第8話' 乙巳の変(後編)

 大化の改新の端緒である乙巳の変は、後の天智天皇(第38代)こと中大兄皇子と藤原氏の祖 中臣鎌足を中心として謀議が重ねられ、蘇我氏の傍流 石川麻呂を味方につけ、645年7月、飛鳥板蓋宮で決行された。

 時の天皇は中大兄皇子の母である皇極女帝(第35代)。三韓の調の儀式が行われるとの触れ込みで、かの宮殿に群臣が集められた。参列者には、次期皇位継承の最有力候補 古人大兄皇子ら がいた。

 入鹿が入朝すると、まず道化を使って彼から剣を取り上げる。さらに宮門を閉じさせ、石川麻呂が上表文を読み上げている最中に、中大兄皇子が入鹿に切りつけた。中大兄皇子の手には、最初 槍が握られていた。

 入鹿はその後 滅多刺しにされて死亡。私宮に逃げ帰った古人大兄皇子は「が入鹿を殺した」と嘆いたという。

 因みに、この言葉が"中臣鎌足=余豊璋"説の根拠の一つとされている。この当時 百済と高句麗は同盟関係にあり、高句麗を援けるために、百済王子 余豊璋が 変に関与したという可能性がないではなかった。

 しかし、"鎌足=余豊璋"が事実だったとして、蘇我氏の支流 倉山田石川麻呂を味方に引き込むことができるのか? また、石川麻呂自身が蘇我氏の本流になりたかったとしても果たして、彼が青二才や外国人の言うことに耳を貸すのか? "鎌足=余豊璋"説を一概に否定するつもりはないが、少々 疑問は残る。かの政変は、確たる地盤を持った石川麻呂が参加しなければ、実現のしようがなかった。そもそも、外国人が石川麻呂と接触していて怪しまれないのか?


 藤原氏の祖 中臣鎌足が何らかの形で百済とつながりを有していたのは間違いない。

 それでいて、鎌足は蘇我氏の内部事情に通じ、石川麻呂と会っていても不自然ではない人間であったと私は当て推量している。

 ここで筆者の見解を述べさせて頂ければ、鎌足は 百済王子 余豊璋その人ではなく、彼と関係の深かったであったと私は愚慮している。ただし、彼個人の力では一族を割れるほどではない立ち位置の人物…

 もっとも、半島情勢に関する対応等が私の思い描くものと違ったり、損得や社会情勢を度外視して政変が画策された可能性も排除できない。

 が、過去の事例を勘案するに、やっぱり 私は 乙巳の変は 半島情勢を一因としたもので、後の保元の乱(1156年)と同様、反主流派による起死回生の政変だったとニラんでいる。

 そして、中臣鎌足のは、自分では一族を割るに割れない その微妙な立場の中に隠されているのではないかと私は拝察している。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る