第7話 百済

 7世紀半ば、朝鮮半島は 3つの国に分かれていた。半島北部から満州地方にまたがっていた高句麗、半島南東部にあり 日本倭国と長年 敵対関係にあった新羅、そして 半島南西部にあり この国と友好関係にあった百済の三国だ。

 このうち、新羅が生き残り、半島の過半を統治するに至るのだが、それに伴い 滅亡した百済の遺民が 多数この国へと押し寄せた。

 このような次第と相成ったのは、大陸の強国が半島に触手を伸ばしたことが大いに関係していた。


 紀元589年、支那で南北を統一する超大国が誕生した。隋王朝だ。

 それまで、支那では 複数の国々が割拠していたため、外へと力を十分に向けることあたわなかったが、かの王朝の出現で状況は一変。周辺国は大国の脅威にさらされ、各国は隋を念頭に、後背の敵を牽制する方策をそれぞれ採用した。

 隋は "半島の蓋"高句麗へと複数回 遠征したが、果たせず。その度重なる失敗が 原因もとで滅亡(618年)。続く唐王朝は隋王室の親戚筋にあたり、その政策の多くを引き継いでいたが、高句麗遠征についても踏襲された。

 高句麗は 唐朝第2代 太宗 李世民りせいみんが再開した遠征も退けたが(644〜645年)、唐朝第3代 高宗の時代 "遠交近攻"政策が採用される。遠交近攻とは、遠い国と結び 近い国を攻めるという基本的スタンダードな戦略だが、唐は(かの国から見て)高句麗の後背に位置する新羅と結び、高句麗の同盟国 百済をまず挟み撃ちにし 滅ぼした(660年)。

 これを受け、日本は百済を再興させるため 日本にいた百済王子 余豊璋よほうしょうを援け、朝鮮半島に派兵を行い、白村江で手痛い敗北を喫している(663年)。

 その後 程なくして、高句麗も滅亡(668年)。半島には新羅のみが残り、新羅は676年、半島の過半を統一した。

 因みに、日本が何故 半島情勢にかくも介入したかといえば、一説には 中臣鎌足その人が百済の人間だったからだと唱えられている。鎌足は壮年期,ちょうど白村江の敗戦に至る時期に正史の記録内から姿を消すが、それは 鎌足が正史に登場しているからだとその説では推測されていた。その人物こそ百済王子 余豊璋だ。

 而して、このことが 後に藤原氏が"亡国の民"百済遺民に後押しされた所以だと併せて憶測されている。藤原氏は(親百済)反新羅政策を 後世においても展開しているが、特に鎌足の曾孫である恵美押勝こと藤原仲麻呂は唐が安史の乱で混乱すると、新羅征討を計画していた(759年)。

 そして、この親百済・反新羅の方針は、時間を遡り 鎌足が関与したとされる乙巳の変(645年)の構図にも影響したものと私は拝察している。


 ところで、"中臣鎌足=余豊璋"説が正しかったとして、なぜ中臣氏の系譜に余豊璋が差し込まれたかについてだが、そこはそれ、中臣氏と百済との間に何らかの関わりがあったからと考えてよいだろう。中臣氏は正史上 蘇我氏の政敵ライバル 物部氏と行動を共にすることが多いが、この物部氏が百済と深いつながりを有していた。

 物部氏は百済との外交交渉の窓口であり、共同で軍事活動等する際は武将として活躍。また、百済から献上されたと伝えられる七支刀しちしとうは 物部氏の祭祀する石上神宮に収められていた。

 なお 余聞だが、百済の"くだら"という読みは"大国"との意味があると言う。翻って新羅の"しらぎ"は"新羅の奴ら"くらいの意。百済の遺民が大量に入ってきたことで、その優れた知識や文物も取り入れられたが、ここから 百済のものではなく 優れていないモノを指して"百済ではない",それが転じて"くだらない"と言うようになったという俗説も存在している。

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