第4話 正史『日本書紀』の成立事情
日本神話や古代天皇の事跡等を記した正史『日本書紀』は、養老4(720)年 第44代
もともと『日本書紀』は、第40代 天武天皇が 古代史上最大の内乱 壬申の乱(672年)で時の政権に反逆したことを正当化するために編纂を開始されたと考えられているが、そこから完成までに 実に 50年余りの月日が経過していた。英雄 天武天皇崩御(686年)の時から数えても30年以上 編纂に期間を要している。
正史『日本書紀』が撰上された時の天皇である元正女帝は 天武の孫にあたり、また『日本書紀』の編纂責任者 舎人親王は天武の皇子である。このことから、一般に かの書物は 天武天皇のための歴史書であると見受けられている。
だが、その史書は 天武天皇ではなく、その次代 持統女帝(第41代)が 孫である文武天皇に皇位を譲る場面で終わっていた(697年)。中国等においてみれば、歴史書の最後を飾るのは前王朝最後の王あるいは新王朝の初代という特別な存在だった。
ちなみに、持統女帝は 第38代 天智天皇の娘であり、かつ天武天皇が壬申の乱で滅ぼした大友皇子の姉に当たっていた。そして、天武天皇の崩御後、彼女を援けたのが 藤原鎌足の次男
余聞だが、『日本書紀』は伝存する この国最古の正史であり、全30巻。漢文で起こった出来事を年代順に記している(編年体)。
ついでに言えば、もうひとつの歴史書『古事記』は 神代〜第33代 推古女帝までの期間を和漢混交文・紀伝体で記し、712年に完成したとされている。
なお、持統天皇の譲位は 皇極天皇(第35代)に続いて二例目だが、法令の都合で日本史上初の太上天皇(上皇)の称号を得たのは持統天皇である。彼女は 孫への譲位後、大宝律令が制定された翌年に亡くなった。
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