第6話 藤原不比等

 正史『日本書紀』完成時の実質的な最高権力者 藤原不比等は、7世紀半ば この世に生を得たと伝えられている(659年)。父は、大化の改新の功労者 中臣鎌足。母については諸説あるが、私は車持氏の娘という説を支持している。

 なお こぼれ話だが、一部では、不比等は 大化の改新の主人公 中大兄皇子(天智天皇:第38代)の落胤だったのではないかとも囁かれている。もっとも これはかなり怪しい話で、どちらかと言えば、不比等の兄である真人(出家名:定恵じょうえ)が 孝徳天皇(第36代)の落胤だったという方が いかにもありそうな話だった。


 中臣鎌足の長子 真人は、孝徳天皇の凋落と前後して出家し、遣唐使とともに唐へと渡っている(653年)。その後 不比等が誕生し、鎌足の後継者と相成ったわけだが、鎌足の薨去後 壬申の乱を経て登極した天武政権(第40代)において不比等は全く頭角を現さなかった。

 不比等が正史上、初めて姿を見せるのは、天武が崩御し、その後継者である草壁皇子が薨去する直前(689年)。その際、彼は"フヒト"という名で歴史の表舞台に登場していた。

 以降、史は 子を失い即位した持統女帝未亡人(天武の皇后・草壁の母)の政権下において 着実に台頭。694年には、後世 彼の一族の姓を冠して呼ばれる素地のあった都へと遷都が行われている(藤原京)。

 女傑 持統天皇は 孫への皇位継承を 697年 実現させているが、その前年、目の上のたんこぶであった"後皇子尊"高市皇子(天武の長子)が薨去。かの人物の死に、史は関与したのではないかとも疑われている。正史における後皇子尊 薨去から一呼吸おいた記事で、彼は"不比等"の名で50人の従者を与えられていた。

 そうして、不比等は、持統の子 文武天皇(第42代)に 自らの長女 宮子を、文武の子 聖武天皇(第45代)には 自らの三女 光明子を嫁がせている。

 この事実は 「天孫降臨」神話に一部 投影されていることがうかがえるが、それだけではなく、初代天皇の系譜にも 彼の一族の影が色濃く反映されていた。


大国主-事代主———————五十鈴依媛命

        ∟ 媛蹈鞴五十鈴媛  ||

         ||——————綏靖【2】

草葺不合尊———神武【1】


藤原鎌足-不比等———————光明子

         ∟宮子     ||

         ||—————聖武【45】

草壁皇子 ————文武【42】


 また、不比等は 日本史上初の本格的な律令 "大宝律令"の制定に深く関与。さらには、家を4つに分け、同一氏族から公卿は1名のみという,蘇我氏ですら破らなかった不文律を破る多数派工作の先鞭をつけている。

 かようなことが実現できた背景として、7世紀後半 国が滅び 大量に亡命していた百済遺民の後押しがあったのではないかと一説には憶測されていた。


藤原不比等———武智麻呂(南家)

      |-房前(北家)

      |- 宇合(式家)

       ∟- 麻呂(京家)

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