第3話 大化の改新

 藤原氏の祖 中臣鎌足は 7世紀半ばに起きた古代史上最も著名な政変とそれに続く改革でその名を歴史に残している。

 以前は、主に当時 専横を極めていた蘇我入鹿を宮中にて暗殺した事件を指して"大化の改新"と呼んでいたが、現在は 蘇我入鹿暗殺事件とそれに続く一連の改革を分け、前者を"乙巳の変",そして後者を"大化の改新"と呼び表している。

 ちなみに、最近 元号が変わったが、日本における その端緒が"大化"という元号である。

 ついでに言うと、かの政変に伴い 日本史上初の譲位も行われている(皇極【第35代→孝徳【第36代:軽皇子】)。この辺りの時代は(6世紀末〜8世紀初)、他にも"天皇"の称号や"日本"という国号が使用され、さらには防衛線が ある程度 設定されるなど、まさに この国の方向性・ひな型が形造られた時節だった。


 正史『日本書紀』によれば、中臣連鎌足は 政変の同志として はじめ時の天皇の弟である軽皇子を考えていたが、頼むに足りず、終局,時の天皇の皇子であった中大兄皇子,後の天智天皇(第38代)と結んで要人暗殺を敢行している(645年)。鎌足と中大兄皇子の出会いの場面は、蹴鞠で中大兄皇子が飛ばした靴を鎌足が拾い上げ差し出すという印象的な一駒して大々的に描かれていた。

 蘇我入鹿暗殺後、日本初の元号が定められ また 改新の詔が発せられて、公地公民や班田収授法が採用されたと伝わっている。そして、これらの政策に 鎌足は深く関与したと考えられている。

 ただ、現在いまとなっては、これらの改革は 本当にあったかどうか疑問が呈されている。というのも、当時の木簡などから その実態がうかがえないからだ。かの改革から約半世紀後に"大宝律令"が制定されているが(701年)、それが遡って 大化の改新の記録として使われたのではないかと一説にはささやかれていた。

 かようなことが憶測される背景として、正史『日本書紀』の特殊な成立事情がわだかまっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る