第8話 乙巳の変(前編)
支那で誕生した超大国の存在は、朝鮮半島だけでなく、この国の動向にも影響を与えている。その著名な例と言えば、遣隋使の派遣だ。
以前にも 倭国から大陸の国家へと使者が遣わされなかったわけではないが、大陸の混乱や高句麗との対立などからいつしか沙汰止みとなってしまっていた。三韓の強国 高句麗は 半島の蓋となる位置に存在していて、支那が南北朝時代の折、同じ半島の敵に対して倭国と手を組むことがなかったわけではないが、倭国の北朝への遣使は そう易々と実行しえなかった。
ところが、北朝 隋の南北朝統一(589年)により情勢は目まぐるしく変動。高句麗は隋を主敵と睨み、二正面作戦を避けるため、後背となった敵(新羅)の更に後方に位置する この国の要人と仕切り直して接触。時の権力者である蘇我氏は この時期 日本史上初の本格的寺院 飛鳥寺を建立しているが(6世期末)、かの寺院には 高句麗の伽藍配置が採用されていた。
余聞だが、高句麗は 南北両朝に使節を派遣し、581年に隋の文帝が即位すると 隋からも冊封を受けるなど、南北両朝と友好を保っていた。
蘇我氏は 三韓の強国 高句麗と
ここから、蘇我氏が一方面だけではなく、多方面の外交を試みていたことが窺えるが、その蘇我氏は4代目 入鹿の時代、政変によって宗本家が滅ぼされた(645年)。"乙巳の変"である。
かの政変は 蘇我氏の暴虐に対する報いだとも かの一族が皇位を狙ったためとも言われているが、私は 当時の半島情勢が関係しているのではないかと胸算している。変の起こった前年に、隋の後継王朝 唐が高句麗遠征を再開しており、645年2月からは唐の太宗 李世民が親征を行っていた。このことが 変と無関係とは私には思われなかった。
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