。


 古代の有力豪族 蘇我氏が1世紀に渡り 権勢を保持し得た理由として、かの一族の政策がうけたことはもちろんあったと私は思うが、彼らは同時に多数派工作など政権の基盤固めも行っていた。

 当時 国政を担う太政官の最高幹部は一氏族より1名のみという不文律があったが、彼らは一族の者を他氏に入れる"分氏政策"をとることによって政権を盤石ならしめんとした。例えば、2代目 馬子の兄弟は桜井氏や久米氏、小治田氏に入り、4代目 入鹿の弟は 物部大臣として歴史に名を刻んでいた。

 ただ、この工作に何ら問題がないわけではない。というのは、一族の諍いが 他氏族との諍いに置き換わり 他氏族にとって変わられる危険性を孕んでいるのだ。

 実際、第33代 推古女帝の崩御後に起きた後継争いで、その危機が発生している。この時蝦夷は田村皇子,後の舒明天皇(第34代)を推したのに対し、馬子の弟 境部摩理勢さかいべのまりせは聖徳太子の子とされる山背大兄王を推挙。結局、蝦夷が摩理勢を討伐することで、この危機は未然に回避された。

 そして、こうした諍いは 蝦夷の子 入鹿の代にもあったのではないかと私は踏んでいる。而して、このことが別の一族藤原氏の多数派工作に影響を与えたものと私は壁越推量している。

 あと余聞だが、この推古天皇の後継を巡る悶着の際、鎌足の父 中臣御食子なかとみのみけこは蘇我氏側に立ち、蝦夷と行動を共にしている。これは、行動だった。ひょっとすると、ここには何らかの秘密が隠されているのかもしれない。

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